桜吹雪と白猫と
暗闇の中に、巨大な一本桜が咲き誇っている。空も大地も漆黒に溶け、何処が始まりで終わりなのか分からない。
ただ、スポットライトを浴びたかのように、枝振りも豊かな満開の桜が、ドンとそこにあった。
――ザァアア……ッ
一陣の風が吹き、突如として花弁が舞う。桜吹雪とは良く言ったもので、仄かに色づいた白い嵐は、時に渦巻きうねりつつ、虚空に吸い込まれて消えゆく。その光景は圧巻の一言に尽きる。
僕は息を飲んだ切り、呼吸も忘れて散りゆく大木を見詰めていた。
「……儚いものだニャ」
「わあああっ?!」
突然、至近距離で声がして、心臓が飛び出すほど驚いた。
金縛りが解けたかのように、唐突に身体が動き、その場に転げた。無様、と言わんばかりに冷笑を含んだ視線が刺さる。
「まだ寝ぼけているニャか?」
ツン、と澄まし顔で流し目を寄越したのは、白猫だった。優に3歳児程度のサイズはあり、猫にしては馬鹿でかい。
8畳ほどの和室の中央で、前足を揃え、鎮座している。さながら、名のある職人が粋を極めて製作した、精巧な置物のようだ。
「……寝ぼけ、て……?」
白猫の台詞を反芻する。
寝起きの感覚は少しもないが、自分が何故ここにいるのか――直前の記憶がまるでない。
そもそも、ここは何処なんだ?
居住まいを正しながら畳を撫でると、指先に乾いた井草の感触がある。どうも本物、らしい。
――ばんっ
「わあっ?!」
突然、背後の襖が音を立てて開いた。
「時間ニャ」
驚いている隣で、白猫は冷静に告げてから、スッと立ち上がる。その滑らかな所作に見とれていると
「次、行くニャ」
有無を言わせぬ迫力で、先へ促そうとする。
縁側の向こうでは、まだ桜が散り続けている。
「時間、て何? 第一、ここ何処だよ。あんた、何で喋れるんだ?!」
訳の分からぬ不安に苛立ち、つい声を荒らげた。
「……もうすぐ分かるニャ。付いてくるニャ」
何故か、白猫は少し悲し気に見えた。
僕が立ち上がったのを見て、白猫は襖の方へ踏み出した。だが、僕は正面の桜に向かう。
「ダメ! 戻るニャ!」
白猫は慌てたようだった。畳の縁から、一歩踏み出そうとした途端。
「痛……っ!」
爪先にビリッとした衝撃が走り、慌てた。後ずさろうとしてバランスを崩し、畳の上に派手に尻餅を付く。左足の指がピリピリ痺れている。やや強めの静電気に感電したみたいだ。
「勝手ニャ事されると困るニャア」
すぐ側まで寄って来ると、白猫は非難がましく琥珀色の瞳を細めた。
「な……何なんだよ、これ!」
「この心象はキミのものではニャイニャ。他人が介在してはイケニャイのニャ」
「あー、もうっ!」
ニャーニャーうるさい。よく分からないが、この巨大桜は……映像ってことなのか?
「分かったよ、部屋の外に行かなきゃいーんだろっ」
「分かればいいニャ」
白猫は、左足を揉みほぐしている僕を疑わし気に睨上げていたが、小さく溜め息を吐くとクルリ踵を返した。
「次、急ぐニャ」
「はいはい」
何だか分からないけど、もうここに居てはいけないらしい。痺れも薄らいだことだし、仕方ない。付いていくか……。
――ガラガラッ
視界の端で、何か動く気配がした。振り向くと――。
桜が散り続けている風景が、バラバラと崩れ落ちていく。まるで接着していないジグソーパズルを縦に持ち上げると、ピースが千切れて絵柄が壊れていくみたいに。
――『心象』
白猫の言葉が甦った。
桜吹雪が消えた縁側の向こうに、奥行きの知れない濃い闇が広がっている。室内は明るいのに、僕の姿が映らないところをみると、ガラスは入っていないらしい。電流に懲りた僕は、諦めて白猫の後を追った。