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ヤマダヒフミ自選評論集

 コミュニケーションとしての芸術

  

 エッセイを書こうと思います。うんざりしているので、気晴らしに。

 

 さて、エッセイとはそもそも何かと言えば、何らかの思考や体験を書いて、それを読者に読んでもらうという行為なわけです。つまりはエッセイもまたコミュニケーションなわけです。

 

 僕は小説とか物語とかいう形式にこだわっていますが、それはそれらが閉じているからです。読者を、もちろん本当は必要としているのですが、読者に対して一旦自らを閉ざし、その後に読者に対してそれを体験させるという性質があります。作品は、閉じて己を保持しています。そこに入るか入らないかは読者の自由であり、同時に読者はそれを捨てるのも自由です。歴史的に長い間顧みられなかった作品が再び拾い上げられるという事はありえます。

 

 ところで、エッセイとか評論とかいうと勢い、今の読者、目の前の読者に語りかけなければならない。自分は今の世の中にうんざりしているので、いまさら何を語る事があるんだろう、と感じています。もちろん少数の人が賛同したり、吟味して読んでくださっているのはわかっていますが、なろう小説やユーチューバーのようなものが「クリエイティブ」である時代に骨折って何か書いたり、発表したりするのも馬鹿馬鹿しいではないかと思ったりします。

 

 自分は「文学」をやっている人と会って話してみて、彼らの言う文学とは「新人賞」「芥川賞」の事だとやっとわかりました。文学とは何かという話題を出しても、いい顔はされません。彼らにとっては賞を取ったり、売上がどうのというのが「文学」の全てです。言ってみればM1グランプリがお笑いの全てになった芸人のようなものです。テレビに出てひな壇に座るのが一番高い「目的」になってしまった狭い業界のようなものです。「村上春樹のような作家になりたい」と言えば、人は高い目標を持っているなあと思うのでしょう。しかし、「ベルンハルトやル・クレジオを越えたい」と言っても誰それ?という反応です。

 

 延々、愚痴を言っていても仕方ないので、コミュニケーションというものをキーにして考えてみましょう。エッセイというのは一種のコミュニケーションというものだと言いました。コミュニケーションというのは受け手と送り手がいます。何らかのものをアウトプットし、それを受け取り、評価する人がいます。

 

 この送り手と受け手との間に「場」が築かれます。この「場」がすなわちコミュニケーションが成立する地点です。ここで人はやり取りをしています。

 

 そういう点から現在を見ると、大多数の人間に対して大きなアプローチをする人間が「価値あり」とされています。語り手、送り手、クリエイターは、大多数の受け手に称賛される上で、価値を付与されます。しかし、この受け手と送り手とは相互関係にあります。

 

 クリエイターの方でも、称賛されたい、評価されたい、稼ぎたい(価値は金として測定される)、と内心思っていますから、無意識的に受け手の価値観を反映させます。受け手の漠然とした要求をなんとなく感じて、それを表出させる事が普通になります。

 

 僕は、個性などかけらもない、明らかに世の中に迎合したクリエイターが「自分のしたいようにやっている」「これが個性」「好きな事をして稼ぐのがベスト」などと言っているのを何度か見ました。彼らは嘘を言っているのではないと思います。ただ、彼らは自分の望む事を、人々の願望に無意識的に一致させているのですが、自分のその心情の奥深い点については考えてみない為に、自分というものがそこにあるように感じられているのではないかと思います。「望む」という事は、あまりに普通に思われていますが、例えばアイフォンがない時代にアイフォンを望む事はできません。アイフォンが市場に出回ったから、アイフォンが欲しいという願望が現れます。ところが、人はこの願望は自分のものだと考えます。そうしてそれが手に入れば、ようやく自分は自分になったと思うのです。

 

 話を戻すと、作り手の方でも受け手の要求を無意識的に受け取って、何かを作ります。作品を出して評価された時、その人は「才能がある」「天才」と言われます。比較的、新しい才能に米津玄師という人がいます。この人は若いし、最新の才能と言ってもいいでしょうが、曲を聞くと丁寧にJPOPの路線をなぞっています。僕は、宮崎駿、手塚治虫、村上春樹、宇多田ヒカルといった人達は米津玄師と同じような、大衆社会という場において現れた限りでの「天才」だと思っています。それは、現在の大衆と作り手との間に開かれた場において評価される天才で、この「天才」達が本当に天才かは、歴史的に更に高い「場」によって評価を受ける必要があると思います。ところで、僕が今、どうしてこれらの人の名前をあげたかと言うと、僕はこれらの人を真の天才だとは思っていないからです。もちろん、僕自身の評価それ自体も、今のところは、現在の「場」に編入された評価ですが。

 

 もっと考えてみましょう。今は、様々な作品は世の中の評価によって相対化され、価値付けられます。作品も作者も自動的に格付けされますが、格付けされないものはこの世の中に一つだけあります。それは、格付けする側の価値基準です。この価値基準そのものは、相対化されず絶対化されています。これは民主主義と資本主義のセットによって、骨格付けられています。この世界ではこの基準は、別の基準によって判断されたりはしません。仮に少数者が(今の僕のように)あれこれ言っても、「結局は~」「そうは言っても~」という言葉によって消化され、大多数の人間によって意味づけられるものとなり、排除されるか取り込まれるかします。わかりやすく言えば、僕の書いたものにもポイントがつけられ、それによる価値基準がなんだかんだ言って、一番の基準と人々に判断されるという事です。

 

 このような社会では大衆にアピールするものが大きな価値を担い、今は小説もタレントが書くようになっています。政治家がタレント化し、タレントが政治家になり、色々なものが入り乱れていますが、基本的には大衆の欲望に合致するものが「タレント」=偶像として機能するのが実情です。

 

 元に戻ると、コミュニケーションとしてのクリエイティブというものを考えた時、今、我々がやっている事、取り込まれている場所は、結局、大衆全体とのコミュニケーションであって、そこに何かを訴えかけるとはじめて意味があるとされるのですが、その意味自体も先に大衆の漠然とした価値観に取り込まれています。出版社は経済で回っている。なんだかんだ金がなければ給料も払えないし、会社も成立しない。だから、売れる本を売らなければならない。そうすると、それが仮に、内心では質の低いもの、低俗だったり、倫理に反するものだったとしても、出版社は売るでしょう。ここにおいて、防衛機構は存在しない。この関係性、このコミュニケーションにおいては、評価する側の価値基準そのものを評価するのは許されない。人々の価値基準に沿う限りにおいて様々なものが認められる世界ですから、その意向に沿ってやっと自分が世界に存在していると感じられる。そういう世界です。

 

 つまりは全てを相対化する価値基準それ自体は絶対化され、疑う事はできない。こういう社会では、大衆は座して観客として背後に座っているので、彼らを喜ばす道化としてのサブカルチャーが大きく伸びます。芸術というのは基本的に衰退するし、ハイカルチャーは全て衰退するのでしょう。それらは理解したり考えたりするのに苦労と時間が伴うので、質は落ちる。今、やられているのはハイカルチャーをサブカルチャーに迎合させる事です。村上春樹がドストエフスキーを目指すのもそういう現象として僕は捉えています。

 

 こういうのが新しい、こういうのが今流行っている、これが優れている。そういう言葉を僕は散々聞きました。そうして一応の期待を持ってそういうものを見ましたが、心から感心したり、納得したり、感動したりする事はほとんどありませんでした。もちろん、例外はありますが、大抵のものは、既に多数者の価値観によって先回りされているので、それに合致する上で「新しく」「素晴らしい」のであってそれを越えると、遠ざけられたり、嫌われたり、無視されたりします。世界は更新される。アップデートされると言いつつ、アップデートしている自分達の立っている場所について自覚しないのが多数者というものです。あるいは、自覚するような個人がいれば、それはもはや多数者とは言えない。彼は、りんごの実をかじったアダムとイヴのように、自分がいつの間にか裸で「この世界」にいたと気づくでしょう。実際、「この世界」に溶けている人には「この世界」という風にも感じられないわけです。

 

 長々と書いてきましたが、要するに、今、クリエイティブとは多数者とのコミュニケーションであって、そこに才能があるといっても、才能とは何なのか、それを評価する価値基準によって決定されている状態が基本だという事です。しかし、この人々の絶対的価値基準も、長い目で見れば、別の基準によって相対化されるでしょう。それは何かと言えば歴史です。歴史的時間において、この時代は何であったか、祭りが終われば、その時ははしゃぎまわっていても、誰が何を壊したのか、傷つけたのか、そういう事がわかってきます。長い目で見られた歴史性の観点から、今現在の絶対化された価値観は相対化されるでしょう。僕はこの時代は、はしゃぎまわった虚無の時代という印象を与えるだろうと思っています。

 

 ここでこの文章は終わってもいいですが、芸術というのはコミュニケーションだとすると、その質を決めるのは、送り手だけではなく受け手との関係としても考えられます。僕はバッハの音楽は、神とのコミュニケーションであったから、あれほどの質に高まったのだと思っています。アルフレート・アインシュタインの音楽評論を読んでいたら、ベートーヴェンは、まだ見ぬ未知の聴衆に向かって曲を書いていたというような事が書かれていて、納得しました。優れた芸術家は、自分の中に優れた聴衆、観客を持つのだと思います。そうした理想的な観客とのやり取りが、現実の様々な観客を包み込む大きな基準となって、そうした作品が様々な時代を越えて残っていくのだと思います。

 

 実際にいる、目の前のあなただけに話している場合、その「あなた」が消えれば、一緒にその作品も消えます。芸術をコミュニケーションとして考えた時、自分の中に優れた、理想的な受け手を想像する事が特に作り手の能力として必要だと思います。その時、彼は現実の人間に対して冷淡な態度を取るかもしれませんが、彼は、いわば人間の奥の人間に対して冷淡であるのではない。芸術をコミュニケーションとして見ると、「誰」とコミュニケーションを取るのが大事かというのが問題となってきます。そうしてその「誰」がどんな存在であるかによって、作り手の作品の質も決定されていく。自分はそんな風に考えています。

 

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 良いですね。ぐっと来て、やられました。 漫画家の曽田正人さんもたしか言われてましたが、 饒舌に支持者とコミュニケーションを取れる才能は、どこか胡散臭い。 天才とは、その表現の発露のみに…
[一言] 面白い視点やねw 涼宮ハルヒの憂鬱を思い出したのや 宇宙人や未来人や超能力者、異世界人とコミュニケーションを取ろうとした涼宮ハルヒは天才、、、というか神やねw しかし、聴衆や時代に失望し…
[一言] 昨日、読者とのコミュニケーションの場(感想欄)がカオス化した奴が通ります(;^ω^) 身に凍みるお話でした。
2019/04/07 22:39 退会済み
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