3.優斗の食事
「当番はきちんと守らないとだめよねえ」
朝、家を出た所でそんな声がした。
思わず優斗はびくりと身をすくませる。
「カラスも来るようになっちゃうし。ほかの人が迷惑するじゃないのよねぇ」
ネットからはみ出したゴミ袋を、カラスがついばんだのか、ゴミがあたりに散らかっている。
回収車が過ぎ去った後に散らかったゴミ捨て場を掃除するのは、ゴミ当番の仕事だそうだ。
掃除をしている主婦たちの口ぶりだと、誰かが当番を忘れてしまったのだろう。
(本当だったら当番の人じゃなくて、ゴミをちゃんと捨てなかった人が文句言われるべきなのに)
(いや、そうじゃないか。文句言われるのが当番の役割なんだ)
横目でその様子を見ながら、学校への道を急いだ。
足早に進まないと、悲しい気持ちに追いつかれてしまう。
当番がまわってきた。
それだけのことだ。
そのうち、順番が回る。
ここ最近のことを思い出すと、しゃがみ込んでしまいたくなる。
じたばたと手足を暴れさせて、わめきちらせたらどんなにいいだろう。
喉につっかえた悲しみ。
腹に巣喰った恐怖。
この二つが、今も彼を苦しめている。
ちょうど一週間前のことだ。
いつも通り食卓についた時、母親が乱暴に、優斗の前に食器を置いた。
その瞬間、彼も、彼の父親も、そして二人の弟も、皆が悟った。
当番だ。
「今日ね、みかんを頂いたのよ。前野さんから、おすそわけ」
母が、父に微笑みながら話しかける。
「覚えてるかしら。前野さん。ほら、卓斗も雅斗も、一緒に、お庭のみかんを採らせてもらったことあるでしょう?」
年子の二人の弟は、頷きながら、下を向いた。
前野さんなら、優斗も覚えている。
近所に住む、子ども好きのおじいさんだ。
庭に大きなみかんの木があり、母に連れられて遊びに行った。
慣れない高枝ばさみを持ち、支えてもらいながら、兄弟で順番にみかんを落とした。
しかし、話題は優斗には振られない。
優斗も、無理に話に入ろうとしない。
きっと、無視されてしまうからだ。
当番なのだ。
そう確信したとき、喉がつまったような、息苦しさを感じた。
優斗の母親は、普段は良い母であり、良い妻だ。
家事を完璧にこなし、昼間はスーパーのパートタイムにでている。
職場では、仕事のできる人物として、店長にも一目置かれているのだという。
しかし気まぐれに、家族の誰か一人に対して、ひどく当たり散らす時がある。
理由はわからない。
頼まれたことをやってなかったり、気が利かなかったり、後から思うととても些細なことなのだ。
体罰を与えられるわけではない。
母親はけっして暴力はふるわない。
表向きは平等なのだ。
食事だって、他の家族と何ら代わりのないものを、完璧に用意してくれた。
しかし、優斗が学校のことを話し出すと、しらじらしく言葉をさえぎって弟の卓斗に話しかけたり、優斗にだけ食事がおいしいか聞いてもらえなかったりすると、食卓はとたんに居心地の悪いものになる。
家族の笑い声が、自分をどんどんと閉め出しているようで、やたら喉が渇いた。
お茶ばかりを何倍か飲んで、食事もそこそこに席を立った。
後ろで、母が父に向かって「優斗はだめねえ」と言っている声が聞こえる。
それに対して聞こえる相づちはあいまいだった。
食事を終えた父がリビングにやってきて、優斗に「宿題見てやろうか」と声をかけてきたが、「ない」と暗く答えると、「そうか」とぼそぼそ言い、テレビをつけた。
これまでに、父が「当番」になった時もあった。
その時の母は、自分の夫のやることなすこと、すべてが気に入らないようで、一日中、邪険に接していた。
そして、当てつけるかのように、息子たちには優しく声をかける。
(父ちゃんはいいよなあ。残業だって言って、遅く帰ってくればいいんだから)
弟の卓斗や雅斗に当番が回ってくる時もあったし、優斗も何度か経験している。
まるで生け贄のようだと思う。
誰かが当番になった時、周りは何も出来ない。
なるべく、自分にまわってこないように、できるだけ母親を刺激しないようにする。
そんな時は、家族中が、椅子を引く音にすら気を配っている。
そうやって嵐が過ぎるのを待つだけなのだ。
今の母は、優斗以外にはいつもよりも格段に優しいし、冗談も飛ばす。
優斗を除けば、シチューのコマーシャルみたいに、あたたかな家庭の食卓なのだ。
優斗だけが、幽霊のように、その様子をぼんやり見ている。
ため息が、身体にまとわりつく。
喉のつかえは取れない。
優斗は首をふって、沈んでいく考えを断ち切ろうとした。
(そんなことよりも、だ)
(あの肉のことの方が緊急事態だ)
(助かる方法をみつけないと)
そう。問題は、こちらのほうだ。
ふと視線を感じて顔を上げると、思いがけないほど近距離に、カラスが止まっていて、優斗はのけぞった。
塀に止まって首を小刻みに揺らしているカラスは、じっと優斗をみつめている。
(鳩でもないのに、カラスが人間にこんなに近づくものかなぁ)
「なんだよ」
返事をするようにカラスは短く鳴くと、羽音をたてて飛び上がった。
優斗の足下に、何かが落ちる。
「うわ、危ないなあ、なんだあいつ」
糞かと思い、確認すると、足下に落ちているのは、親指ぐらいの赤黒い固まりだった。
(何だこれ)
身体を屈ませまじまじとみつめる。
(これって、まさか肉?)
そう思った瞬間、固まりがむずりと動いた気がした。
思わず飛び退く。
そして、男の言葉を思い出した。
——そいつらはな、呼ぶんだよ。残りの仲間をな。
残りの肉片が集まってきた。
体中から血の気が引いた。
優斗は駆けだしていた。
後に残されたのは、カラスの吐き出した固まりと、そこにうごめく小さな虫だった。
——第二段階は、鬼ごっこさ。
あの変なエプロンの男は、確かそう言ってなかったか。
十一月ともなると、朝は冷え込む。
風をきる耳が痛かったが、優斗は息を切らして走った。
学校に行けば、湊がいる。
入り組んだ道を右へ左へ曲がりながら、学校へと急ぐ。
この街は、三叉路が多い。「人員削減のためなんだよ」と、優斗の父が言っていた。
「戦争で見張りを立てるとするだろう。そうすると、もし十字路だったら、見張りに二人必要なんだ。こちら側の二つの道を見張る人と、その背後のあちら側の二つを見張る人」
役所勤めの、人のいい父親は、職場でよくお年寄りにつかまり、昔話を聞かされる。時々そうして仕込んできた話を優斗たちにもしてくれる。
「三叉路だと、ほら、一人で足りるだろ。背後に道がないから。だから、このあたりは、三叉路ばかりで、とても入り組んでいるんだよ」
まるでゲームの迷路みたいだな、と優斗は思う。
うねうねと入り組んだ通学路は、モンスターから逃げるゲームの舞台のようだ。
大きな道路にでた。
信号機のある横断歩道で、優斗は立ち止まって大きく咳き込んだ。
普段はこの程度の距離を走ったところで、めまいなどしたことはない。
どちらかというと、優斗は走るのが得意な方だ。
通勤のサラリーマンや、通学中の学生の視線が、ちらりと自分に集まるのがわかった。
地面がぐらぐらとゆれている。
胃袋ごと吐き出してしまいそうだった。
つい最近、学校の授業で、画像加工を習った。
湊と一緒になって自分の顔の画像を、めちゃくちゃに歪めて大笑いした。
(誰かが、オレの腹にマウスカーソルを置いて、ぐにゃぐにゃに歪めているみたいだ)
「ちょっと、見てよ、あれ」
そんな声が聞こえた。
最初は自分のことを言われているのかと思ったが、続けて「うわあ、気持ち悪い」という声が聞こえ、顔を上げた。
市内の高校の制服を着ている二人組の女子生徒たちだった。
一緒に信号待ちをしていた彼女たちは手前の道路のガードレール下を指さしている。
「車にひかれたのかな?」
「鼠? 猫じゃないよね?」
「ちょっと、もうやだよ。行こうよ」
優斗は、青い顔でそれをみつめた。
ぱっと見ただけでは、引きちぎれた雑巾のようだった。
ぼろぼろに使い古され、まるめてぽいっと捨てられたような布きれ。
しかし、日の光りに照らされ、ぬめぬめと光る様は、それが有機物であることを物語っている。
ここまで追いかけてきた。
突然肩を叩かれて、優斗は声を上げて飛び上がった。
「そんなに驚くことないじゃん」
目を丸くしたクラスメートの茜がいた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「平気」
優斗は小さく答えてから、深呼吸をした。
すぐに走り出すと、アレが追いかけてくるような気がした。
自分が気がついていることを、向こうに気がつかせてはいけない。
何故かわからないけれど、そう確信した。
何事もなかったかのように、自然に立ち去らなくてはいけない。
信号が青に変わった。
ガードレールの方を見ないようにしながら、優斗は足早に歩き出す。
「ねえ、優斗。本当に大丈夫?」
(しつこいな)
ついてくる茜に優斗は心の中でいらだった。
(何も知らないくせに。のほほんとした顔をしやがって)
学校の門が見えてきた。
アレからはだいぶ遠ざかった。
ほっと息を吐き出し、走り出そうとした途端、茜に腕を掴まれた。
「なんだよ、佐々木」
「優斗、やっぱおかしいよ。ねえ、どうしたの?」
「なんでもないって。手離せよ」
「話すまで、離さない」
周りには、通学中の下級生がちらほらいる。
こんなところで女子ともめていたなんて、同じ学年のやつに知られたら、絶対にからかわれるだろう。
「優斗も湊も、最近変だよ。何があったのか、話して」
「佐々木には関係ねえよ」
同じスイミングスクールに通っていた頃は、優斗も湊も、茜のことを名前で呼んでいた。
しかし、学年が上がるにつれ、だんだんと男子と女子の間に距離ができ始め、名字で呼ぶようになった。
名前で呼ぼうものなら、クラス中からはやされるだろう。
にも関わらず、茜だけは、「優斗」「湊」と名前で呼んでいる。
優斗の知っている茜は、一度決めた事は、何を言われてもなかなか撤回しない。
おそらく始業のチャイムが鳴ったとしても、優斗が事情を話さない限り、手を離すことはないだろう。
「放課後な」
優斗は、しぶしぶ言った。
「湊と、二人で説明する。それでいいだろ?」
約束を守らないと思ったのか、茜はまだ手を離さない。
優斗はため息をついた。
「ここじゃ話せないいんだよ。早く学校に入りたいんだ」
「どうして?」
「追いかけてくるんだよ」
「なにが?」
優斗は茜をにらみつけた。
「人魚の肉だよ」
目を丸くした茜の手を、ようやく振り払って、優斗は学校の正門へと歩き出す。
「ちょっと待ってよ。優斗。どういう意味?」
「そのまんまだよ」
(なんでオレたちがこんな目に合うんだ)
そう考えると、泣きわめきたくなってくる。
「オレも、湊も。二人とも、人魚の肉に呪われちゃったんだ」