25.ユーリのお礼
ユーリには、とても鮮烈な状況であった。
「おいチビ、座れ」
座れと言われても、この部屋に唯一置いてある椅子は、既に使われている。
仕方なくベッドへ腰掛け眼前の女性と対面すると、ダンジョンのジョンの時と同じ緊張感が身体中で駆け回った。
居ても立っても居られない、けれど逃げ出すとどうなるか分からない。不思議な感覚で目が離せない。
シースルーの袖越しに見える雲のような入れ墨。美しい造形で、粗野というより清廉な印象を持った。
艶のある短めの茶髪、整った眉と切れ長の目。スッと通った鼻筋に、魅力的な唇は、控えめに言っても美人だ。
まじまじと見たのは初めてで、こんな人が父親の友達なのかという感心もあったが、それ以上にマフィアのボスだというのが信じられなかった。
女だてらに、法律を意にも介さない無法者たちを纏め上げる人だとは……信じ難いが、事実そうなのだ。
魅力に取り憑かれ、離せなくなった目を動かして、全身をくまなく観察していると、眼前の女性は笑った。
「似てるな。面白い魔法を見つけたバードンに」
ジロジロ見つめすぎだ。
言外にそう言っているが、表情は穏やかで怒っているようには見受けられない。
ここに来る前は、お父さんに怒りを滲ませていたのに……感情のコントロールが上手い人なんだろう。
「すみません、緊張してるんです」
「そうか。で、ここは禁煙か?」
「えっ?あ、まあ、そうです」
「笑え、冗談だ」
禁煙か喫煙かなんて、決めるまでもない。子供部屋でそんなことを聞かれて、まず面食らった。断ったらどうなるだろうとビビリながらも、禁煙以外の返答を持ち合わせていなかったので、そう答えたら、冗談だとか。
冗談を言うんだ――。
人間なんだから、冗談ぐらい言うだろうけど、言うんだ。
「ハハハ」
相次ぐ驚きで開ききった口から、乾いた笑いを捻り出した。我ながら、下手な笑い方だ。
「で?お前は何がしたい?」
冗談の続きとばかりに、柔らかい雰囲気の質問だった。
意味が分からないので尋ね返したかったが、それはどうも無理そうだ。
ホロトコさんの目の色が変わったから。
質問の意図を掴むため、最近の出来事を振り返ってみた。
異世界人が宿にやってきて、一悶着あった件。それから、お母さんの事についてお父さんから聞いた件。
宿の改築や業務改善、それから……ベンケン・シャスキーさんの件。
ベンケン・シャスキーさんは商業ギルドの手先に脅されて隠れていたけど、お父さんに助けを求めて宿に来た。結局、その手先たちはこの宿に襲撃を掛けてお父さんとアーリマさんの返り討ちに遭って解決した、と思う。
ホロトコさんの質問に一番関係がありそうなのはこれだ。シャスキーさんはホロトコ商会の看板を背負う、アールガウ支店の店長さんなのだから。
何がしたい?
本職はマフィアで、裏切りには死の恐怖が霞むほど恐ろしい拷問が待っている、という噂が私でも手に入れられるぐらい出回っている。
この情報を練り込んで考えてみれば、質問の意味は何となく分かった。
要するに、シャスキーさんへどう報復したい?的なことだと思う。
それ、子供に聞きますか?
なんて言えないし、無言の時間に比例して瞳孔が開いてきてる気がするので、さっさと答えよう。
「報復なんて望みません!」
「……は?」
「ウチの迷惑なんて大した事はありません!寧ろ、ウチの財政状態を気にしてくれるいい商人さんです。どうにか助けてあげてください!」
話しているうちに胸が熱くなってしまい、私は頭を下げていた。
なぜって、シャスキーさんだけが経営難のウチに寛大な対応をしてくれているからだ。
ウチの宿は、ホロトコ商会以外にも契約している。例えば、ジャックと稲種、シュテン問屋、それから信頼と笑顔で有名なデュポン魔家具類店だ。
主食となる穀類は地域密着型の【ジャックと稲種】から。
毎日の食材や飲料は、アールガウ市内を拠点とする【シュテン問屋】から。
家具や宿の設備などに関する一切合切は、全国出店している【デュポン魔家具類店】へ。
それ以外の魔石や消耗品、魔法陣などは【ホロトコ商会】へ。
掛け払いなので、一月後の指定日にお支払いをしているのだが、最近は支払いを猶予してもらうことが多くなっている。
S級冒険者お披露目が功を奏して、稀に見る客入りがあった。そのお陰で手持ち現金の量は増えたけれど、それまで滞納していた全額を支払ったので、金庫はいつも通りの寂しさ。
一時的に客が入っても、リピーターになってもらうことはできず、赤字は垂れ流しのままだ。
また支払いを猶予してもらうしかない、そんな折に取引先から告げられたのは値上げだった。
昨今は物価高で、ちらほら値上げする店が増えているのは知っていた。どうやら皆さん、頑張って据え置き価格を維持していたみたいだが、厳しくなったようで値上げせざるを得ないと、申し訳無さそうに言っていた。
それでも付き合ってくれてるのは、これまでの取引のおかげが、お父さんの人望なのかは分からない。
けれど、限度はある。
最近はせっつかれることが多くて、誰もが口々に「上が回収しろとうるさくて……」だそうだ。
その中でもシャスキーさんだけは、値上げはおろか支払い猶予を認めてくれた上に、他の債権者へ先に支払って良いとまで言ってくれた。
私はシャスキーさんが逃げ込んだ日、グースカ眠っていた。事件を知ったのは、事が片付いた翌日だった。
ダンジョン地下でのトレーニングを試せるチャンスだったということよりも、不甲斐無くて情けない気持ちでいっぱいだった。
どうせ何もできない子供なのだと言い訳してみたが、そんな戯言では晴れない雲がモヤモヤと胸の辺りに滞留していた。
弱いまま、何もできない守られる存在であり続けようとする自分に腹が立ったのだ。
だからせめて、シャスキーさんたちが助かればいいと、そんな気持ちで頭を下げた。
「……言いたいことは分かった。たぶんお前は大きな勘違をしているから、説明してもいいか」
「え?」
「シャスキーの件は全て終わった。だから――」
「そんな!?終わった、んですか……」
「片が付いた……いや……ちっ。制裁なんかしてないし、今も店長をやってる。つーか、ガキの報復を手伝うはずがないだろ!」
「あ、え?」
「はあ……」
呆れた表情を隠しもせず、ホロトコさんは大きく溜め息をついた。
「バードンから昔のことは聞いたんだろ?で、今後どうすんのかって話だ。シャスキーのことはどうでもいいんだよ」
「昔の……お母さんのことですか?」
「ああ。バードンはあの通り、過去の清算をしたがってる。お前はどうするんだ?」
強くなる。ただそれだけだ。
お父さんに守られるだけじゃない。
外に出ても生きられるぐらい強くなって、みんなに会いに行く。
昔、私を助けてくれた人たちに。
そして色んな景色を、食べ物を、音楽を、触れ合いをしてみたい。
「強くなります」
「で?」
「冒険者になって、外の世界に出たいです」
ジッと見つめる瞳は、一切のブレがなかった。そこにホロトコさんの強さが現れているような気がしたと同時に、心の奥底まで見透かされている気分になった。
この人の前で、生半可なことをしてはいけない。嘘もごまかしも、全部だめだと思う。
そう思わせる眼力だった。
「そしたら、まずはバードンの説得だな」
「……はい」
「先に言っとくが私は手伝わないぞ」
「え?この流れは、そういう……」
「なめんなクソチビ。暇じゃねんだよ」
強力な味方が出来たかと思ったのに、少しばかり残念だ。
でもなんだか誇らしい気分だ。夢を語れたからだろうか。
張り詰めた空気も弛緩して、お互いに柔らかい雰囲気になった。
「ところで、さっきシャスキーの件だけどよ」
「はい」
「ウチの財政状態がどうのとか言ってたろ。アレはどういう意味だ」
「シャスキーさんだけが、穏便に支払いの猶予をしてくれる……ので……あー、言っちゃ不味かったですか、これ」
「は?ああ。支店のやり方はアイツ次第だ。権限も責任もアイツにあるから、どうでもいい。それよりも、シャスキーだけってのは?他はどんな調子なんだ」
「まあ、最近は催促が増えてます。今後の掛け払いは金額を上げるっていうお店さんもありますね。どうやっても商品と現金との引き換えにしたいんでしょうけど……もうちょっと待って欲しいです」
「待つと何かあるのか?」
「業務の見直しを行い、経費削減の目処が立ちました。あとひと月すれば留保してる現金が少し増える算段だったんですけど、今の客入りが続くと赤字ですね」
「……うーん、今の話はお前の考えか?それとも誰かの受け売りか?」
「……あ」
「お前の考えか。宿の財務管理は全部?」
「お父さんは大雑把なので、そうです。あの――」
「連絡用魔石は持ってるか?」
「いえ持ってませんけど」
「これ持っとけ。使い方は?」
「魔力を流せば――」
「連絡できる。念話は?知らないか……」
この魔石は私の魔力を蓄えることができて、しかも念話の魔法も必要としないらしい。
宿にある連絡用魔石は、蓄魔石に連絡用の魔法を付加している疑似連絡用魔石なので、勝手が違っていた。
私の魔力が蓄えられている内は私しか使えず、連絡先の交換も魔石同士を近づけて互いに認証しないと連絡はできないとか。
なんだかとても、秘匿性が高い気がする。
「一般に流通してる連絡用魔石と呼ばれる偽物だと、誰に盗み聞きされるか分からんからな。今後はこれで連絡する」
「連絡、ですか?」
「宿のことはお前に聞けばいいんだろ?アイツと話してると、確認する確認するで話が進まん。今後はお前に連絡するからな」
「あ、いや、そのー」
「なんだ」
「お父さんには内緒にしたいんです。一応お父さんがやり繰りしてる事になってるので」
「……それは大丈夫だ。私がなんとかする」
なんとか、内容については教えてくれなかったが、ホロトコさんに認められたのは嬉しかった。
ホロトコ商会は中堅商会の中でも、三大商会に次ぐ規模がある。そのトップに太鼓判を押されたのは、大きな自信になった。
これがお父さんの友達なんだ。
改めて考えると、不思議な交友関係を持っていると思う。
マフィアのボス、貴族、亜人さん。アーリマさんとミリスさんは、元々外国の人だし。それにお母さんは異世界人だし。
みんな私の命の恩人。
ニヤけた頬を引き締めて、背筋を正した。
「ん?まだなんかあんのかクソチビ」
正直私は、お母さんが死んでしまった悲しさしか感じなかった。お母さんの辛さや、お父さんの苦労に思いを馳せるので精一杯だった。
けれど漠然と、どれだけの犠牲を払ったのか考えることができた。お父さんの友達が、みんながどれだけの傷を負い守ってくれたのか。
友達といえる友達がいなくて、共感するのが難しかった。それでも考えた。
本人にしかその重さは分からないけれど、少しだけ理解できたと思う。
だから私は感謝している。
「……十年前、私を助けていただいて、ありがとうございました。返せるとは思っていませんが……何かの折に恩返しをさせてください」
私は立ち上がり、頭を下げた。
みんなに会ったら、必ずと。
ワイワイガヤガヤ酔っ払ってる中で言うのは、どうにも誠意が伝わらない気がしたので、今が良いタイミングだと思う。
何度もシミュレーションした文句とお辞儀をした。
「……お前に助けられるほど衰えちゃいねえけど、まあ、期待しとくわ。ユーリ」
同じく立ち上がったホロトコさんは、そう言って私の頭に手を乗せると、部屋から立ち去っていった。
世間で噂される魔物のような所業が嘘のように、その手はとても優しかった。
※※※
次の日の朝。
疲れていた私は、ホロトコさんとお話をした後すぐに眠ってしまった。目が覚めてからリビングへ向かうと、既にお父さんは朝食の準備をしていて、テーブルに料理が並ぶ。
「おはようユーリ」
「おはようお父さん。おはようございます、ホロトコさん」
「……おう」
私を一瞥して控えめに返事をしたホロトコさんは、どうやら寝なかったらしい。ずっと仕事をしていて、今ちょうど終わったのか書類を纏めているところだった。ホロトコさんは昼夜逆転の生活をしているらしく、宿の一室を借りて今から眠るそうだ。
「じゃあな」とお父さんに告げると、チラリと私に目配せをして宿へ休みにいった。
ホロトコさんを除く4人分の料理の間には2人の気怠げな頭も並んでいて、どうやら酔い潰れて眠ったようだ。
お父さんは、ワパックさんとジナキウさんを強引に起こした。頭をグリグリしながら、背もたれに体重を預けて天井を眺めている。
「お、おはようユーリちゃ、ん……」
「おはよう、ございます。ユーリ……さん」
「おはようございます」
「おはようさん。一応俺もいるぞ」
4人並んでの朝食は、ある意味賑やかだった。
私が席に着くや否や、ワパックさんは青ざめた顔でキョロキョロし始め、お父さんが指差した廊下の先へ一目散に駆け出した。
ジナキウさんは「うーうー」と呻き、天井からの光を嫌がるように、腕で目を覆ったまま動かない。
そんな2人を横目に、お父さんは朝食に手を付けたので、私もそれに倣った。
タカダさんが作ってくれる食パンと、お父さんが焼いたベーコンと卵のシンプルな朝食は、いつもと変わらない。
けれど、たまにはこうして人がいるのも良いものだ。とても新鮮で、ワクワクする。
できれば元気な時に、一緒に食事をしたいものだ。
今日の夜は、応援に駆けつけてくれた皆を招待して食事会をするらしい。その時には、二日酔いも治ってくれているだろうから、今から楽しみ。
料理はもちろん、タカダさんが作ってくれる。そのための買い出しは、お父さんが朝に済ませたそうだ。
美味しい料理に、みんなで食事会。
きっと楽しいと思うな。
「じゃあ、俺は仕事だから。お前ら飯食っとけよ!」
「おー」
「はー」
返事もまともにできない2人は、未だに天を仰いでいる。
私は、いつもよりゆっくりと朝食をとりながら、この時を待っていた。
「……食べるの遅いな。ユーリ、もしかして体調悪いのか?」
「んー……ちょっと頭が痛いかも」
今日はどうしてもお休みがほしい。
2人と色々な話がしたいからだ。
一応、私は宿の従業員ではないので、仮病を使う必要はないけれど、お父さんに根掘り葉掘り聞かれるのが嫌なので、こうして体調が悪いフリをしている。
「熱は……ないな。んー、まあ休むのはいいけど、面倒見るやつがいないしな」
チラリと見遣った2人は、私よりもグロッキー状態だ。
このままだと、従業員控室に連行されてしまう可能性が非常に高い。
それだけは、どうにか回避したいのだが……。
「うう、私が……見ましょう。体調が戻ったらちゃんと診察もします」
「あー、うーん。そうだな。ユーリちゃんは俺達がちゃんと見とくぜ」
「……そうか。じゃあなんかあったら連絡してくれ。よろしく頼むな」
「おー」
「ううー」
よし!想定した通りの展開になった。
ワパックさんはかなり私を可愛がってくれてるし、ジナキウさんはお医者さんだから、きっと面倒をみると言ってくれると思った。
勝った!
全てが私の手中にあるような、この全能感。頭脳バトルでお父さんを倒したという事実!
緻密な戦略と多彩な魔法を武器に戦う名うての冒険者、になったような姿を想像して、フォークという得物で卵の黄身を潰した。
お父さんが仕事に行ってから、三十分ぐらいは呻き声がリビングを支配していた。
もっと暗くて、腐敗臭漂う場所ならばゾンビだと勘違いするぐらいには呻いていたと思う。
「ああ、ユーリさん……体調は?」
「ジナキウさんこそ、大丈夫ですか?」
首をゆらゆらさせながらも、ジナキウさんの意識は回復してきたようだ。肘をついて顔を支えながら、どうにか私と視線を合わせてくれている。
間近で見ると、ジナキウさんが人間でないんだなと実感する。
全身が黒い服で隠れているけど、細い隙間から目だけはしっかり見える。
人間でいうところの白目が黄色くて、その中に黒い縦長の瞳孔がある。色のせいか形のせいか、獲物を狙う獣のように鋭くて、ちょっとだけ怖いと思ってしまう。
けど、声色や所作が穏やかなので、きっと慣れるはずだ。
「私は大丈夫です……ただの二日酔い……ですから」
――目が据わってるように見えるのは気のせいだろうか。
爬虫類の目をしっかり観察したことがないので、なんとも言えないけれど、まだお酒が残ってるのかな。
冒険者の皆さんは二日酔いすると、限界まで水を飲んで吐けるだけ吐いて眠ると治るとか、砂糖を舐めると治るとか、逆に酒を入れると治るとか、色んな説を教えてくれたけど……どれか勧めてみようかな。
聞きかじりの知識を伝えようか、顎に手を当てて逡巡していると、ジナキウさんは重たそうに口を開いた。
「二日酔いは……塩と砂糖を溶かした水を飲むと軽減できます。しか、し……酷く胃が荒れている場合、水分を吸収するどころか……嘔吐してしまう場合があります。なので、私は、胃を治さないと……いけないんですけど、魔力操作が上手くできなくて……」
どうやら考えを読まれていたらしい。
そうか、ジナキウさんはお医者さんだ。二日酔いの対処法ぐらい知ってるに決まってる。
どうやらジナキウさんは、酒の影響で魔力操作が不安定で、魔法を使っての回復ができないらしい。
ワパックさんもグロッキーだし……そういえば、亜人さんは魔法が得意じゃないんだった。二日酔いじゃなくても回復の魔法はできないかな。
お父さんは仕事に行っちゃったし。
そのまま放置していれば、回復するんだろうけど。
どうしてもすぐに良くなってほしいんだよなー。
ん?これって……私がやればいいんじゃないの?
回復系統の魔法は使ったことがないけれど、ジナキウさんに指示してもらいながらなら、出来るんじゃないかな。
「あの、ジナキウさん」
「どうしました?」
「私にその魔法を教えてもらえませんか?」
「んーそうですね……まあ、死ぬことはないし、いいですかね」
死ぬ……なんか不穏な言葉が出てきたけど、ジナキウさん本人が了承してくれたんだから、いいと思う。ことにしよう。
「まずは診察……なんですが今回は飛ばしましょう。お酒の飲み過ぎによる、胃酸過多で胃が荒れています。それから……吐き気も抑えたいので、胃を少しだけ麻痺させます。本来なら薬を飲んだほうが早いんですけど……麻痺薬を使うのは勿体ないので……ユーリさん?」
「む、難しそうですね」
麻痺の魔法は、只今絶賛練習中なので、全く自信がない。しかも全身を麻痺させる魔法なので、軽く胃だけを麻痺させるなんて、とても出来そうにはない。
「簡単ではありませんが……やればできますよ。ユーリさん、腕が痺れて自分の腕じゃない感覚になったことはありますか?」
「はい、腕を枕にして眠ったときに」
「それを私の胃に付与するイメージです。麻痺、というよりしびれさせる、といえば簡単そうですかね」
麻痺ではなく、しびれる。
何だか簡単になった気がする。
ビリビリして感覚が鈍くなる、あの感じを再現すればいいのね。
「胃はこの辺りです。手を当てて、魔法を掛けてください」
体を開いて、私が処置し易いように鳩尾のやや下を指さしてくれた。
言われた通り、そっと手を当てて、ジナキウさんの様子を窺う。
「詠唱はお任せします。多量の魔力を流すと、失敗する可能性が高いので、少ない魔力をゆっくりと流してみてください」
「失敗……するとどうなるんですか?」
「大丈夫ですよ。死にはしませんから」
お医者さんの言うことだし、ここは信じよう。二日酔いのお医者さんだけど。
「では、いきます」
ゴクリと生唾を飲み込み、一つ大きく呼吸して心を落ち着けた。
しびれる不快な感覚を意識して、ゆっくりと慎重に魔力を流す。そして、言葉を口にして私のイメージを脳内で反復させながら固定する。
『痺れろ』
チョロチョロと流れる水道の水が、地面にじんわりと染み込んでいくように、胃は痺れていく、そんなイメージを絶えず頭で繰り返す。
「……ユーリさん、上手いですね」
「……本当ですか?」
「はい。魔法は止めていいですよ。うん、完璧です」
私が処置した胃の辺りを擦るジナキウさんの声は、先程よりも幾分かはつらつとしている。
「吐き気がおさまりました。後は砂糖と塩を溶かした水を飲んで、体に水分を吸収させたいですね」
「私、作ってきます」
戸棚からコップを取り出し、蛇口から流れる水を汲んで、瓶から塩をひとつつまみ、コップに入れる。後は砂糖なのだが、残念ながら家には常備していない。
でもここは魔界という森の中。
蜂が巣を作ることは良くあるので、つい最近駆除した巣から蜜を絞っておいてあるはずだ。
戸棚を漁ると、やはりあった。
私が小さい頃に、ハチミツ入りの瓶に手を突っ込んで以来、お父さんはこうやって隠している。
スプーン一杯分の黄金色をコップに垂らし入れて、ぐるぐるとかき混ぜたら、麦酒よりも透き通った飲み物が完成した。
「ありがとうございます。ハチミツ、ですか?」
「はい。砂糖がなかったので……ハチミツだとダメですか?」
「いえいえ。とある国ではハチミツが薬として扱われるぐらい貴重なんです。実際、胃を落ち着ける効果もありますし、本当に完璧なチョイスですよ。いただきます」
たったコップ一杯だけど、じっくりと味わうようにゆっくりと飲み干した。
二日酔いになったことがないから、想像だけど、飲むのも辛いんだろうな。
だったらなんでお酒なんか飲むんだろう……。
「ふう。だいぶ落ち着きました。ユーリさん、ありがとうございます」
「お役に立てて良かったです」
「ところで、仮病ですか?」
「――え?」
「別に責めているわけじゃないですよ?」
さすがお医者さん。少し観察しただけで健康状態が分かるなんて、本当すごいなー。
……お父さんが抜けてるだけなのかな。
「なんで分かったんですか?」
「私の眼は特殊なので。病気はすぐに分かりますよ」
「眼ですか?」
「亜人の特性みたいなものですよ。エルフは剛力で頑丈、私の眼は特殊!分かりやすく言うと、そういうことです。それで、何故仮病を使ったのですか?」
私はエルフの例えでかなり混乱していた。
ジナキウさんは分かりやすくしたそうだけど……。
魔人の特性。まあそういうことにしておこう。
何故なら今が好機だから!
「実は、お話がありまして――」
意を決して10年前のお礼の切り出した途端、眠っていたはずのワパックさんが起き出した。
「ゔ、ん?ユーリちゃん……体調大丈夫?ジナキウに……診てもら――」
まさか起きるとは思わず、私はほんの少しだけ動揺してしまった。
もちろんワパックさんにも伝えたいし、聞かれたらマズい話でもない。
けれど二日酔いの最中、今にも吐きそうな状態の人を叩き起こして届ける言葉じゃない、と思う。
とにかく今は、元気を取り戻したジナキウさんだけに伝えたかった。
そんな私の思いを汲み取ってくれたのか、ジナキウさんはワパックさんの顔に、触れた。
ゴツン!
糸が切れたようにワパックさんの頭がテーブルにぶつかった。朝食のベーコンが跳ね上がるぐらいの衝撃だったけど……。
「……ちょっとミスしましたけど、ご心配なく」
「え?だ、大丈夫なんですか?」
「はい。ちょっと魔力操作を誤っただけです。ほんのちょっと、いつもより長く眠るだけです。ちょっとですよ、ちょっと」
ちょっと……。
いや大丈夫なはずだ!
ジナキウさんはお医者さんだし、二日酔いでも私に回復の魔法を教えられるほど思考はクリアだ。
確か、魔力操作が不安定だから自分を治癒できないとか言ってた気がするけど、きっと大丈夫!
だって、こんなにも堂々としてるんだもん。
うん、今は私がすべきことに集中しよう。
「ゴホン。10年前の事についてです」
少しだけ、ジナキウさんの瞳が揺れた。
彼女にとっても思い出したくない過去なのかもしれない。
そうだとしても、私のワガママかもしれないけど、これだけは知っていてほしいと思うから、私は言葉を続けた。
「お父さんから、聞きました。辛い中……いえ、辛いなんて言葉では表せないくらい苦しい中、私を守っていただいたと」
ひとつ呼吸を整え、乾いた口であるはずもないつばを飲み込んだ。
私が息を整える間ジナキウさんは何も言わず、静かに私の言葉を待ってくれている。
ホロトコさん以来2回目だけど、やはり緊張してしまうのは何故だろう。
バクバクする心臓の音を無視して、想いを伝えた。
「本当にありがとうございました。これから、なにかの形で恩を返していきたいと思っていますので、今後もこうしてご連絡してもいいでしょうか」
ジナキウさんは小さく息を吐いた。
私のように緊張していたのだろうか。
そして納得したように、2回だけ頷いた。
「ユーリさん、とても立派になりましたね」
「そ、そうですかね」
「はい。大人だって、お礼を忘れる人がいるんですよ。その点ユーリさんは立派です」
「ありがとうございます」
「ユーリさん、私は仲間に恵まれました。仲間のために私は戦ったのです。だから恩返しは必要ありませんよ」
「……でも、お礼だけでは足りないと思うんです」
「どうしても、そう仰るなら私のように仲間を見つけてください」
「仲間、ですか?」
「そしてその仲間のために戦ってください。そのような人間に成長してくれれば、それだけで十分すぎる恩返しになりますから」
そう言ったジナキウさんの、隠れた口元が笑った気がした。
ジナキウさんに恩を返すには、まずは仲間を探さないといけない。要するに世界を知れと、そういうことだと思う。
ジナキウさんから見た、お父さんやお母さん、ワパックさん、アーリマさんのような人たちを私は見つけないといけなくなった。
そしてピンチとなった時、命をかけて戦う、そんな強さを手に入れないといけなくなった。
全部私のためだ。
これで恩返しになるわけがないと思う。
だけれどジナキウさんは、それでいいんだと笑ってくれた。
そういう将来を見せてくれと……。
「本当にありがとうございます」




