始まりのドラゴン
――俺はその日、ドラゴンを見た。
夕暮れに染まったオレンジ色の空を、大きな翼を広げて悠々と飛ぶ……雪の様な白いドラゴン。俺はそのファンタジーな光景を電柱の下から、電線越しに見た。間違いなく。この目で、この現代日本で!
最初は自分の正気を疑った。次に夢でも見ているのかと首を捻り、あるいは何かのイベントだろうかと現実的に考え……そのいずれでもない事を直ぐに確信する。
あぁそうだ。あのドラゴンが幻覚や夢であるものか。あれだけの存在感。これだけのプレッシャー。足が震える程の恐怖が、威圧感が、何かの間違いであるはずがない。あのドラゴンは、間違いなく本物だ――
「っ――」
口元で止まったのは悲鳴か、感嘆か。それとも両方か。何にせよ、一つ確かなのは俺がこの場から動けなくなっている事。
なぜこの現代日本にファンタジーなドラゴンがいるのか? あのドラゴンに気づいている者は他にいないのか? 俺はあのドラゴンを前に何をすればいいのか? ……色々な考えが頭を巡ったが、一番思うのは一つ。
――早くどこかに行ってくれ。
世にも珍しいドラゴンを眺める余裕も、ましてやスマホを取り出して写真を撮る気力なんぞありはしない。心にあるのはあの美しくも恐ろしいバケモノが俺に気づかず、どこかへと飛び去ってくれるのを祈る思いだけ。
遠目に……それこそ数百メートルは離れているだろうに、足の震えが止まらないのだ。いや、それどころか手も震えてきている。これが、これが動物的な恐怖故のモノなら、あのドラゴンはあんな遠くからでも俺を殺しうる事の証明に他ならない。
だから俺は祈る。早くどこかに行ってくれ。やりたい事があるわけじゃないけれど、まだ死にたくはないんだ……と。
「――――」
息を殺し、祈る時間が暫く続き……しかしドラゴンはそこに居る。少しだけ冷静になってよく見てみれば、どうやらあのドラゴンは真っ直ぐ飛んでいる訳ではなく、この辺りの上空をゆっくりと旋回しているらしい。この場に留まるかの様に。
なぜそんな事を、何か目的が? ファンタジーなドラゴンが、この現代日本に、それもよりによってこの近辺に、用事があると?
――最悪だ。
何がどうなればそんな事に……ファンタジーなドラゴンがこの現代日本に現れ、よりによって俺の頭上を旋回飛行する事になるのか。意味が分からない。訳が分からない。理解なんて、出来るはずがない。
俺の頭の混乱がいよいよ極まって来た、その時。バキンッ! と。空にヒビが入った。
「……ぇ?」
目の錯覚だろうか? ――いや、間違いなく空中にヒビが入っている。場所は……ドラゴンの旋回地点、その中央。呆然と見上げている間にもヒビはどんどんと大きくなり、それどころか砕けたナニカが零れ落ちていた。
見ればドラゴンも旋回するのを止め、ヒビを睨む様にホバリングしている。まさか、ドラゴンの目的はあのヒビ? いや、だとしても……
「何の、冗談だ……?」
ドラゴンだけでもお腹一杯なのに、空中にヒビが入る? 質の悪い冗談だ……そう思えればどれだけ楽だったか。あぁ、俺はあのドラゴンも、ヒビも、冗談とは思えない。どうしようもなく現実だと認識してしまっている。
だって、恐ろしいのだ。身体が震える程に、意識が遠のく程に、正気定かならぬ程に、心の底から恐ろしい。アレは、在ってはいけないモノ。見てはいけないモノ。ドラゴンが動物的恐怖を呼び起こすなら、アレは――
「っ――!!」
パキリッ、と。あってはならない音が響く。いつしかヒビは目に見えて大きくなっていて…………その空いた隙間から、ナニカが這い出て来た。黒い、不定形の、ナニカ。
――駄目だ、見るな。
見てはいけない。欠片たりとも知覚してはいけない!
体の奥底からわき上がる恐怖がそう訴えかけてくる。だが、俺は目を離せない。見ているのも恐ろしいが、目を離すのも恐ろしいから。
『――――!!』
「――グゥガァァァアア!!」
ナニカの産声と、ドラゴンの咆哮がぶつかり合う。
空気が揺れ、威圧感と強風が俺の身体を叩く。
意識が飛ぶ。景色が遠退き……咄嗟に繋ぎ止めた。駄目だ。意識を失ったが最後、どうなるか分かったものではない。意地だ。意地でも意識を繋ぎ止めるんだ。
「ガアアァァァ!」
俺がヤケクソ気味に意識を保っている間に、上空では戦いの火蓋が切って落とされた!
最初の一撃は白いドラゴンから。彼のドラゴンが口から放った目眩む程の光、ドラゴンのブレスが黒いナニカに直撃したのだ! 雷光一閃! イナズマの如き光の波はビームかレーザーの様で……俺は自然と期待してしまう。やったか!? と。
『――!!』
あぁ、しかしなんという事か。ヒビより這い出る黒い不定形のナニカは、光の柱の中で吠えている。何も変わらずに。ダメージなんぞありはしないと。
なんというバケモノか。ドラゴンのブレスはその名に恥じぬ威力があったはず。少なくとも俺が食らえば一秒と経たずに蒸発する事は間違いなく、それは建物に隠れようと同じだっただろう。にも関わらず、あのナニカはそれを無傷で受け流している。ドラゴンもバケモノだが、あのナニカはそれ以上のバケモノだ。例えミサイルをぶちこもうと結果は同じに……そうだ、ミサイル。戦闘機。
「自衛隊は、どうした?」
俺の目にはバケモノ二匹しか見えず、また耳も同じだ。ジェット機特有の轟音も、ヘリのローター音も聞こえない。つまり、自衛隊の航空戦力は来てないのだ。
いや、確かにあのバケモノ連中の戦いに割って入るのは無謀だろう。だが、空から様子を見るぐらいはあっていいのではないか? 仮に政治的なアレコレで来れないにしろ、テレビや新聞なんかの文屋連中のヘリは居てもいいはず……なぜ誰も居ない? ドラゴンがここに居るんだぞ? 戦闘になっているんだぞ!? なぜ、なぜこんなにもバケモノの声しか響かず、静かなんだ?
「まさか、ここにいるのは俺だけ――?」
まるで世界に一人取り残された気分……しかし、その気分も長くは続かない。上空の戦いが、動いたから。
『――!!』
お返し、なのだろうか? 黒い不定形のナニカがヒビからより一層身体を這い出させ、その巨大な腕を……いや、黒い触手を振るう。上へ下へ、右へ左へ、デタラメに振り回される気味の悪い黒く巨大なムチ。その一発一発は素人目に見ても雑だ。しかし、当たればビルすら容易くを打ち壊す威力があるのも見て分かる。
当たれば必殺。彼のドラゴンといえど無傷ではすむまい……だが、当たらない。ドラゴンの回避が巧みなのだ。ドラゴンはその巨体からすれば驚く程俊敏に戦闘機動を描き、黒いムチを紙一重で回避している。下降し、横転し、急ブレーキをかけて、直ぐ様垂直上昇。偶然か、囲む様に触手が振るわれ危ういと思えば、縦方向に鋭くUターン――あれは空戦機動の一つ、スプリットSだ!――を決めて振り切ってみせる……見事なマニューバだ。更に隙をみては光のブレスを触手や本体に叩きつけており、熱量で焼き切ってやろうという強い意思を感じる。負けるつもりも折れるつもりもないと。
だが、どれほど光の柱を叩きつけようとも効果はみられない……しかしその一方で黒いムチも白き竜を捉えられていなかった。
――千日手、か?
このまま一昼夜続けても終わらないのでは? そう俺が疑問を感じた……その瞬間。疑問は無意味と化した。
ズルリ、と。ナニカがヒビから更に這い出て来たのだ。いったいどれほどの巨体なのか? かなりの質量が這い出ているというのに、その全容は未だに見えず。しかし無数にあった触手は確実に数を増やし、頭と思わしき部分は完全にこちら側に来ている様に見え……そして、口が、ゆっくりと、大きく開く。
瞬間、嫌な予感。
「――っ!?」
俺は予感に蹴り飛ばされる様にして耳を塞ぎ、地面に伏せる。
一拍、轟音。
チラリと上空の戦場へと視線を投げれば、空の果てまで伸びる黒い柱。ビーム、だろうか? おぞましきナニカの口から伸びるソレは空を貫いていた。そして美しくも恐ろしい白き竜は……ドラゴンは、どこだ? あのドラゴンはどこに行った? まさか……!?
「……そんな」
撃ち切ったのか、黒い柱が消え去ったそこに……ドラゴンは居た。
ボロボロの状態で。
遠目に見ても分かる。それほどに白き竜は傷付いていた。今にも落ちそうになりながら、それでもズタズタの身体で飛び、ナニカを睨み付けて。
――もういい、逃げてくれ。
そんな風に思ったのは……彼の竜が恐ろしくとも、美しく見えたからだろうか? しかし、無意味だった。
『――』
まるで煩い羽虫を叩き落とす様に、白き竜に触手が叩きつけられる。
元々限界だったのだろう。ドラゴンは回避機動を取る事もなく、その強烈な一撃をもろに受けて落下し始めた。
……あぁ、なんという事だろう。あれだけ恐ろしかったドラゴンが負けた。たった一撃でボロボロにされ、最後は虫を潰す様に呆気なく。――バケモノだ。あのヒビから這い出てくるのは、正真正銘のバケモノだ。あんなモノが完全にこちらに来てしまえば……
「…………? ぇ、は?」
あまりの結果に呆然としていた俺は、今更ながらに気づく。
あのドラゴン。こっちに向かって落ちてね? と。
「ふ、ふざけっ!?」
恐らく叩き落とされる時、斜めに打撃が入ったのだろう。ドラゴンは間違いなく、俺目掛けて突っ込んで来ていた。その速度は凄まじく、距離もあまり無い。だが、今から走って退避すれば充分に避けれるはず。
そうと分かればと俺は回れ右をして全力で駆け出そうとする……が、それが良くなかったのだろう。クキッ、と。足首の辺りから嫌な感覚が走る。続いてガッと爪先に当たる地面。あぁ、完全に蹴躓いた。
「ぁ……」
マズイ。そう思った次の瞬間、俺は思いっきり地面に激突していた。痛い、そう感じつつ上を見上げれば……眼前にまで迫った光り輝くドラゴンの巨大な体躯。
――あ、死んだ。
諦めにも似たその思考が頭に流れ、そして――
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・土地・出来事・名称等は全て架空であり、実在のものとは関係ありません。いかなる類似、あるいは一致も、全くの偶然であり意図しないものであり、実在のものとは全く関係ありません。