0点首吊り
誰も信じてはくれないでしょう、こんな非科学的な話。どうせ作り話に決まっていると、今この文章を読むあなたもきっと言うのでしょう。ですから私は開き直って、この小説投稿サイトにこの話を載せてしまうことにしたのです。
教えてくれませんか。
私はどうすればいいのですか。
ことの始まりは、買い物からの帰り道でした。息子が最近やたらとよく食べるようになったので(やはり高校生の男の子とはそういうものなのですね)、たくさんの食材をスーパーの袋に入れ、ヒーヒー言いながら歩いていたのです。思えばその時の天気はどんよりとした曇り空で、日暮れ前の冷ややかな空気はもう既に薄気味悪かったような気もします。
奇妙なことは、私が小学校の側を通りかかった時に起きました。何か、声が聞こえてくるのです。高く低くうめくようなその声は、確かに人の声でした。
私は声のする方を見ました。そこは小学校の校庭で、私の目の前にはかなり大きな樹が植えられていました。声は大きな樹の上の方から聞こえてくるようでした。それで私は、気味悪く思いながらも、ひょいと目を上げてしまったのです。
目に飛び込んできたのは、だらりと手足を下げた人間でした。大きく張り出した枝からぶら下がり、体がゆらゆらと揺れました。どう見ても首吊りでした。私は逃げ出しました。悲鳴を上げた気もします。よく覚えていません。
必死で走って、私は家にたどり着きました。それから居間に座り込んでガタガタ震えていたのですが、しばらくして大事なことに気付きました。もしあれが首吊りだったのなら、何よりもまず警察に通報すべきなのではないか、と。
とはいえ、その時の私は自分の目が信じられませんでした。自分が見たのは幻覚か何かで、通報などしたら私が恥をかいてしまうのではないかと思いました。
私は結局、おっかなびっくりでもう一度あの場所に行ってみました。すると、首吊り死体(?)は跡形もなく消えていました。かと言って、誰かが先に通報していたようにも見えません。パトカーも救急車も野次馬も、そこにはいませんでしたから。
ということは、あれは幻覚か、そうでなければお化けとか幽霊のたぐいであるということになります。私はとりあえず、玄関先や部屋の四隅に塩の山を置いて回りました。
たかが幻覚に何を大袈裟な、とお思いになるかもしれません。しかし、それでも私は怖がらずにはいられませんでした。あの時聞こえていた声の意味が、逃げ出す瞬間に分かったからです。
声はこう言っていました。
「なけ………なけ………」
「泣け、泣け」
と。
次の日は授業参観でした。息子は来るな来るなとうるさかったのですが、そんなことで心が折れるやわな母親ではありません。人の少ない高校の授業参観に、堂々と参加して来ました。
私がいまだに息子の授業参観に行くのは、息子の様子が気になる以外にもう一つ理由があってのことでした。ママ友と話ができるのです。こういうお付き合いを嫌がる人も多いのでしょうが、私は友人に恵まれたためか、ママ友とのお話は大変楽しく感じられます。
そんなわけで私は、休み時間中に、息子のクラスメイトのお母さん(以後奥さんと呼びます)と話し始めました。
最初はとりとめもないことを話していました。それぞれの子どもの成績とか、うちの息子がスマホのゲームにはまってしまったこととかです。しかし、私の頭からは先日見てしまった首吊り死体が離れていかず、気になって気になって仕方がありませんでした。
奥さんの息子さんは私の息子が小学生の頃からの幼なじみで、その時から私と奥さんはおつきあいしていました。そして、私達の息子二人は、そろって件の小学校に通っていました。だから、私は奥さんに、例の首吊り死体について尋ねてみようと思ったのです。
「ああ、そういえばそんな噂、聞いたことがあります」
奥さんはちょっと首を傾げながら言いました。
「小学校の側を通ると、樹の上からぶら下がった首吊り幽霊が見えるらしいですね。うなっているような声っていうのも噂にあります。…でもその噂、一つおかしな所があって」
「おかしな所?」
「ええ。その幽霊、私達みたいなおばさんの前にしか出ないんだそうですよ」
奥さんはくすくすと笑いました。
「幽霊は年増がお好きなのかしらね?」
「そ、そうでしょうかね。アハハ…」
私は奥さんに合わせて笑いながら、どうもそれは違う気がすると心の中で思いました。
あの幽霊は(まだ幽霊と決まった訳でもありませんが)、悲しそうでした。なぜだかよく分からないけど、変な悲壮感を漂わせているように見えました。
少なくとも、奥さんが言うような助平幽霊には思えなかったのです。
私は悶々としたまま家路につきました。
結局あれは何だったんだろう。幽霊なのかしら、幻覚なのかしら。
考えながら歩いていて、ふと気付くとそこは小学校の側でした。すぐ目の前には、あの樹がありました。
その時私が感じた恐怖を、どうしたら伝えられるでしょうか。
怖くて怖くてたまらないくせに、私はまた樹の上を見上げました。すると、やっぱりそこにはいたのです。風にゆらゆら揺れる首吊り幽霊が。
小さく悲鳴を上げて、私は後ずさりしました。すぐに逃げ出さなかったのは、少しは心の準備ができていたからでしょうか。それとも足がすくんだだけでしょうか。分かりません。ともかく私は、あの幽霊をまともに見ました。
それでも幽霊の体は黒い霧がかかったようにもやもやしていて、全貌はよく分かりませんでした。ただ、幽霊はずいぶんと小柄でした。
幽霊がこちらを見ました。黄色く濁った目玉がぎょろりとしました。そして、
「なけ……なけ……」
どろりとした声でした。変に高い声で、そのくせしてねっとりしていました。高い声であるせいなのか、悲鳴のようにも聞こえました。
そこで私はとうとう逃げ出しました。
「は?首吊ってる幽霊が出たぁ?」
息子はすっとんきょうな声を上げました。
家に帰ってからガタガタ震えていた私に、例の幽霊の話を聞いての反応です。
「なんだよそりゃあ。母さん、それ、マジでヤバいかも」
ことのほか真剣な反応に、私は驚きました。
「嘘だとか冗談だとか思わないの?」
「いや、だってあそこめちゃくちゃヤバい場所だし。昔あそこで自殺した小学生の男子がいたって」
初耳でした。
授業参観の時の奥さんは、小学生の自殺の話なんてしていませんでしたから。
「昔っからあの小学校で先生やってるじいさんがさ、授業中の雑談で教えてくれたんだよ。誰にも言うなって言ってたんだけどさ」
そうして息子は、あの樹と首吊り幽霊にまつわる話をしてくれました。
三十年前、あの小学校に一人の男子生徒が通っていました。
彼はとても成績優秀で、先生方には優等生として可愛がられていたそうです。
彼には父親がいませんでした。彼が幼い頃、物心つく前に両親が離婚してしまったようです。たった一人の子どもである彼に、彼を一人で育てる母親は大きな期待をかけていました。
彼の口癖は、「母さんに怒られる」でした。早く帰らなければ怒られる。宿題をしなければ怒られる。テストでは百点をとらなければ怒られる。学年で一位にならなければ怒られる……。
担任の先生は、彼が「怒られる」と言う時に、いつも顔をひどくひきつらせるのを知っていました。けれど、それはそれでまあ普通の反応だろうと思って、深く考えずにいました。
そのうち彼は、「僕はできそこないだ」と言うようになりました。塾の授業についていけないのだと。塾でも一番にならなければ、母さんは認めてくれないのに、と。思い詰めたような顔でそう言う彼を心配して、担任の先生は何度か彼を捕まえて「大丈夫なのか」と問い詰めたそうです。
「大丈夫ですよ」
彼は言いました。
「先生が心配なさるようなことは何もありません」
小学生とは思えない彼の口調は、人が立ち入るのを固く拒むようでした。それで、気の弱い先生は、もう何も言えなくなってしまったのです。
「思えばその兆候はいくらでもあった」
後になって、担任の先生は後悔と共に言いました。
「成績にこだわる傾向がどんどん強まっていたこと。疲れた顔ばかり見せるようになったこと。『人って死んだらどうなるんだろう』と、何の脈絡もなくつぶやいたこと。――――もっと僕がしっかりしていれば、あいつは自殺なんかしなかったかもしれないのに」
彼が自殺したのは、ある冬の日のことでした。
息子が塾から帰ってこないと母親から通報を受けた警察が、首を吊る彼を見つけたのでした。
樹の下には、投げ捨てられたように鞄が置かれていました。中に入っていたのは、塾で出されたテスト。そこにでかでかと書かれた「0点」の側に、彼の字で「テスト中に居眠りしてしまいました。ごめんなさい」と書いてあったそうです。
「0点取ったのを苦にして自殺したらしいってことで、あまりに変な理由なんで一時期有名だったらしいぜ。まあ、死にたくなるのも分からんでもないな。そいつの母親、虐待もしてたみたいで、死んだそいつの体がアザだらけだったらしいから。―――そう先生は言ってたぜ。自分はそいつの担任だったから、いろいろ知ってるんだって。ま、幽霊云々は知らないようだったけど」
息子は神妙な顔で話を終えました。
その夜、私はなかなか眠れませんでした。
どうしても、あの幽霊のことが気になって仕方ありませんでした。
あの幽霊の正体は、息子が話していた小学生なのでしょうか。
だとしたら、なぜあの場所に留まり続けるのでしょうか。
なぜ私のようなおばさんにばかり姿を見せるのでしょうか。
―――――なぜ、「泣け」などと言ってくるのでしょうか。
考えても答えは出ないまま、私はいつの間にか眠ってしまったようでした。
はっと目を覚ますと、いつもの寝室の天井が見えました。
そう、いつもの天井です。
しかし、私の心臓は早鐘のように脈打っていました。身体中に汗をかいていました。ガンガン痛む頭の奥に、枕元の時計がカチコチ立てる音がやかましく響きました。
体が全く動きませんでした。金縛りと言うのでしょうか。どうしようもなく嫌な予感がして動こう動こうと頑張るのですが、指一本動かせませんでした。
正体は分からないが確かな恐怖が私を襲いました。そして、どうすることもできない私の前に、「それ」は現れたのです。
仰向けに寝る私の上に、人の顔が突き出ました。顔の形からして、やはり子どものようでした。
顔には赤黒いもやが濃くかかり、どんな目鼻立ちなのかは全く分かりませんでした。
赤黒いもやに覆われた顔が、私の顔にぐんぐん近付いてきました。ぐんぐん、ぐんぐん―――――そして私の視界は、その赤黒い色で埋め尽くされてしまいました。
声が聞こえました。子どもが泣きながら怒鳴るような声でした。
母さん。
どうして泣かないんだよ。
僕が死んだの、悲しくないのかよ。
どんなに僕ができそこないでも、息子だから好きなんじゃないのかよ。
こんな僕でも、死んだら悲しいって、いい子だったのにって、泣いてくれると思ったのに。
舌打ちなんかするなよ。
葬式がめんどくさいなんて言うなよ。
母さんがいやな目にあうのは、僕のせいなのかよ。
親はみんな子どもが好きだなんて、嘘っぱちなんだな。
―――――――――いやだ。
いやだいやだいやだいやだ。
僕を忘れないでよ。
置いていかないでよ。
そんなに僕がきらいなの? 母さんの子じゃないの?
そんなのいやだ。
僕を思い出して。
一度でいいから、大切だって言って。
僕がいないのが悲しいって―――――――――
――――――そう言って泣いてよ。
母さん。
次に私が目覚めた時には、もう朝でした。私の顔には乾いた涙がこびりついていました。
夢を見たのだと思いました。いや、そう思いたかった。
そんな私の希望はすぐに打ち砕かれました。
私の両腕には、小さな手がギリギリとしがみついたような手形がついていたのです。
教えてください。
私はどうすればいいのですか。
私はあの子に気に入られてしまったのかもしれません。
あれ以来、私の腕から手形が消えません。
どうにかしてあの子を追い払わねばならないのでしょうか。
きっとそうなのでしょう。
ただ――――――――
私はどうしてもあの子を嫌いになれないのです。あの子に取りつかれたせいで、おかしくなってしまったのでしょうか。分かりません。分かりませんが、もうしばらくはこうしてあの子にしがみつかれたままでいいと思うのです。
私達はどうすればいいのですか?
誰か、教えてください。