9.潮騒の食事
二人は、砂浜を歩いていた。
アオイは滑らかに先に進んで行く。
茜はその後ろをついて行くので精一杯だった。
砂に足をとられ、今にも転びそうになる。
空は紅色に染まり始め、アオイの長い髪が、潮風にゆれる。
「アオイ姉ちゃん。どういうこと。湊の話が嘘だって言うの?」
「湊くんにとっては、真実なんだろうね。ただね、私から言わせてもらうと、栄養不足による幻覚と、集団ヒステリーだよ」
屋外の日の光の下でアオイの姿をみたのは初めてだった。
茜は内心、驚いていた。
今までこんな事は一度もなかった。
いつも茜との食卓が、アオイの居場所だった。
「湊くんは、ノイローゼ気味の優斗くんに引きずられて、知らず知らずのうちに神経質になっていた。心ない大人の冗談を真に受けて、二人は幻覚を見る。湊くんのほうは、もともと摂食障害気味だったようだね。栄養失調から自律神経が乱れ、幻覚の頻度は増す。優斗くんは特に症状が深刻だった。そして湊くんは、罪悪感から、幻覚を共有する」
ぽつんと、向かう先に屋台が見えてきた。
「湊くんはわからないものが怖いんだろうね。理解できないものが怖い。だから、恐怖から逃げ出すために、あちらこちらから話をひっぱてきて、つじつまが合うように、説明がつくように、一生懸命『お話』を組み立てた。それこそバラバラの肉片を集めるみたいに」
「そんなこと——」
「ねえ、茜ちゃん」
そこでアオイはくるりと振り向いた。
「ニュースで、見つかったバラバラ死体が消えたとか動いたなんてやっていたかしら?」
「それは……聞いたことないけど……」
「警察が隠しているのかもしれない? そうかしら? 湊くんのお話は、まあまあってところだね。足りないピースを補うために、無理矢理のところがありすぎるわ」
どこか乾いた口調のアオイに、茜は今までにない距離を感じた。
(なんで? アオイ姉ちゃん、なんでそんな事言うの?)
「じゃあ……じゃあ、二人の口から飛び出したハエは?」
「気のせい」
「優斗が登校中に、カラスが落とした肉片が動いたのは?」
「中にウジでもいたんじゃない?」
「学校に着く前に、また肉片がいたっていうのは——」
「車にひかれた鼠か何かの死骸でしょ」
「それじゃあ、バスに乗る前に見たのは——」
「遠目だったんでしょ? そんなの、見間違いよ」
「でも、バスの後ろの窓にぶつかってきた——」
「鳥よ、鳥。翼を広げた鳥って、ずいぶん大きく見えるのよ」
頭ごなしに否定され、茜はだんだん腹が立って来た。
「百歩譲って、二人は、栄養が足りなくて幻覚を見たとして、あたしはどうなるの?」
茜はアオイに詰め寄った。
「あたしは、しっかりとご飯を食べていたよ。栄養失調でもない。それなのに、どうして幻覚を見るの? おかしいじゃない」
「ふん」
アオイは、鼻を鳴らす。
「わかるでしょ、茜ちゃん。あなたは、見えなくてはならなかった。幽霊は見えるのに、呪われた肉片は見えない、そういうわけにはいかなかった」
夕日に染まる空と海。
潮の生臭さが、ねっとりと身体にまとわりつく。
「茜ちゃんたちは子ども。現実と妄想の境が、今日の空と海のようにあやふやになる、そんな子ども。どこまでが空で、どこからが海か。何が妄想で、なにが真実なのか」
二人は屋台のそばまでやって来た。
看板も、のぼりもない。
ただ、肉の焼けるいい匂いが、漂ってくる。
アオイに促され、茜は屋台の前にたつ。
ワニのエプロンをつけた男が「いらっしゃい」という。
これが、二人の言っていた例の男か。
「お嬢ちゃん、一人かい」
「……一本ください」
「おう。待ってな」
茜は、男をまじまじと見た。
「なんだ、お嬢ちゃん、おれに見とれてるのか」
男は軽口を叩く。
——普通の男だった。
優斗や湊から話を聞いたときは、怖い男なのだろうと思った。
気味が悪く、怪しく、得体の知れない男なのだろうと思った。
本当に普通の男だ。
あごにこびりついたような無精髭。
大きな目はひょうきんそうにキョロキョロと動いている。
つけているエプロンのイラストも、悪趣味というよりは、コミカルな印象だ。
「ねえ、おじさん。どうして看板がないの?」
「おう。実はな、この屋台は、おれが親戚から譲り受けたもんなんだ。てっきり、よぅ、看板やらのぼりも用意してくれるもんだと思ったら、そんくらい自分で用意しろってな。めんどくせえから、このままでやってるのよ」
「看板のないお店なんて、普通はないよ」
「そこがおもしれえだろう。珍しさに、口コミで広まって、テレビ取材がくるかもな。そうしたら、おれは言ってやるのよ。この、肉の香りが、一番の看板ですってな」
男はにやにやと締まらない顔で笑う。
目の前にいる男が、湊の言う人殺しなどという大層なことを、果たして出来るのだろうか。
出来ることと言えば、子ども相手に口から出任せの冗談を並び立てることぐらいだろう。
「あいよ。まいどね」
串を受け取ってお金を払った茜は、アオイの元に駆け寄った。
「お嬢ちゃん一人? だってね」
アオイが笑う。
「うん」
「あの男、私が見えてないみたいね」
「うん」
「なんでかしらね」
「それは」
「それは?」
「アオイ姉ちゃんが」
「私が?」
茜は、潮風にさらわれそうなほど、小さな声で言った。
「アオイ姉ちゃんが、幽霊だから」
アオイは、「ふん」と言って、優しく微笑んだ。
「違うでしょ、茜ちゃん」
「違わないもん」
「いいえ、違うわ」
幼い子どものように、茜はいやいやと首を振った。
それでも、アオイの優しい声は、耳に滑り込んで来る。
「私は、幽霊なんかじゃない。幽霊なんていないもの」
聞きたくなかった。
「私は、お姉ちゃんなんかじゃない。茜にお姉ちゃんなんて元からいないもの」
独りはいやだった。
部屋に独りでいると、いろんな音が大きく聞こえるのだ。
たとえば冷蔵庫などの電化製品の音。
たとえば物を食べる時の咀嚼音。
たとえば近所の犬の遠吠え。
たとえば水道の水漏れの音。
「私が小学校の教師を目指していたのも、私が宮沢賢治を好きなのも、私が演説好きだというのも、私が鼻を鳴らすクセがあるというのも、私が死んじゃったあなたの姉の幽霊だというのも、私がアオイという名前だというのも」
怖い。
「全部、あなたの妄想だもの」
茜は静かに泣き出した。
自分でも間抜けな格好だな、と思う。
涙をポロポロ流しながら、右手の袖で鼻水を拭き、左手はしっかりと肉の刺さった串を握りしめている。
独りで食べる食事はいやだった。
お姉ちゃんを生んでくれていれば良かったのに。
そう母に言ったことがある。
クラスメートのよっちゃんに、年の離れた姉がいることを聞き、それがうらやましかったのだ。
母は笑って「無茶を言わないでよ。どう頑張っても、あなたはお姉ちゃんには会えません」と言った。
独りで家にいると無性に寂しかった。
食事中に、思わず、何もない空間に向かって「お姉ちゃん」と呼んでみた。
「お姉ちゃん。独りは寂しいよ」
「お姉ちゃん、独りは悲しいよ」
「お姉ちゃん、独りは怖いよ」
そう言って、温めた肉まんにかじりついた時だ。
「茜ちゃんは、寂しがりだね」
たしかに声が聞こえたのだ。
アオイが現れてからは、いや、アオイを作り出してからはすべてが変わった。
もう会えないと思っていた「姉」に会えた。
アオイは、茜の喪失感をぴったりと埋めてくれた。
「幽霊は信じるけど呪いは信じないというのはおかしな話よね。だから茜は見えたの。見えなくてはいけないと思い込んでいたから。湊くんの気持ち、茜にはわかるでしょ」
「わからない」
茜はしゃくりあげた。
「アオイ姉ちゃんがいなきゃ、あたし何も出来ない。アオイ姉ちゃんが、話を聞いてあげたらって言ったから、私、優斗たちを心配した。アオイ姉ちゃんが、友だちを大切にしなって言ったから、優斗たちと他人行儀にならないように、ずっと名前で呼んでいた。あたし、アオイ姉ちゃんがいなきゃ、何もできない」
「茜ちゃん」
アオイの声は潮騒のようだ。
静かに、胸に押し寄せる。
しかし留まることはせず、優しく引いていく。
「行かないで」
茜は、アオイの気持ちがわかった。
去ろうとしている。
茜をまた独りにしようとしている。
「茜ちゃん。知ってるでしょう。私は、あなたなんだ」
アオイは目を細めて茜を見つめる。
「宮沢賢治が好きなのは誰? 難しい解説もちゃんと読んで、将来、小学校の先生になりたいのは誰? 友だちのことが心配で、保健の先生から、摂食障害のことを詳しく聞いたのは誰?」
「茜ちゃんでしょう」とアオイは、長い髪をかきあげて言う。
「だから、ね。私が茜ちゃんから離れようとしているんじゃないの。茜ちゃんが、私から離れようと思っているんだよ」
「思ってない。そんなこと思ってない」
アオイはかがんで、足下の砂をなで「あらゆる透明な幽霊の複合体」とつぶやく。
「茜ちゃんなら、知ってるでしょう。宮沢賢治の『春と修羅』に出てくる一文」
アオイはそう言って、かがんだまま、茜に手をさしのべた。
「わたしたちはあらゆる透明な幽霊の複合体なの。幽霊なんて、無理に作り出さなくていいの。だってあなたは幽霊で出来てるんだもの。たくさんの死を食べて、それが血となり肉となり、あなたが出来上がっているの」
目の前の手を、茜はじっと見つめた。
「茜ちゃん。私を食べて」
潮騒が打ち寄せる。
「独りじゃない。あなたは、あらゆる幽霊を食べてここにいる。楽しいことも辛いことも、飲み込んで。噛み砕いて。味わって。そうやって生きるの。食べながら生きるんだよ」
茜色に染まった波が寄せては引く。
その向こうから人影が、砂浜を歩いてこちらにやってくのが見える。
ずいぶんとこわばった顔だ。
少年は恐怖に蝕まれ、追い詰められている。
彼を説得するのには、ずいぶんと骨が折れるだろう。
「茜。食べて」
髪が、潮風にたなびいた。
ふんわりと舞い上がる。
長い髪にあこがれて、ずっと伸ばしていた。
今、宙に舞うしなやかな長い髪は、幻なんかじゃない。
茜の髪だ。
今まで食べた食事が作った、茜の髪だ。
「わたしは」
茜はつぶやく。
「あらゆる透明な幽霊の複合体」
足を踏ん張って、まっすぐ背筋をのばす。
正面を見据え、左手に持っていた肉を口に持って行った。
これが、血となり、肉となる。
髪となり、爪となる。
——私を食べて。
潮騒が茜を包み込む。
「いただきます」
茜は力強く、左手に持つ肉に囓りついた。
——了——