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7.病院の食事

 病室の窓からは柔らかな日差しが差し込んでいる。


(病院って思ったより賑やかなんだな)


 面会時間がくると、同部屋のお年寄りたちの家族がやってきて、おしゃべりに興じる。

 廊下では忙しげに看護士たちが行き来し、カチャカチャと器具を運ぶ音がする。

 食事の時間になり、薄い味付けの食事が、プラスチックのお皿に入れられて運ばれて来た。


 優斗はぼんやりとお盆の上の皿を眺めながら、ここ数日のことに思いをはせた。

 過ぎ去ってみると、まるで夢を見ていたみたいだ。


 湊の家で倒れた優斗は、その後、病院に運ばれた。

 湊が、海に行くためのタクシーのことを思い出し、急いで階下の運転手を呼んで、優斗を運んでもらったのだ。

 運転手は、人の良い初老の男で、優斗たちぐらい孫がいるらしい。

 優斗の親が来るまで、親切にも病院に付き添ってくれた。


「なんともなくてよかったよ。本当に」


 顔をくしゃくしゃにして帰って行った、と後で茜が教えてくれた。


(ちゃんとお礼言わなきゃな)


 意識が朦朧としていたので、何も覚えていない。

 後できちんとお礼を言いに行こうと決めた。


 優斗は、大事をとって入院ということになった。

 栄養失調により、衰弱がみられるものの、命に別状はないとのことだった。

 このまま順調に回復すれば、週明けには自宅に戻るそうだ。


 優斗は何も話さなかった。

 ただ「ダイエット中で」と学校と同じ嘘をついた。

 ここしばらく、肉を食べてなかったことを話すと、担当医は目をつり上げて、食物栄養素について詳しく書かれたイラスト入りの冊子を渡してきた。


 同じ物を両親にも渡したという。

 病院に運ばれたという知らせを受けて、両親は飛んできた。

 父親は、自分が倒れんばかりに青い顔をしていた。

 医者から説明を受け、ひとまず母親は入院の手続きをしに受付へ呼ばれた。

 父はその間ベッドの傍らに座り、優斗の手を握りながら「すまん、すまん」と繰り返していた。


(なんで父ちゃんは謝るんだろう)

(人魚の呪いは、父ちゃんのせいじゃないよ)


 優斗は口には出さなかったが、心の中でつぶやいた。


(ただのダイエットだって言ってるのに)


 本当は、父親の気持ちが全くわからないわけではなかった。

 母がいないときに謝るのだから、まあそういうことだろう、という気はした。


 その日は遅かったこともあって、翌日改めて必要な物を持ってきてくれることになった。

 湊も茜も、それぞれの家族が心配するからと、看護士たちに半ば追い立てられるようにして帰って行った。


「優斗、入るよ?」


 声がして、カーテンが開けられた。

 母が、にこにこして立っている。

 後ろから父と二人の兄弟が顔をのぞかせる。


「ご飯、ちゃんと食べているようね」


 空になったお皿を確認するように母が言う。

 ぼんやりと箸を進めていたが、いつのまにか完食していたようだ。


「ゲーム、持ってきてくれた?」


 優斗がおずおずと尋ねると、「はい」携帯ゲーム機を渡される。


「ありがと。やることなくってさ」


 病院は、小学生の優斗にはとても退屈なところだ。

 何冊か漫画や雑誌も置いてはあるが、大人向けのもので、読んでいても面白くない。


「兄ちゃん、対戦する?」


 弟の卓斗がベッドに寄りかかりながら聞いてくる。

 病院のパジャマを着て、ベッドに寝ている兄の姿が珍しいのだろう。

 幾分はしゃいでいるのか、声が高い。


「いや、病院じゃだめだろ。帰ったらやろうぜ」


 優斗がそう笑いかけると


「卓斗。お兄ちゃんを困らせるんじゃないの。ベッドから降りなさい」


 ひやりとした声が降ってきた。

 母を見ると、のっぺりとした無表情のまま、卓斗をみつめている。

 卓斗は暗い顔で、黙ってベッドから離れた。


「病室では騒がないの。他の人に迷惑でしょ」


 ちらりと隣の患者に目をやり「どうもすみません、うちのバカ息子が」と柔らかくお辞儀をしている。

 もう一人の弟の雅斗は、居心地悪そうに身じろぎをし、父親は胃が痛そうな顔をしている。


(そうか)と優斗は思う。


(当番が代わったんだ)


 しかも、今の母の精神状態は、大荒れだろう。

 優斗の不摂生について、医者からかなり絞られたはずだ。

 優斗が勝手に食べなかっただけなのだが、親の管理不足を責められたに違いない。

 母は、完璧な家事をけなされたと思い、プライドはひどく傷ついただろうし、学校への説明も、肩身が狭かっただろう。


 ふと、母に怖いものはないのだろうか、と思う。

 病院の先生から怒られた時は、優斗も怖かったし、おそらくこれから学校の教師に怒られるのも気が重い。

 母もやっぱり怖いのだろうか。


「母ちゃん、おれ、ヨーグルトが飲みたい」


 ふと、優斗は思いつきで母親に頼み事をした。


「たぶん、下の売店で売っていると思うんだ。パックのドリンクタイプのヨーグルト」


 優斗がそう頼むと、母は「いいわよ。ちょっと待ってなさい」と笑顔になった。

 「雅斗、あなたも一緒に来て。お兄ちゃんの食器を片付けるの手伝って」


 母はそう言って、優斗が食べ終えた食器を手にして出て行った。


「卓斗、帰ったら、絶対に対戦しような。約束だからな」


 母が退室したのを見届けてから、うなだれている卓斗に、優斗は優しく声をかけた。

 ぱっと卓斗が顔をあげる。

 すがるような顔をしていた。


「なんかつらいことがあったら、兄ちゃん言うんだぞ。オレ戦うと強いからな」


 自分が強いかどうか、ここ数日のことを考えると苦笑いしか出てこない。


(オレ、泣いてばっかだったしな)


 それでも、卓斗の目には、頼りになる兄に映ったのだろう。

 大きく頷いてちらりと笑った。

「ちょっと、便所」いそいそと病室から出て行く卓斗の後ろ姿を見て、父がぽつりと言う。


「お前、広島のおばあちゃんには会ったことないだろう」

「うん。母ちゃんの方のばあちゃんだよね?」


 唐突な話に驚きながら、優斗は答える。

 父方の祖母は、同じ市内に住んでいて、毎年正月に会いに行っていたが、母方の祖母は、体調が悪く、遠方に住んでいた事もあって、一度も会わないまま、一昨年、葬儀に参加することになった。

 母親の涙を初めて見たのが、その時だった。


「ずいぶんとな、怖い人だったらしいんだ。本人が、何をやらせてもそつなくこなす器用な人だったから、他人にも厳しかったんだろうな」


 ぼそり、ぼそりと話す父を、優斗はじっと見つめていた。

 父が、こんな風に親戚の話をするのは初めてだった。


「母さん、昔な、一度だけ言っていたんだ。わたしはお母さんが怖いんですって。見つめ返されただけで、お前はなにを怠けているんだ、もっと出来るだろうって言われている気がして、怖いんですってな」


(母ちゃんも、母ちゃんが怖かったんだ)


「母さんの口から、怖いって言葉を聞いたのは、それが最初で最後だな」


 父は、口をモゴモゴとさせて言った。


「怖いときは、怖いって言っていいんだぞ。つらければ、そう言うんだ。お互い言い合っていたら、少しは怖くなくなるだろう。全部抱え込んでいると、うん。大変だと思うんだ」

「そうだね、父ちゃん」


 優斗は、湊と茜と三人で、逃げていたことを思い出す。

 三人で身を寄せ合った団地のことを思い出す。

 確かに、あの時は身体が震えた。


 でも、立ちすくむことはなかった。

 脚を踏み出せた。

 逃げようと思えた。


 逃げて良いんだ、と気がついた。


「父さんがしっかりしてないから、母さんは、怖いことを我慢しちゃうんだろうな。だからな、優斗たちには、母さんのことを嫌ってほしくないだ。父さんがいけないんだから」


 父はそう言って、優斗をのぞき込んだ。


「父さんがいってること、意味わかるか?」

「うん」


 優斗は強く頷いた。


「でも、父ちゃんが悪いとは思わないよ。おれ、父ちゃんが強いことも知ってるから」


 父は、『当番』にあたった子どもたちを、表だって庇うようなことはしなかった。

 それを恨めしく思ったこともある。

 でも、あとでこっそり様子を見に来てくれたり、好物のおかずを分けてくれたり、父はいつも優しかった。

 母親を追い詰めないように気を回しながら、そっと優斗たちを庇おうとしてくれた。

 父は、目をしばたたせ、「そうか」とモゴモゴ言った。


 卓斗がトイレから戻ってくると、ゲームの話で盛り上がった。

 ここしばらく、弟たちともろくに話してなかったことに気がついた。

 しばらくして、母親が戻ってきた。

 売店に行っていたはずなのに、なぜかコンビニの袋を下げている。


「売店のヨーグルト、売り切れちゃったんですって。それでね、ほら近くにコンビニがあったじゃない。だからそこまで行っちゃったの。そしたらそこにはパックのヨーグルトは置いてないんですって。だから、もう一つのコンビニまで行ったのよ」

「そこまでしてくれなくてもよかったのに」

「あら、そう。でも、こんな早い時間に売り切れちゃうなんて、売店もひどいわよね。ちゃんと見越して、補充をしておいてくないと。面会時間なんて、毎日決まってるものなんだから」


 ぶつぶついいながら、母は、鞄をあけて、持ってきたものを説明し始める。

 着替えの他に、ウェットティッシュやホッカイロまで入っていた。


(完璧じゃないものが、母ちゃんは怖いんだ)


 優斗の恐怖は、すべて消え去ったわけではない。

 でも、自分が何に怯えているのか、目をこらして見ようと思った。


「じゃあ、そろそろ行くわね。あ、あなた。帰りに先生にご挨拶していきましょう」

「うん。じゃあ、優斗。何か必要なものがあったらメールしてくれ」

「わかった。ありがと」


 優斗は、二人の弟にも手を振った。


「卓斗も雅斗も、なんかあれば、兄ちゃんに言うんだぞ」

「わかった」

「またね、兄ちゃん」


 来たときよりも、卓斗の顔が明るくなって、優斗は少し安心した。


 ふと、「連絡か」とつぶやき、スマートフォンを手に取った。

 湊からも茜からも、連絡は来ていなかった。

 優斗は心配していた。


(湊はどうなるんだ? オレはどうして助かったんだ?)


 自分だけが安全な病院にいることが、なんだか後ろめたかった。

 どうなったかだけでも聞きたいのだが、二人からの連絡はまだない。

 ため息をついて、画面を消した瞬間、スマートフォンが振動音をたてた。


「うわ。びっくりした」


 あわてて画面を見ると、湊からメッセージが届いていた。

「これから見舞いに行っても良い?」

とだけ打たれている。


(オレも会いたい。湊が無事な姿を見たい)


 優斗は息を吐き出して、返信を打った。

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