姉の夏休み
目が覚めたときは、違和感がなんなのかわからなかった。
諸用で二日ほど家を空けた。
彼女とどこかに泊まりで出かけるとかなら良かったが、俺が二日間顔を突き合わせていたのは大学の男友達。独り暮らしの奴の部屋で、昼も夜もなく麻雀を打ち続けた。
出かける時より諭吉二枚分くらい軽い財布が寂しい。そう思って寝たのが昨日帰ってきてすぐ。
手を伸ばした先の小さな時計は八時を少し過ぎてる。
あくびを繰り返しながら台所へむかったとき、やっと違和感の正体に気づいた。いつもと音と匂いが違う。テレビの音もなければ食事の匂いもしない。四年程前からニートを始めた姉は、なぜか毎朝俺の分まで食事を用意するようになった。
それが今朝は違う。
……もう、そんな時期か。
冷蔵庫を開け、卵とソーセージを適当に取り出す。卵はといて、ウィンナーには切れ目を入れる。面倒だから一つのフライパンで同時に調理。五分も経たずに、バターの香りがする二品が完成。
「ヨウスケより先には起きるつもりだったけど無理だったか」
皿にギリギリ料理と呼べるものをよそっていると背後から眠そうな声が乗っかってくる。
「牛乳ラッパ飲みするのやめてくれ」
「飲みきっちゃうからいいでしょ」
そう言って、だらしなくボタンを開けたパジャマ姿の姉がイスに座る。片手にはノートパソコン。
あまりのだらしなさに、ついため息がもれる。
「徹夜?」
できたばかりの料理をテーブルに置き、俺も姉の向かいに座る。
「覚えてない。寝落ちした」
切れ目の入ったウィンナーを、姉はひと口で頬張る。俺はちょうど半分辺りで一度噛みちぎり、二回に分けて食べる。
「やっぱ皮付きの方がいいね」
俺は素直な感想を零す。
我が家に皮付きウィンナーが並ぶのは一年ぶり。
「けっこう儲かってるの?」
料理ではなくパソコンを睨みつける姉に訊く。さっきから箸はスクランブルエッグをつかめないでいる。
「かなりね。今年からはさらに改良したからかな」
そう言って、姉はパソコンの画面を向けてくる。
『宿題課題代行。国数英理。法学部のレポートも可。料金プランと支払い方法一覧は下記』
色とりどりの文字が踊るように並ぶ。
「姉貴レポートなんて書けるの」
「なんかね、ヨウスケが持ってくるレジュメ見てたら覚えちゃった」
ああ、そう。
「前から訊きたかったんだけどさ、なんで宿題代行なんて始めたの?」
代行のことは知っていた。だけどただの気まぐれだろうと思っていた。成績が大変優秀な姉様は、勉学が好きなだけだろうと。ところが毎年のように行い、お金までもらっている。
「復讐」
真意の読み取れない平凡な口調。器用にスクランブルエッグを運ぶ箸。
「誰に?」
聞き返すつもりはなかったのに、聞き流すことができなかった。
「うーん、日本? 世界? とりあえず未来にむけて」
皿を流し台に運んだ姉が、代わりにコーヒー入ったマグカップを持ってくる。
「前にも同じようなこと話したね。さすがに何年も前だから覚えてない? まあいいよ。些細なことだし」
言われて、どこか頭の奥で何かが光る。そんなに昔のことじゃない。でも俺が大学に入るよりは前……くらい。
俺が黙っていると、コーヒーをゆっくり飲んだ姉がうわごとのように繰り返す。
「そう。復讐、復讐」
いつだっただろう。いや、わかってる。知らないふりをする必要もない。四年前のあの日だ。
「難しいことじゃない。ずっと簡単で単純」
姉は一度大きく息を吐いて、パソコンの画面を叩いた。
「日本のできるだけ多くの学生の代わりに勉強をこなす。そうやって、少しでもこいつらの学力を低くする。前にも言ったろ? 学習を放棄して学力を落とすのは自業自得だって。それぞれがいつかはツケを払う。やっておけば良かったと後悔する。いつか、社会すらも成立しないくらいに落ちればいい」
淡淡と、教科書を音読するみたいに姉は語る。本気なのか、壮大な冗談なのか、判断できない。
馬鹿げてる。そう言いたい。なのに、姉のギラギラした光を放つ瞳を見ていると何も言えなかった。
あの目を俺は知っている。ちょうど四年前、会社をやめた日と同じ目だ。
「ヨウスケ、将来使わない分野を勉強する意味が分からないって言ってる子どもへの答え、知ってる?」
あの時、俺がちゃんと聞いていれば、姉は変わっていたのだろうか。