きみが番いであったなら
番は漢字一文字でなくあえて「番い」表記としています。
わたしがきみの番いだったなら、わたしは、自分の価値観を根底から揺さぶられることになって、想像もできない苦しみに見舞われていたかもしれないし、それまでの価値観などクソ食らえとばかりにいま現在のわたしには及びもつかない果敢さを発揮して人生を謳歌する選択をしていたということも、ありうる。だれかに一生、一心に想われるというのは、きっと幸せなんだろう。
でも人生ってなんでだかうまくいかないよね、うん。わたしの目の前で、五体投地せんばかりに足元に額づく男を見て、わたしの心は干からびる。カラッカラの空っ風が吹き荒ぶ。
恍惚と悲愴が入り交じった表情は、じつに名状しがたい。人間――――いや、この男の場合は正確には人間ではないのだが――――、時にこんなように複雑怪奇な面相ができるのかと思うと、わたしの心が複雑怪奇である。
「ちょっと離れてくれないかな」
「なにを仰るのです、やっと逢えた俺のいとしい方。あなたを想ってこの袖を濡らすというに」
「いやいや、最後に会ってから三日しか経ってねえし、それもあんたが会社の前で待ち伏せしてたからだし、つーかどこの万葉集だよ寒気がする」
ちなみに袖を濡らすとは、涙を流して泣くことの大変歴史のある情緒的な言い回し(万葉集にも出てくる)なんだが、このストーカーのような変態男に言われたところでウザさが増すだけで誰も幸せにはならない。
わたしの渾身の切り返しに、多大な甘さと苦さと、やっぱり恍惚を含めた淡い笑顔で男は応えた。
「あなたにかかれば、万葉集も形無しだ。俺の恋路は、いつも暗夜行路です。まるで迷宮をさまよう流浪人のようだ」
よくわからんが、ヤメロ。さっきから自分の心情を文学作品にちょいちょい準えるのはなんなんだ。新手の詐欺か。どうでもいいが、既にわたしの心が迷宮入りだ。
ふぁさ、と犬だかオオカミだかキツネだか他の何だか知らない、男の尻から生えるしっぽがわたしの足首に絡んだ。妙に艶めかしくて、背筋から頬にかけてゾッと緊張が走る。
「き、キモい」
「傷つきますね」
率直な感想を述べてしまった。端麗とでも評されるだろう造りの顔をした男の鳶色の瞳に、ふっと憂いが差す……が、しかし。わたしに非はない。まったくもってこちとら全面的に被害者である。
傷つくだって。上等だよ。勝手に現れて、好きだなんだとほざいてわたしの後を着け回しているのは、こいつなんだから完全に自業自得だ。責任は自分でとりたまえ。
「っていうか、なんで万葉集を知ってんの」
素朴な疑問を口にしながら、足首に絡まったしっぽを踏み潰すいきおいで存外に振り払った。にも関わらず獣人は目元を赤らめた。
「……あなたが俺に興味をもってくださるなんて」
ダメだ、会話が成り立ちません。
そもそもなんでコイツはわたしの部屋の前にいるんだ。わたしは有給をつかって、二日間の海外旅行を満喫してきた帰りだというのに。空港を出たのは昼過ぎだったが、そろそろ日暮れに差しかかろうという時間だ。はやく休みたい。
「……そしてなんでここにいる」
「俺があなたを愛しているからですよ」
どうしよう、本格的にすべてがヤバいです。
世間に問いたい。なんでわたしはこんなに理不尽な目に遭ってるんだろうか。わたしが何をしたというんだ。なんとなく、目的も目標もなく、よりどころもなくその日その日を生きていたことが、そんなにいけないことだったんだろうか。
「連理」
とても貴重な、飴細工のように繊細なものをその舌の上で転がすことにも似た、甘くも丁重な奇態で、教えた覚えのないわたしの名前を男は呼ぶ。淡雪のごとく儚い表情で、偏執的な想いを隠そうともしない男――――――
「貴様に名前を呼ばれる筋合いはない、このクソ獣人が」
なんとこの現代日本に、二十年ほど前に突如として異世界なるものから迷い込んで棲みついた獣人たちのうちの一人である。いや、数え方が「人」でいいのかは不明だし、もはや「そのうちの一人」と表せないくらいには獣人は当たり前にいる存在なのだけど。
「あなたは、俺の番いじゃありませんからね」
触れれば溶けるほどの微笑というものがあるとすれば、この男のものをこそ、いうのだろう。
「いや、それだけじゃねーし」
そんな淡雪の微笑みを見せられたところで、あいにくとわたしの心に積もる雪はない。
日本に獣人がやって来ようが、獣人たちが「番い」という名の伴侶を求めて得ることが彼らの慣習と道理と生態であろうが、知ったことではない。理不尽な物事というものは、知ったことではないことが己の身に降りかかるという災難でもある。そんなことは二十八年の人生で幾度も学んだ。しかし理不尽に理不尽が積み重なる理不尽というのは、とてもとても屈辱であると知ったのはこれが初めてだ。
最も理不尽なこと、それは、わたしがこの獣人の番いではないこと。それなのに執着されていること。
理解が追いつかない。黄昏れはじめた空にカラスが一羽「カァ」と鳴いて通りすぎた。わたしの心は不毛の大地である。
*
獣人が現代日本にやって来たのは二十年くらい前。ある日突然、異世界との道か時空かがコネクトされてなんか迷い込んでしまったらしい。どうやら異世界と日本の双方向で行き来ができるらしく、獣人たちが暮らしている異世界に定住した日本人もいる。彼らを初めてテレビで目にしたとき、その奇異な姿形にわたしは顎が外れるほど驚愕した。そして初めて間近で獣人を見たときは卒倒した(教育実習に来る獣人ってどういうこと。そしてサプライズだとかで担任教師は当日まで獣人が来ることを教えてくれなかった)。中学一年の苦い思い出である。生活環境がラノベすぎてついていけなかった。
ところで、こんなにグローバルな現代社会において獣人たちの到来が世界的なニュースにならないはずがない。獣人たちのいる異世界につながるのはなぜか日本だけであって、その謎は謎のままであるのだけど、未知の旅路を求めて異世界へ渡る地球人たちは、窓口のある日本で手続きをするためにやって来る。世界と日本に獣人たちと共生するためのいろいろな制度が設けられ、世界各地のあらゆる分野で獣人たちの姿を見ることに違和感がなくなってはや八年ほどだ。言い方はアレだが、獣人と地球人との繁殖に過不足はない。つまり恋愛も結婚もオッケーなのだ。獣人と地球人の間に生まれた子どもの人口は年々増えている。
生まれたときには既に獣人と地球人が共生する社会が成立していた世代の人々は「獣人ネイティブ世代」などと呼ばれている。世の人々は順応するのが早すぎると思うし、いまだにいろいろと意味がわからなくてわたしはしんどい。
そして、しんどいことにはしんどさが上乗せされるのは理不尽の定石なのだ。およそ二ヶ月前、なぜかわたしは、他に番いのいる獣人に求愛された。そもそも人間には「番い制度」なんかない。人生とは試練の連続である。
「あなたは、この“証”があるから俺を許してくれないのだな?」
ほとんど口癖のように、男はそのセリフを繰り返す。
忌々しいとばかりに、左手首に浮かぶ羽のような紋章を、都度、男は右手でガリガリと掻く。見ていて気持ちのいい光景ではない。やめなよ、とわたしは言う。そしてわたしも都度、繰り返す。
「許してなんて、むちゃくちゃ傲慢じゃないか。許すもなにも、わたしはあんたと関わりたくない」
そして男は昏い目で言う。こんな証がなければ、と。番いなどいなければと。来世があれば必ず番う、などなど……。
「いやいや」
この獣人が異世界の道理を恨もうが自責の念に駆られようが、そもそもおまえに興味がないのだと、何度も諭した。そして一度も受け入れられなかった。どういうことだ。ギャグか。
どうやら連中(ハイハイ、言葉が悪くてスミマセンね。なんせ獣人なんてファンタジーなものを受けとめるだけの度量なんざ、あいにくと持ち合わせていないもので)のいる異世界では、対になっているモチーフに並々ならぬ熱量をぶつけているようである。たとえば翼や羽、双子(双子信仰なる宗教めいたものもあるそうな。もういろいろとおそろしくてツッコミたくない)、わたしの名前であるような連理の枝など。どうやら獣人の対信仰のセンサー(対信仰なる言葉は、たったいま編み出した)に引っかかってしまったらしい。そこは純粋に対信仰精神をまっとうして、本物の番いと番ってくれよな迷惑なんてもんじゃねえわ。人生の航路を妨害されるレベルで不愉快である。端的に言って死んでほしい、わたしの知らないところで。サヨウナラ砂になれわたしと貴様に来世など未来永劫にない。
そしてそして、なぜどーしてそれを知っているのかまったくもって理解不能なのだが、この獣人の対概念によく登場する言葉というか和歌がある。万葉集なんだけど。
「俺は忘れ貝のようなものだな」
出たよ出ましたよこれですよみなさん。もともと対であった貝が、離れて一片だけになってしまったものを忘れ貝といい、遠く離れてしまった伴侶であったり破れた恋であったりを偲ぶ修辞である。
淡雪のような微笑はそのままに、獣人は吐息して立ち上がった。灰色の耳としっぽ、長い黒髪と鳶色の瞳。一色に統一しろやと当たり散らしたくなる激情を堪えて、今度はわたしが獣人を見上げた。
「だからおめぇの貝になった憶えはねぇって」
コイツと番いだなんて死んでも御免だが、そうであったならわたし達は幸せであったろう。何百回とくり返されたやりとりを、枯渇した心の潤いそのままにまたくり返した。
*
この羽の紋章がある俺は、あなたを裏切っていますという唐突な告白を受けたのは、三ヶ月前にわたしがこの獣人と駅ですれ違いざまにぶつかって出逢いを果たしてから二週間くらいのちのことだった。裏切っているのはわたしではなく、おまえの番いとされる伴侶をこそなのではという問いはなぜが一蹴された、改札の前で。夕刻のラッシュ時、水族館の巨大水槽を泳ぐイワシの大群もかくやという人の流れをぶった切ることをものともせず、跪いて許しを乞うた獣人ことラウル・コクトーだった。
「番い同士は、対の文様の片方がぴたりと一致します。そして理屈なく互いが番いであると認識します」
「それは、おめでとう」
引きつったわたしの顔もなんのその、切なさが限界突破した表情でラウル・コクトーはそう訴えてきた。
「本来の番いを選ばなかったことで、毎夜全身の痛みと吐き気に襲われますが、あなたは俺の運命のひとなのです」
「いやそれ死ぬフラグやん」
「この紋章を消し去ることができれば、きっと俺はあなたと番うことができるはずなんだ」
「聞けよ」
灰色の耳としっぽはうなだれ、鳶色の瞳は痛みに沈んでいる。長い黒髪は毛先までツヤツヤとしていて、シャンプーの広告塔となっても申し分ないだろう。ぶつかった獣人の顔はもちろん覚えていた。あまりにも綺麗な造りをしていたので「うわぁ」と思ったのだ。なにが「うわぁ」だったのか自分でも分析できていないが、卓抜した圧巻の美貌であったことは、この獣人に微塵も興味はないが述べておこう。嬉しくもないのだが、ぶつかった瞬間、関わりがこれだけでは終わらないのではという寒気にも似た予感があったことも付け加えておく。
「我々はこれを証と呼んでいます」
「別に訊いちゃいません」
「この二週間というもの、これを消すことができないか試行錯誤していた。獣人の一生は番いに関しての軌道を定められていて、なにを以ってしても、それに抗うことは図南の翼を伸ばすことも同義」
「仰々しいな」
「理屈ではなく番いがわかるというなら、その理屈ではないものを覆すものもまた理屈では通らないのではありませんか?」
「わたしに訊かれても困るんですが」
哲学的な問いを投げかけられてもわたしはソクラテスでもニーチェでもパスカルでもない。いや、人間は考える葦といわれればそうなのだろうけど、この問いに関してはわたしの人生の範疇ではない。
「こんな状態であなたに会えないと思い、わたしを探しているらしいあなたを駅でみかけても避けていました。でもあなたとぶつかったときの、あなたの顔にありありと浮かんだ嫌悪は、俺の心を掴んで離しませんでした」
「うわぁ」と思ったのは嫌悪だったのか、ならわたしは感情を表に出しすぎではなかろうか。というか、嫌がっている相手に惚れるとは、コイツは相当に変態の域に浸かっている。思考が狂人のそれである。さすがは獣人。……いや、これは差別的表現にあたるのか?
ともかく。コイツがそんな歪んだ性根だから、わたしは標的になってしまったのではないか。いや、謎は謎のままでいい。関わりたくない。だれからもなにからも侵されず、ひっそりと静かに生活していきたい。
「ハンカチはお返しするので、もうこれきりにしてもらえませんか」
跪く獣人に、死んだ魚の目で、わたしは鞄から異世界獣人のものであるタオルハンカチを差し出した。ちなみに紫色の花とウサギのような動物が縫われているタオルハンカチだった。数年前に地球で流行ったアニメーション映画のキャラクターだ。
……かわいい。ではなく。この獣人の趣味嗜好などどうでもいい。
駅の通路の雨漏りしていた場所でこの獣人とわたしがぶつかり、わたしがそこで足を滑らせたために転びそうになったところを支えてくれたラウル・コクトーが、雫がはねて濡れてしまったわたしのスカートをハンカチで拭いてくれたのだ。そこまではよかった。
礼を述べようと目と目を合わせた刹那、時が止まったのだ。この獣人の。嫌な予感しかしないで賞がぶっちぎりで賞。
ハンカチは洗って返したほうがいいか……などと考えていたこともわたしは忘れ、獣人が自身の名前を告げる声を振り切り、速攻でその場から逃げた。おかげで知りたくもない名前を覚え、かつ洗って乾かしたハンカチを翌日以降ずっと鞄に入れて持ち歩くはめになってしまった。また駅で会ったときに持ち主へ返して一切の関係を断ちたいが一心だった。だが二日たっても一週間経ってもぶつかったときと同じ時間帯に獣人は現れなかった。どうやらなにかを試行錯誤してわたしを避けていたようだが。
「ハンカチは受け取っても、そのお言葉は受け取れません」
そう言って、いまだ跪く男が手を伸ばしたときに、裾から覗いた男の左手首につけられた傷をみてわたしは息をのんだ。澱んだ昏い目つきで、どこか遠くに視線を投げながら獣人は笑った。
「削っただけでは不十分でしたよ」
…………もはやホラーである。
*
「連理」
いつの間にか、目の前の相手から周りの景色に視線を動かしていたわたしの意識を、獣人の声が浮上させた。どの世界の神も愛さずにはいられないだろう美貌を曇らせている。日暮れが近いことは承知していたつもりだったが、街には薄暮が迫っていた。
ビルや家、電線といった街並みは黒一色になり、赤とオレンジの雲が低く交互に重なり合って伸びる。西の空に金星が白く光り、その背後は青とも紫とも紺ともつかぬ色がどこまでも広く溶けている。夜の入り口。夕陽が夜空のドアに吸い込まれてゆく。
わたしは変態が隣に立っていることをしばし忘れ、その光景に見蕩れていた。
「ああ、きれい」
わたしは目を閉じた。いつまでもこの景色を眺めていたい、朝も昼も知らずに、この瞬間のままこの絵のなかに閉じこめられてしまえばいいのに。
当惑した空気が隣の獣人から伝わってくる。
「……ツインソウル」とわたしはつぶやいた。
「……え?」
「ツインソウルって言葉聞いたことある? この世界にはそういう考え方があるらしいよ。もともとはひとつだった魂が、この世に生まれてくるときにふたつに別れた。それでいけば、つまりわたしたちはだれかの片割れで、片翼で、連理の枝なのかもね。あなたが時々わたしに言う“忘れ貝”も」
「…………なぜあなたがそんな話をするんです?」
突然こんなことを話しはじめたこちらの様子がさすがに訝しいのか、紺と青、紫とオレンジと赤のコントラストのなかで、やや警戒した面持ちで獣人はわたしを見つめた。
「あんたがわたしの片割れだったなら、こういう夕暮れの景色をどう思うの? 綺麗だと思う? それとも、“対”なら、朝焼けや暁闇が一番好きになってると思う?」
「質問の意図がわかりかねますが」
「“忘れ貝”を引き合いに出したくせに答えてくれないの?」
バカにしたようにわたしは獣人を笑った。
“忘れ貝”は、もともと対であったものが離れて一片だけになってしまった貝のこと。貝を自分の伴侶や恋人に見立てて歌を詠んだひとの心がこちらにまで沁みてくる。
“連理”というわたしの名前は、中国の古い詩からとったものだ。「願わくは天に在りては比翼の鳥、地に在りては連理の枝ならん」
この獣人が、わたしの名前の何に、忘れ貝の何に運命を感じたのかはしれないが、わたし達が対であるなら、お互いがお互いの何かを感じとれるものなのではないだろうか。
獣人は、わたしの質問を反芻しているのか、難しい顔をして黙り込んでいる。
「……あなたは、このような景色が好きなのですか?」
「質問の意図がわからない」
わたしは至極意地悪に返した。
「あなたのことが知りたいからですよ」
ぴく、と灰色の耳を立てて怒ったようにラウル・コクトーが言った。しっぽも少し地面から浮いている。ああ、見慣れない。いつになっても。
「それに答える義務はないんじゃないかなあ」
わたしはとても空しい心もちだった。ツインソウルは、魂の片割れが嬉しいときや、辛い思いをして心が張り裂けそうなときは特に、時を同じくして自分も相手のその痛みを感じたり苦しいほど悲しくなったりするものなのだという。
わたしはこの獣人の感情の機微に揺らされたり、獣人たちを好ましいと感じることがいまだにない。それならば、お互いの縁は繋がっていないんじゃないだろうか。
「悪いけど、あなたのそれは一方通行だと思うよ」
「……あなたの心にわたしの入る余地はないということでしょうか?」
「……そうだね」
赤とオレンジの雲が夜空のドアに閉じられてしまった。わたしのいとしい時間を連れ去って、世界はまた回る。ついていけない価値観と、時間の流れにわたしは振り落とされてしまったままだ。
「どうして夕暮れの景色が好きなのか訊いてもいいですか?」
「好きだとは言っていないけど」
「あなたの顔をみていればわかりますよ」
獣人は寂しそうに片頬をゆがめた。
――――好きなものと嫌なものの記憶は、どうして表裏一体なのだろう。
初めて獣人を間近で目にすることになった前日の夕暮れの景色が、とても美しかったのだ。明日もこんな空と街を見られたら、とても幸せだと思った。それなのに、翌日にわたしの世界は壊れた。わたしが好きだった世界は去って、永遠に戻ってこなくなった。どうしても受け入れられない現実を生きていかなくてはならなくなった。
「世界が壊れる前日だったから?」
おどけたものの、多分に中二病と称されるソレ的なものである。でも、耳やしっぽだけにとどまらず、ほとんど動物だろうそれ、あるいはもはや爬虫類でしかないという見た目の獣人もいて、なおかつ二足歩行している生物が存在して当たり前だなんて、わたしには苦痛だった。小説や映画の世界だけに留めておいてほしかった。普通に電車に乗っているし、普通に買い物をしているし、普通に会社勤めもしている。年金だって保険だって加入できる。獣人の雇用機会均等法も整備されて久しい。驚くべき社会の変革である。
だからわたしは、なるべく獣人の少ないとされる場所を選び生きてきた。人生に望みなんてなかった、ただ、獣人のいない世界に戻りたいだけだった。
「あなたの世界を侵害したのですね、我々獣人は」
「わたしがこの世界から出ていけたらよかったんだけど」
「それは……、いけません。嫌です」
ラウル・コクトーはわたしがいない世界を想像したのか、麗しい容貌に沈鬱で悲痛な色をまとった。耳もしっぽも力なく主の身体に沿っている。
ラウル・コクトーは、耳としっぽだけが人間と異なる部分をしている。長い髪の色は黒、瞳は鳶色、耳とシッポは灰色という獣人にしては多彩といえる配色だった。雉の獣人なんかもいるから、そういう種と比べれば地味だが。いや、個々が地味であっても獣人たちは集まると多彩だ。とてもまぶしい。
「……出逢わなければお互いしあわせだったんじゃないかな」
「連理」
鳶色の瞳がきつくわたしに刺さった。空に残っていた赤とオレンジ色の雲のコントラストは消え、紫と青がゆっくりと紺色の層に侵食されてゆく。
「生きていることは、予期せぬことではありませんか? 俺はあの日、あなたという俺にとって未知数の存在に出逢った。ただ、それだけのことです」
「勝手に未知数にしないでくれないかな。わたしは都合のいい神秘でもなんでもないよ。わたしを“神秘という枠”にはめようとするな。あの日ぶつかったことは偶然だよ。そしてわたしの名前が連理なのも、偶然で、あんたの言う“ただ、それだけのこと”だ。あんたはあんたの運命という名の軌道を回っていればいい。でも、そこにわたしはいない」
獣人がどれだけ対という概念を愛そうと信奉しようと、それはわたしの価値観にはないものだ。連理という名前に運命を感じようが、その世界はわたしのいる世界ではない。壊れたあの世界にしか、わたしという存在はいない。
壊れたあの世界には、獣人はいない。だから、わたしたちは魂の片割れでも番いでもありえない。
「――――でもね連理。俺は、連理という名をもつあなたという人間に出逢ったんだ。初めてあなたを見て、あなたのあとを着けてあなたの生活を覗いているうちに俺にはあなたしかいないと確信した」
うん、それストーカーだけどな。そして話を混ぜっ返すなよ。心が乾いて涙もでない。
「それってさ、愛なの?」
獣人は目を瞬いた。
「参考までに訊きたいんだけど、仮定だけで吐き気がして鳥肌ものだけど、可能性はマイナスを振り切れているけど、とにかくわたしとあんたが万が一付き合うことになったとして」
「付き合うだなんて。俺に別れるなんていう概念はありませんよ」
「ちょっと黙ってろ。付き合うことになったとしてだよ、あんたはわたしに何をしてくれるの?」
この質問に、我が意を得たりとばかりに、一瞬動きをとめたものの、獣人はにんまりと笑った。
ひっ、とちょっと戦慄したわたしに、あまりにも艶やかな色気を瞳にのせた。色気とは目から目へ注がれるものであったらしい。どばどばと猛々しく、けれど一点集中、狙いはけっして外さない。番いでなくても一撃必殺である。わたしを除いて。
「――――なんでも。望みとあらばいかなることでも叶える努力をしますよ。身の回りのお世話はもちろん、あなたなしでは夜も日も明けないほどに俺のすべてはあなたのものですが、すべてを賭してあなたに尽くします。もしあなたの危険を察知すればすぐに駆けつけます。獣人はとても耳がいいのですよ。よくこちらの世界のドラマや小説にあるではないですか。番いを得た獣人の献身ぶりを描いたものが」
「えっ、やっぱりあんな感じなの」
獣人同士、あるいは獣人と人間とのロマンスは世界中で娯楽としての地位を不動のものにしている。獣人は番いにとにかく献身的である。召使いや下僕との違いがわからなくなるくらいには尽くす。番いが危険に冒されたときは騎士のごとく驚異的な身体能力でもって駆けつける。なにやら筋力聴覚嗅覚などは人間の何倍も優れているらしい。……ついていけない。
ドン引きやら驚愕やらでわたしは忙しかったので、獣人のさみしげな笑みには気づかなかった。
「……やはり、まったくといっていいほどあなたの心を動かすものはないのですね」
「…………え……?」
「日本に獣人が到来して何年になりますか? あなたが中学生だった頃にはそれなりの数はいたでしょうに。これだけ情報網が発達していて、あなたは獣人の情報にほとんどコミットしていない。認めたくありませんでしたが、あなたにとって我々は嫌悪の対象でしかないのですね」
「嫌、悪」
――――嫌悪とな。
自分の心の有りようを表す言葉は適切でなければいけないだろう。そうでないと万葉の昔から歌は詠えない。詩は書けない。きっとツインソウルの相手にだって呼応できない。
でも嫌悪だなんて。そんなの。そんなの。
「あんまりじゃないか…………」
「……っ、連理……?」
じつは獣人の見た目がどうしても受け入れられない人はいる。なぜ知っているかって、わたしが必死でわたしと同じような気持ちをもつ人がいないか探したからだ。動物アレルギーだったり、動物にトラウマがあったり理由は千差万別だけど、そういう人は多くはなくともいたのだ。
獣人が苦手な人たちのコミュニティをみつけて、バーチャル上で定期的に会話してお互いの心を落ち着かせ慰めあった。
でも、そういうコミュニティがあること自体が差別的だとみなされて、いくつかあったものは閉鎖されてしまった。
わたしはどこへいけばいいんだろう?
受け入れられないことが、嫌悪だなんて。こんなに不誠実な言い換えがあるだろうか。とんだ侮辱だ。
「勝手にやって来て、居着いて、繁殖もしてきたのはそっちだろう!? 受け入れられない側が“嫌悪”? 嫌悪だって!? ふざけるのもいい加減にしろ。おまえらがわたしの気持ちを顧みてくれることがあった? “ネイティブ世代”とかなんとか聞こえの好いフレーズをつかってごまかされる人はいいよ。でもそうじゃない人は? わたしには出ていける場所なんかない。帰れる場所なんかない! 勝手にっ、勝手にわたしの世界を荒らすなっ!!」
鍵を開け、獣人の目の前でバタン、と部屋のドアを閉めた。堪らなくなって靴をはいたまま廊下に突っ伏した。
「連理……、連理。…………申し訳ありません」
コンコン、とアパートのドアを叩いて悲愴な声色で獣人が謝っている。
「うるさい帰れ」
「謝らせてください。あなたを傷つけました」
「わたしを愛してるなら、引き際くらい見極めたら?」
そう返すと、獣人の動きが止まったとドア越しでも知れた。
しばらくのあと、ほんとうに申し訳ありませんでしたと獣人は静かに言った。奴が遠ざかっていく足音を片耳で拾いながら、わたしは廊下の壁をみつめた。
「……ストーカーじゃなかったら友達くらいにはなれたかもね」
そう自嘲して、身体を反対側にごろりと向けた。そんなところに寝転んでいては身体を冷やしますよと、番いにかいがいしく尽くすという種族の男の声が聞こえた気がした。
※
一夜明け、昨夕はラノベの主人公がこうむるような怒涛の展開だったぜ……などとヒロイックな感傷に浸るわけでもなく、ただやはり中学生時代のトラウマはいまだ健在であることを図らずも再確認させられ、そのことに心を抉られながら出勤した。ちなみに偶然にもわたしの職場に獣人はいない。他部署他県にはいるが関わることはほぼない。社会に出た以上獣人たちと働くことは覚悟していたが、どういう星のめぐりあわせか、幸いにも機会は水際で阻止されているらしい。この先いつ突破されるとも知れないが。
昼休みを迎えたところで、諏訪さん、と総務部の社員から声をかけられた。
「電報が届いていますよ」
「はっ!?」
なに、ハハキトクスグカエレ、とか? と、いつの時代だよという文面を思い浮かべてしまった。
このインターネッツの時代に電報を受けとるような身に覚えはないが、見覚えのあるキャラクターのぬいぐるみとメッセージカード、それにラッピングされた花を一輪渡された。このキャラクターかわいいですよね、ぬいぐるみ電報もあったなんて知りませんでした、花も素敵ですねと総務部のひとはなんのツッコミもなくニコニコしながら去っていった。
「え、なにコレ。真剣になにコレ」
ウサギのような動物が紫色の花を一輪手にしている大変かわいらしいぬいぐるみであったが、状況が皆目理解できずわたしはなかばパニックだった。しかし、近い過去にどこかで目にしたことのあるそのキャラクターは、長い黒髪と鳶色の瞳、耳とシッポは灰色という獣人ラウル・コクトーの姿をわたしの脳裏に導いてきた。
数年前に流行ったアニメーション映画のキャラクター。初めて会ったときに、駅の通路で滑ってスカートを濡らしてしまったわたしへ奴が差し出したタオルハンカチに描かれてあったものである。彼奴の嗜好などどうでもいいが、やることがいちいち仰々しいうえに、送りつけられたブツに嫌な予感しかしないで賞……、ふたたび。
戦々恐々としてわたしは電報を開いた。
『連理へ
昨晩はあなたを傷つけてしまい、本当に申し訳ありませんでした。今後一切、あなたを着け回すことはいたしません。ただ、許されるならばどうか私とお友達になる機会をお与えください。嘘偽りのない気持ちとしてアイリスの花を添えました。花言葉は友情です。
ラウル・コクトー』
「は、はぁ!?」
果たして電報は、わたしに執心しているらしい昨夕言い争いをした獣人ラウル・コクトーからで、キャラクターがもつ色と同じ紫の花はアイリスらしい。思わずパソコンで調べてみると、そのとおりだった。『伝言、メッセージ』そして『友情』。
「アイリスってアヤメのことだったんだ……?」
花弁は全部で六枚で、三枚は外側へ大きく垂れ、ピンと上向いて反る内側の花弁三枚は縦長にひらいて波うち、中央の花弁は内側へむかって巻かれている。目に青い茎は剣のようにしなやかだ。花弁の先端へむかって紫の水を一気に流したように、紫とも紺ともいえる濃色がそこへ溜まっていた。水辺の風に揺蕩うさまを想わせる流麗な曲線だった。エレガントな花ではあるが少し毒々しくもある。
わたしはメッセージを再度再々度読み返した。もうストーカー行為はしないから友達になってくれと読める。おかしい。奴はこの数ヶ月というもの、わたしの職場までわたしを迎えに来たり、何か困っていることはありませんかと買い物途中に現れたり、獣人の番い制度をことごとく顧みずとにかくわたしにつきまとっていた。目下の困り事はお前です、とは何度も告げたのだが。
「…………どういう風の吹き回し?」
明日世界が滅びたらどうしよう、とすでにわたしの世界は一度壊れているのに益体もないことを考える。メッセージカードにはご丁寧にラウル・コクトーの住所と電話番号が記されていた。
獣人に電話番号、という今さらだがあまりにシュールな取り合わせにわたしはしばし言葉を失う。だけど気がつけばわたしは奴に電話をかけ「今から電報に書かれてある貴様の住所に行くから待っていろ」と一方的に用件を伝え会社を飛び出していた。職場の最寄駅から奴の家まで一駅という戦慄の距離感だったが、今はそれどころではなかった。考えてみればアイツの職業も知らないなと目的地に急ぎながら思った。関わりあいになりたくなかったのだからあまりにも当然ではあるが、仮初にも求愛するなら相手へ身分くらいは明かすのが礼儀ってもんじゃねえのかよと毒づく。
奴が住むという普通のマンション前にたどり着くと、「連理」と後ろから声がかかった。ふり向くと小さい公園があり、獣人は悄然としてそこに立っていた。
「あの電報を送って、わたしがあんたのもとへ来るように仕向けたってことはないよね?」
開口一番わたしは訊いた。獣人は鳶色の目を見開いて「滅相もありません」と言った。長い黒髪から生えた灰色の毛耳が、力なく垂れていた。
「本当に、申し訳ありませんでした。あなたを傷つけるつもりなどなかった」
耳は力なく垂れていたが、獣人と相対したわたしにそう謝罪した瞳は真摯といえるものだった。
「最初からわたしに近づかないという選択肢はなかったの? 傷つけたと思うくらいなら……!」
叫ばずにはいられなかった。愛しているというなら、どうしてわたしの思いをわかろうとしてくれなかったのだ。
「一方的にあなたに執着して、あなたの都合も考えず身勝手な行動をとりました。あなたが好きだったのです。獣人は番いにしか恋をしませんが、こんな衝動が自分のなかにあろうとは俺は知りませんでした」
ラウル・コクトーは、そっと自分の左手首に右手を当てた。羽のような紋章が掻き傷でぐちゃぐちゃにされていた。
「……あんたに同情もしないし、許しもしないよ。ましてや、友達になるなんて。ふざけてるの?」
「いいえ。ですが、あなたにもう会えなくなるのではないかと思うと恐ろしくてなりませんでした。少しでも何か接点がほしかったのですよ」
どうしようもないほど渇愛しています、あなたというひとを。
そう言って哀切をもって鳶色の瞳はわたしに向けられ、瞼は伏せられた。わたしは獣人を睨んだ。
「今この瞬間ですら充分に身勝手だよね」
「言葉もありません」
「わたしのまえから消えるという選択肢はないの」
「おそれながらそれについては時間を賜りたく」
「時間をあげたら消えてくれんの?」
「まことに恐縮ですが保証はいたしかねます」
「それってこの数ヶ月間となにがちがうわけ」
「面目次第もございません」
「わたしの意思とか希望とか、どうなるの」
「……あなたが生きるか死ぬかとなれば、真っ先に俺の命を差し出します」
「答えになってないんだけど」
「平にご容赦願いたく」
「許さないって言ったよね」
「心からあなたを愛しています」
…………なに、この不毛な会話。ギャグかよ。
わたしはいったい何をしにここへ来たんだっけ? 人生ってこんなにままならないものだったっけ?
空は嫌味なくらい晴れて、気候だけはバカみたいに穏やかである。公園には小さい子ども達が遊びにやって来て、砂場ではしゃぐ楽しそうな声があがっていた。
わたしはふと思い出して、「というか、なんで“友達”になりたいの?」と訊いた。
獣人はそれに少し口ごもったあと、
「昨日、最後におっしゃいましたよね。せめて友達くらいにはなれたかも、と。それで身の振り方を考えました」
「考えたって一晩だけかよ。えっ……! というかもしかして、あれ、聞こえてたのっ!?」
驚いていると、首を少し傾けて、獣人は悲しげに灰色のしっぽを揺らして笑った。
「獣人はとても耳がいいとお話ししたでしょう? あれくらいの距離ならば声は拾えるのですよ」
そうだった、獣人たちの身体能力は人間の倍はゆうに優れているんだった。もう遠い目をするしかない。「連理」と獣人がわたしを呼んだ。
「――――住吉に行くといふ道に昨日見し恋忘れ貝言にしありけり」
いきなり、和歌を口にした獣人に、わたしは呆気にとられた。
「住吉へつながっているというこの道で、昨日見つけたこの貝は、恋忘れ貝というらしい。だけどそれは言葉だけだったのだな。恋を忘れられるはずもない」
「その歌……」
「万葉集にある“忘れ貝”の歌のひとつです」
「知ってるよ」
「……あなたが俺の番いであればよかったのにと数え切れないくらい願いました。この恋を忘れられるはずもありません」
「…………」
「離れてしまった貝の一片、片翼、片割れの魂――――。想うひとがそうでなかったとしても、俺には連理。やはりあなたが唯一だ」
獣人は、愛しさが溢れきったような顔で艶然とわたしに微笑んだ。飴細工のように繊細なものをその舌の上で転がすことにも似た、甘くも丁重な奇態で、獣人はわたしの名を呼ぶ。長い黒髪、鳶色の瞳、灰色の耳としっぽ――いつまでも見慣れない容姿、そして端麗も端麗、最上級の端麗さでもって。
住吉という土地は、むかしむかしは海であったらしい。住吉へつながる、続く道というのは岸辺であったかもしれない。詠み人が貝を拾ったくらいなのだから。拾った指に砂はついたのだろうか。佇んだ道は水に濡れていたのだろうか。拾った貝殻に耳をあて、とおい海のさざめきを聴いたのだろうか。光をまぶして揺れる紺碧の波に、恋しいひとを想ったのだろうか。
「…………“友情”とは」
「それすら運命です」
ひゅう、と風が駆け抜けた。
どこに? わたしの心に。
友情と名のつく花をもらってもなんであっても、やっぱり心は不毛の大地である。
花は咲かない。実は成らない。
いにしえの世から現代に至るまで、人間には“片割れ”という対概念があるらしい。忘れ貝に比翼、連理の枝にツインソウル。そして獣人には番いというものが。
ラウル・コクトーが忘れ貝を拾った道が、たとえ岸辺であったとしても。その道に足跡が残っていたとしても。
わたしは何度でも告げよう。乾ききった、草も生えない足跡すらつかない大地のような心のままに告げよう。
「――――――ごめん無理」
わたしときみとが番いだったなら、わたしは不幸なことに幸せだったかもしれない。人生ってなんでだかうまくいかないよね、うん。
【おまけ:在りし日の会話】
「ちょっと訊きたいんだけど、獣人社会って犯罪はどう裁くの? 番いが刑務所に放り込まれたら、片方は狂わないの? そこらへんはどうなってるの? そもそも犯罪自体がないとか?」
「何分にも唐突ですが、あなたの質問に答えることはやぶさかではありませんよ」
「いちいち嫌味なやつだな」
「決闘……いわゆる敵討ちが許されていますが、相手を必ず仕留めること、それが叶わなければ村に帰参することあるいは帰籍することが認められません」
「江戸時代かよ」
「これは伏せておくべきことでしょうが、それでは日本社会へとっては不誠実な態度となるでしょう。俺からすれば日本社会というよりは、連理へ不誠実だと思うわけですが」
「なに……?」
「じつは獣人の数は、我々の世界では減少しているのです。そして濃い血を薄め、不幸の根源となっている番い制度を滅ぼそうとしているのです」
「おっっっっっっっっっも重っ。事の背景が過積載か。打算的で独善的で正気の沙汰じゃねえな。生き血をすする鬼畜の所業だな」
「軽蔑しましたか?」
「いやどうでもいいわ」
「そうはおっしゃいましても。俺にはなにも安心できる要素がありませんが」
「知るかよクソめ。だいたい、女に子どもを産んでもらおうとするその性根が腐ってる。あんた達のことは知らないけど、人間の女を繁殖器のように使うな」
「ですが、あなたは獣人とは関わり合いになりたくないのでは? ならば、あなたの考えと発言は矛盾しませんか」
「分析してんじゃねーよ。とっとと帰れよ」
「愛惜の念に堪えませんが、そうすることにしよう。俺にも仕事がありますから」
「…………そういえば、仕事って何してんの?」
「あなたが俺に興味をもってくださるなんて」
「ヤメロ今すぐその綺羅綺羅しい光線を滅せよ神よ」
「学習塾の国語講師ですよ」
「は?」
「学習塾の国語講師です。俺が万葉集を知ってることを不思議に思ったことがあったのでは?」
「想像したよりだいぶ地味だな」
「光栄です」
「褒めてねぇよ」
「番いでもない我々が、忘れ貝を知っていたとは運命だと思いませんか」
「わたしはたまたま和歌が好きだっただけだし、運命などと思わないから死んでくれ」
「残念ながら国語としてその文章のつなぎは零点です。しかし、いつでも俺を伴侶として認めてくださっていいのですよ」
「貴様こそ国語講師であることを恥じろ。心から恥じろ。そして友情はどうした」
「拾った忘れ貝は名ばかりの代物だった。友情すら俺には愛だ」
「じ、人生っていったい……」
「運命です」
【おしまい】
おしまい