5.三人の作戦
「信じられないかもしれないけど、本当なんだ。肉が追いかけてきたんだよ」
茜はあっけにとられて話を聞いていた。
放課後になり、クラスメートは散り散りに教室を去る。
「あの男にもう一度話を聞こうと思って、昨日、海に行ってみたけど、いなかったんだ。いつもいるわけじゃないかもしれない」
優斗はともかく、湊までもが真剣な顔で話す。
「待って。ねえ、気のせいじゃないんだよね。そのハエは本当に口の中から出てきたの?」
「本当だよ」
優斗は悔しそうに言う。
「別に、信じなくてもいいさ。茜は関係ないんだから」
「優斗——」
たしなめるような湊の言葉に、優斗はそっぽを向く。
優斗の手はきつく握りしめられて、細かく震えている。
湊も、目の下にクマができ、首のあたりがげっそりとしている。
二人とも、ずいぶんと追い詰められているようだった。
茜は考え込んだ。
人魚の肉、というのは漫画で読んだことがあるので知っている。
確か、その肉を食べると不老不死になるという伝説があったはずだ。
しかし、呪われて追いかけられる、というのは聞いたことがない。
そもそも、なぜ屋台の男は、そんなものを二人に食べさせたのか?
疑問はいくつもある。
信じるのは難しく、疑うのは容易い。
(でも、アオイ姉ちゃんのこともある)
幽霊は信じるけど呪いは信じないというのはおかしな話だ。
「わかった」
茜は意を決していった。
「信じるよ、あたし」
茜の言葉に、優斗と湊は驚いたようだった。
もしかしたら、本人たちも、信じられない、という気持ちが強いのかもしれない。
「このままだと、二人とも危ないんだよね。じゃあ、助かる方法を探さなきゃ」
そもそも、茜は活発な子どもではなかった。
幼い頃は家で独りでいることにおびえ、よく一人で泣いていた。
スイミングスクールも、放課後一人でいるのがつらくて始めたような物だ。
アオイが現れてからは、すべてが変わった。
もう会うことは叶わないと思っていた人に会えたのだ。
アオイは、茜の喪失感をぴったりと埋めてくれた。
アオイは茜の強さの源だ。
アオイを信じる茜は、いくらでも強くなれる。
呪いの話を信じるほどに。
「まずは、海に行ってもう一度その男に会うのがいいよね」
「でも、歩いている途中で、やつらに襲われるかもしれない」
優斗は、今朝のことがよほどこたえたのだろう。
とても不安そうにしている。
「バスに乗っちゃうのはどうかな」
そう提案したのは湊だった。
「そこのバス停から、団地行きのバスが出ているだろう? あのバス、途中、海水浴場前にも停まるんだ。そうすれば海にも行けるよ。バスなら、あいつらも追いつかないと思う」
「それいいね」
「バスが来るのを待っている間に、やつらが来たらどうするんだよ」
「じゃあ、ネットでバスの時間調べよう。時間ぎりぎりになったら、猛ダッシュ」
そうして三人は、バスの時間まで、昇降口のところで待機することになった。
バス停は、正門を出て百メートル先の道路の反対側にある。
合図は、湊が出した。
「よし、行こう」
三人は走り出した。
優斗のランドセルがバコバコと音をたてる。
正門を飛び出したところで、バスが見えた。
「間に合うかな」
その時、小さく悲鳴が聞こえた。
振り向くと、優斗が地面に転がっている。
「優斗!」
湊と二人で駆け寄って、優斗を起き上がらせる。
「走るぞ、バスが行っちゃう」
「いたんだ、そこにいたんだ」
優斗は、口をがくがくとふるわせ、視線も定まらない。
「俺、見た…肉が、朝よりも大きくなってた…そこにいたんだ」
——ぽん。
茜は目を見張った。
暴力を嫌う湊が、優斗の頬を張ったのだ。
手袋をしていたせいで、なんだかしまらない音がした。
「走れるか」
低い声で湊が言う。
優斗は、無言のまま何度も頷いた。
先を見ると、バスはもうバス停に停まっている。
「間に合わない!」
茜は悲鳴をあげる。
バスは、音をたてて、ドアを閉めた。低いうなり声と共に、走り出す。
「待って、乗ります!」
湊が、大声で叫ぶ。
「どうしよう。行っちゃった」
息が切れる。
もう追いつけない。
三人が、絶望と共に座り込もうとしたときだ。
ウインカーを点滅させ、二十メートル先でバスが停まった。
「——どうぞ」
運転手のマイクを通した声が聞こえる。
三人は、すぐさまバスに駆け寄った。
親切な運転手にお礼を言いながら、バスに乗り込むとき、茜をふと後ろを振り返った。
——いた。
見えたのだ。
バスのだいぶ後方ではあったが、赤黒い禍々しい塊が、ずるずると蠢いているのを。
(本当だったんだ。やっぱり二人の話は嘘じゃなかった)
茜の後ろでバスのドアが閉まる。
走り出して、ようやく肺から息を吐き出した。
優斗と湊は、車内を移動して、後ろの座席へ向かっていたが、茜は気乗りしなかった。
後ろへ行けば行くほど、あの肉片に近づいてしまう気がするのだ。
二人がけの座席に、前後でわかれて座り、三人は声をひそめて話し始めた。
車内はがらがらで、自分たちの他に、乗客は二人しかいなかったが、あまり聞かれたい話ではない。
「ごめん優斗。ぶったりして」
「いや、オレこそゴメン。やつらが見えたから」
隣同士で座った二人は、モゴモゴと謝り合っている。
茜は振り返るようにして、二人の様子を見ていた。
(こんな風に三人で一緒にいるのも久しぶりかも)
スイミングスクールの送迎バスに乗って、よく三人でおしゃべりをした。
二十五メートルのタイムだとか、テストの結果だとか、先生の文句だとか、他愛もない話がとても楽しかった。
「海水浴場前のバス停ってどのくらい先なんだっけ?」
「確か、三つか四つだったと思う」
二人の会話に、茜はふと我に返る。
そうだ、思い出に浸っている場合ではないのだ。
バスはトロトロと走り、停留所のたびに停まって人を乗せる。
杖をついたお年寄りがゆっくりと乗ってくるのを三人はやきもきとしながら見守った。
「ねえ、海に着いたら、まずは走って屋台を探すんだよね」
「うん。砂浜の上に遊歩道があるだろう。そこの脇に建っていたんだ」
「いるといいけど。大丈夫かな」
ようやくバスは国道に入った。
黒々とした松の防砂林が後ろに流れていく。
ほっと息をついたその時だった。
バス後方のガラスが、音をたてた。
茜は小さく叫んだ。
他の乗客も、何事かと後ろを振り向く。
「なんだ、茜。どうした」
優斗がいぶかしげに尋ねる。
おそらく無意識だろうけれど、いつのまにか茜のことを名前で呼んでいる。
しかし、それどころではなかった。
茜だけ後ろを向いていたから、しっかりとその目で見てしまったのだ。
赤黒い塊が後部座席の後ろのガラスにぶつかり、ずるずると落ちていくのを。
「うそ……追いかけてきた」
その言葉で、二人は事態を察した。
湊が立ち上がり、運転席にかけよる。
「運転手さん。もっと早く走れないんですか」
「君、危ないから座っていて」
「あいつらが来るんだ。だから早く逃げないと」
「逃げる? 君ね、鬼ごっこならバスを降りてやってくれる?」
「さっきの音、聞いたでしょ! あいつらがバスにぶつかって来てるんだ」
「鳥か何かがぶつかったんだよ。大人しく座ってられないなら、降りてもらうよ」
強い口調でそう言われて、湊は席に戻ってきた。
乗客の目が自分たちに注がれる。
「どうする。もう海だし、降りる?」
「いや。だめだ。今降りたら、追いつかれる。もっと引き離さないと、降りた瞬間に襲われちゃうよ」
海水浴場前のアナウンスが入る。
海に行くとしたら、ボタンを押してここで降りなければならない。
「どうする湊」
「ねえどうする。降りる? 降りない?」
茜は優斗と一緒に、すがるように湊を見る。
湊は下唇をかんで静かに言った。
「よし、このまま乗っていこう」
「降りないの?」
「ここで降りたら逆に危ない。このまま乗っていって、終点の団地前で降りよう」
「そんなとこで降りて、どうするの」
「そこから電話して、タクシーに来てもらう」
「タクシー?」
思わず大きな声をあげ、慌てて口を押さえた。
他の乗客たちの視線が冷たく刺さる。
「あ、そっか」
ふと、優斗は声をあげた。
「終点の団地って、湊の家か」
茜は驚いて湊を見ると、湊は小さく頷いた。
「このまま国道を走れば、あいつらを振り切れると思う。終点に着いたら、急いで家に行こう。たぶんこの時間、親はまだ帰ってないから、電話でタクシー呼んでもバレないはず」
「優斗、金は大丈夫なのか? オレ、あんまり小遣い持ってないんだ」
「大丈夫。なんかあった時用に、三千円ぐらいは親が置いていってるから」
茜は頷きながら、湊の話を聞いていたが、ふと嫌な予感が頭をかすめた。
優斗の話だと、肉片は、初めは指先ぐらいの大きさだったという。
その次は雑巾ぐらいの大きさ。
しかし、先ほど正門のところで見た塊。
遠目だったので曖昧だが、ボールぐらいの大きさだった。
そして、先ほどバスに体当たりしてきたのは、鳥にしては大きく、子犬ぐらいの大きさがあった。
どんどんと大きくなっているのだ。
それが一体何を意味するのか。
窓から灰色の空をみつめ、茜はこっそり、自分の腕をさすった。