敬愛する長兄の婚約を心から祝う末弟の受難
プラシド・フェランディスは公爵家の三男である。
フェランディス家は公爵家という身分ではあるが、代々権威を笠に着るなどということは微塵もない家風だ。
王国に誠心誠意仕えることを旨とし、民は宝であると考える。
うかうかしていると王家よりも人気が増してしまうので、王族は公爵家を見て襟を正す、と言われるほどだった。
現公爵の子は三人。
いずれも男子である。
長男ベネディクトは法務大臣補佐として政治を支える立場にある。
長年秘めた恋をこのほど実らせ、幸福の絶頂にあった。
だが、彼は仕事が忙しすぎて、なかなか時間がとれないのが悩みだ。
このままでは婚姻後も妻となるエルミニアとゆっくりする暇もない。
これはいかん、ということで、なんと嫡男の座を降りることを決意した。
確かにベネディクトは一族始まって以来の有能さで知られる。
将来は法務大臣になるであろうし、ことによっては宰相になるのでは、とまで言われている。
そのような彼に、更に公爵家一族の長としての負担を課すのは酷であろう。
嫡男辞退は一族会議で了承された。
さて、順当に行けば、次男に移行するべき後継ぎ問題である。
しかし、次男であるアルセニオもまた辞退することを明言した。
彼は武術に優れ、成人後は王都の騎士団員になった。
しかし、しばらく前に南の隣国との衝突危機があり、辺境伯領への援軍部隊に志願したのである。
そこで、後方支援のために働いていた辺境伯家令嬢と出会い……結果、帰ってこなかった。
辺境伯家は令嬢の兄が継ぐので、婿入りではない。
だが現当主と次期当主から『辺境伯軍は君に任せる』と頼まれてしまったのである。
婚約者を得、職を得、戦がなければ気候も良い辺境の地がすっかり気に入ってしまったアルセニオ。
これまた一族会議は、彼の決断を認めた。
辺境を護る仕事。間違いなく立派な国家貢献であるのだから。
さて、そうなると残るは三男のプラシドだ。
彼はまだ十四歳。
次男のアルセニオが武力系なこともあり、長男の補佐、スペアとして日々勉強していた。
プラシドも公爵家の家風と血を継ぎ、充分に優秀ではあった。
しかし、ベネディクトの突出した才能を目にしていては、どうしても後ろ向きな考えが浮かんでしまう。
「ぼ、僕が後継ぎ、ですか!?」
そう告げられたプラシドは驚愕した。
「ベネディクトは今でも忙しすぎる。
今後、当主となった時に十分な目配りをするのは無理だと、本人が言うのだ。
それは薄々分かっていたが、お前が補佐すれば何とかなるとも思ったのだ。
しかし、どうせお前は補佐として縛り付けられることになる。
ならば、いっそのこと自身が当主になっても同じことではないか?」
父である現公爵にそう言われたが、とても同じとは思えない。
誰かに言われたことをやるのと、やることを誰かに言いつけるのと……。
その差は大きいなんてものではないのだ。
何より、責任の大きさが違い過ぎる。
しばらく真っ白になったプラシドだったが、はっと我に返ると声を上げた。
「もちろん、クレトは譲ってもらえますよね?」
ベネディクト付きの執事クレト。
彼の能力は実力派ぞろいの公爵家の使用人中でも一番だ。
「済まん、プラシド」
「兄上!?」
プラシドはまたも驚愕した。
あの兄が、自信満々で実力も満々の彼が、頭を下げたのだ。
「クレトは渡せない。彼がいなかったら、私はエルミニアに明日贈る花も選べないのだからな!」
まるで国家機密より重大そうに聞こえる、切実な声音だった。
プラシドは意外に思う。
「兄上でも苦手なことがあるのですね」
ベネディクトは苦笑する。
「得意な事より、苦手なことの方がずっと多い」
「そうなのですか?」
「ああ、得意なことが少しばかり目立つから、何でも出来そうに見えるだけではないか?」
「……そうなのかもしれません」
兄を見る目が少しだけ変わりそうな気がした。
「プラシド、そういうわけだから私を助けると思って、後継ぎを引き受けてもらえないだろうか?」
「……わかりました。
兄上と比べられてへこんだ時には、励ましてください」
「もちろん、出来るだけ手助けはするつもりだ。
だが、へこんだ時は私よりも、自分が好きな女性に励ましてもらった方がいい」
「そういうものですか?」
「そういうものなんだ」
兄が柔らかく笑う。
やっと婚約者を得た兄は、前より少し身近になった気がする。
プラシドは、長兄ベネディクトを尊敬してきた。
兄は天才かもしれないが、努力する姿もたくさん見てきたのだ。
自身のことは全て後回しだった兄が、やっと掴んだ幸福を応援せずに弟は名乗れない。
後継ぎの座を上手く埋められる自信はないが、出来るだけのことはしなくてはならぬ。
プラシドは、覚悟を決めた。
「そういうわけで、僕はお見合いをしなければいけないのです」
数日後、公爵邸の東屋ではプラシドと、彼の長兄の婚約者であるエルミニアがお茶をしていた。
従姉弟同士のふたりは小さい頃から交流がある。
急遽公爵家の後継ぎに決まったプラシドには、騒めく貴族家界隈から釣り書きが殺到した。
慌てて決める必要はないが、社交の経験にはもってこいだ。
そう言って、両親に見合いを勧められた。
「エルミニア姉様、お見合いの時、相手の方と何の話をすればいいのでしょう?」
「そうですね。……相手の方がお好きなことを訊ねてみてはどうでしょう?」
「好きなこと?」
「会話の糸口にもなりますし、語る様子で多少なりとも人柄がわかるのではないかしら?」
「なるほど」
その教えに従い、数人とお見合いをしてみたプラシドは今、その成果を自室でメイド相手に披露していた。
「一人目の令嬢にドレスが好きですわ、って言われてドレスメーカーに連れて行かれたんだけど、彼女の好きなドレスはどれもすごい値段で驚いた」
「二人目の令嬢は、宝石が好きですわ、で……」
「三人目は、外国の植物に凝っておりまして、と……」
どの令嬢も、公爵家の財産を当てにしています、というわかり易さだけは良かった。
「確かに、エルミニア姉様の言うとおりだ。
好きな物を語らせると、人柄が出るね」
向かい合うメイドは、お菓子を頬張りつつちゃんと聞いていますよとばかりに、ときたま頷いていた。
「君は本当にお菓子が好きだよね、キキョウ」
黒目黒髪のメイドはニコリと笑う。
はー、物静かで可愛いなー、とプラシドは内心ドキドキだ。
このところ、グイグイ来る令嬢の相手ばかりしていたので余計に染みる。
一年前に屋敷に来てメイドとなったキキョウは、使用人の中でも一番年下の十二歳。
初めて見た時あまりに可愛くて、プラシドは心臓が止まるかと思った。
普通、メイドは主人家族と向かい合ってお茶をしたりはしないものだ。
だが、プラシドのたっての希望で彼の自室に限り、一緒にお茶することを許されている。
末っ子は甘えん坊と相場が決まっているが、フェランディス公爵家では、愛されてはいても、甘えられる隙はほぼ無い。
その辺りを狙い、末っ子オーラを振り絞って両親に頼み込んだ。
その結果、貴族屋敷に慣れないキキョウがマナーを学ぶのにも役立つだろうと指導のメイド込みで許可された。
一年が経ち、キキョウはすっかりマナーが身に付いた。
そして、十四歳の健康男子プラシドは己の下心を自覚し始めていた。
もちろん、部屋の中にはキキョウの先輩メイドも従僕もいて、微笑ましい二人をいつでも見守っている。
もしかしたら、いやたぶん、微笑ましく見守れる範囲の行動でお願いいたしますね、という無言の圧力をかけているのだろう。
年若いながらも、キキョウは仕事に対する態度は真面目で呑み込みも早い。
寡黙な質だが、お菓子をあげるとまん丸な目をして真剣に見つめ、美味しいかと訊けばコクリと頷く様子が堪らず、使用人皆でついつい餌付けをしてしまう。不思議な少女である。
「君みたいな、欲のない女の子が好きだな。
あ、いや、欲はあってもいいんだけど。
ドレスや宝石って、いくら持ってても、また欲しくなるんだって。
お菓子も、また食べたくはなるけれど、それは、お腹が空くって理由があるから……」
プラシドがそう言うと、キキョウは目を見開き、手に持っていた焼き菓子を自分の皿に戻した。
それから立ち上がり、頭を下げると部屋から出て行ってしまう。
残されたプラシドは、酷く狼狽えた。
「……え? 僕、何か悪いことを言ってしまった?」
「いいえ、何も。
プラシド様、キキョウの様子は後で私が見ておきますので、お気になさらず」
メイドが宥める。
「う、うん、頼むよ」
プラシドは落ち込んだ。
ちょっと遠回しだけどキキョウに好きって、うっかり言ったのがいけなかったのだろうか?
好きな女の子に嫌われてへこんだ時は、誰に相談すればいいのだろう。
公爵邸の広い庭。
本邸から少し離れた木の下で項垂れていたキキョウを見つけたのは、エルミニアだった。
婚姻の前に伯爵位を継ぐ予定のベネディクトだが、仕事で王都を離れることは出来ない。
領地はこれまでの管理者に任せ、王都での住まいも安全を考えて公爵家の敷地内にある離れを使うことにしている。
少しずつ手を入れている最中の建物を見に来たエルミニアが、一人で佇むキキョウに気付いた。
「キキョウさん?」
何度か呼んだ後、やっと顔を上げた少女の頬には涙の跡がある。
エルミニアは伴っていた従僕の一人に告げた。
「離れの改装についてキキョウさんに意見を聞きたいから、少しお借りすると伝えてくださる?」
早くキキョウに会って、立ち去った理由を訊き、自分が悪いなら謝りたいと思っていたプラシドだったが、彼女に会えたのは翌々日の夜になってからだった。
フェランディス公爵家の談話室にはベネディクト、プラシド、エルミニアとキキョウの四人が集まっていた。
「プラシド様、ごめんなさい。勝手に席を立って……」
「僕も、ごめんなさい。急に好きとか言って……嫌だった?」
「いいえ、嬉しかった、です」
「ほんとに?」
「ほんとです。嬉しかったから幸せで。そしたら、思い出して……」
キキョウは、涙ぐみそうになっていた。
「キキョウ……」
「プラシド、彼女のことについて、少し説明しよう」
「兄上?」
ベネディクトが真面目な顔を弟に向ける。
「キキョウは遠い東国の生まれだ。
小さな国が乱立している島国で、争いの中、郷を追われた。
国を抜け出した時には何人もいた同郷の者も、はぐれ、または力尽きて数を減らしていったそうだ。
この国までたどり着いたのはキキョウと、彼女を連れていた老人のみだった」
東の国境で保護された数日後のこと。
『この子を生かしてください……』
そう言って、老人は亡くなった。
「東の辺境伯は夫人を亡くされていて、女手が足りないからと彼女を公爵家に預けたんだ」
「キキョウ……大変だったんだね」
「旅の途中、食べ物を分けてと言ったら、石を投げられました。
お爺は、なんとか手に入れた食べ物を、わたしにくれて。
自分のことは、いつも後回しにして……」
キキョウは項垂れた。
「ここは温かい。みんな親切で、わたしは幸せ。
でも、わたしを生かしてくれた人たちは、お腹を空かせたまま死んだ……」
ソファで隣に座っていたエルミニアが、そっとキキョウを抱き寄せた。
しばらく、あやすように背中を撫でていたが、彼女が落ち着いた頃合いで控えていたメイドに声をかけた。
「もう休ませた方がいいですわ。
キキョウさんのお世話をお願いします」
「畏まりました」
メイドは、キキョウの肩を抱くようにして、大切そうに連れていく。
「僕はキキョウを護りたい。お嫁さんにするなら彼女がいい」
プラシドが勢い込んで立ち上がる。
「……でも、公爵の後継ぎになった僕では、彼女を幸せにするのは無理かな」
「いきなり諦めるとは、意気地がないことだな」
「兄上?」
「本気なら頑張ってみたらどうだ?
お前も、彼女も、婚約者がいるわけでもないのに」
「でも、身分が……」
「あら、プラシド様、彼女は異国から来たのですよ?
この国の平民とは、少々状況が違いますわ」
「状況、とは?」
ベネディクトが興味深げに訊ねた。
「本で読んだことがありますわ。
かの国では一部族で国を名乗ることもあるとか。
それでしたら、生き残りのキキョウさんは亡国の姫とも言えませんか?」
「そう言い切れなくもない、か?」
「遠方の亡国について、真実を調べる術は誰にもございません。
出自についてグダグダ言う方がいても、びしっと黙らせるようなプロフィールを用意しておきましょう」
「エルミニアも少し悪いところがあるね」
「お嫌いでしょうか?」
「まさか」
「兄上? エルミニア姉様? 僕、席を外しましょうか?」
「いや、気遣いには及ばない」
ベネディクトは、エルミニアの方に乗り出しかけた身体を戻した。
「キキョウさんは、まだ十二歳ですもの。
お仕事の覚えもいいと聞いておりますし、淑女教育もきっとうまく行きますわ」
「そういうことか」
「え? どういうことですか?」
ベネディクトは納得した顔をしているが、プラシドは進む会話について行けない。
「うちの母が常々申していますの。
孫である兄の子は二人とも男の子ですし、また女の子を育ててみたいって」
「君を素敵な淑女に育てた母上だ、期待できるな」
「ベネディクト様、お褒めの言葉ありがとうございます。
わたしも可愛い妹が来てくれたら嬉しいですわ」
「えーと?」
「プラシド、お前の嫡男就任を祝って、最高の人参を用意してやる。
楽しみにしていろ」
キキョウとは和解できたものの、蚊帳の外に置かれたままのプラシドである。
翌日のこと、騒がしい気配に気づいたプラシドが外を見ると、馬車が何台も訪れてご婦人方が降りてきた。
かなりご高齢の方から、若くてもおばさ……いやいや、おばさんは駄目だ。
父上に常々言われている。
『女性を敵に回したら、人生は終わると思いなさい』
ご婦人の中には、エルミニアの母の姿もあった。
翌朝、プラシドは父、フェランディス公爵に呼ばれた。
「昨日、臨時で一族会議が招集された。
そこで、キキョウをお前の婚約者候補とすることが決定された。
彼女はバラーダ侯爵家の養女に迎えられる。
会議の後、キキョウと話して本人の了承も得ている」
「父上、一族会議って……」
「今は知らなくても良いことだ」
困惑するプラシドの表情がまだ子供っぽく見えて、つい緩みそうになる頬を引き締め、父が告げる。
「肝心なことは、キキョウ嬢はお前の婚約者候補、だ。
婚約が決まったわけではないぞ」
プラシドは青くなる。
ただでさえ可愛い彼女が淑女教育を受ければ、非の打ち所のない令嬢に成長するに決まっている。
「彼女のような可愛い人、社交界デビューしたら有象無象に言い寄られてしまいます。僕みたいな平凡な男子は見向きもされなくなるかも……」
「では、後継ぎ教育を頑張って時間を捻出し、彼女を喜ばせる努力を重ねるのだな。一日の長を無駄にするな」
「はい! そうですね。頑張ります!」
ニンジンはぶら下げられた。
プラシドは走るのみ、だ。