うんざりする私と、幸せな世界
「はー…おいしかった」
ケーキを食べ終えた私は残りの紅茶を飲み干した。
「満足いただけたようでなにより」
そんな私を彼は嬉しそうに見つめる。
出会った頃から変わらない、私の大好きな笑顔だ。
出会ってから3年ちょっと、付き合うようになってからは2年以上になる。
お互いに想いを告げた後、私たちは私たちのペースで関係を深めていった。
呼び方が住岡くんから大成くんに変わり、放課後や休日にはちゃんと約束をして会った。
なにしろあの頃は受験生だったので、最初の一年は勉強ばかりだったが、とても幸せな時間だった。
レトロな洋風の喫茶店のカウンターに二人で並んで勉強をしていると、次第に日が暮れてくる。
ラジオから流れる音楽をBGMに、店内が少しずつオレンジ色に染まっていった。
カリカリと彼のペンを走らせる音や、ページをめくる音、たまに彼が落とすため息がやけにはっきりと聞こえる。
真面目に勉強はしていたけれど、たぶん私は彼より少し不真面目だった。
彼はもともと職人気質だからか一度集中すると作業に没頭してしまう。
お菓子を作る時もきっとこんな感じなのだろう。
私と言えば、ついつい横目で彼を見てしまい、必死で気配を探ってしまっていた。
初めて好きになった人で、初めての恋人だ。浮かれても仕方ないだろう。
だから勉強は家でする事にして、私はひっそり彼を観察していたのだ。
彼は集中力を無くすと、必ず私をちらりと見やる。
笑って視線に答えれば、極上の笑顔を向けてくれた。
この瞬間がたまらなく好きだった。
言葉も交わしていないのに、この瞬間いつも想いが通じ合っているのだと感じた。
それでも勉強ばかりだった、というわけでもない。
休日には遊園地にも行ったし、綺麗な公園や図書館に出かけた。
行先も決めずに「わくわくする場所を探そう」と散策するのも好きだった。
彼はいつも私に知らなかった世界をくれる。
どこに続いているか分からない路地も小道も、彼と一緒にいれば異世界だ。
彼の隣にいると、もっともっと好きになっていく。
穏やかに笑う姿も、きょとんとしている顔も、困ったように首を傾げてごめんねと笑う姿も、全てが大好きだった。
彼は私の事をいつも尊重してくれた。
私が喜ぶことや嫌がる事をきちんと見定めて接してくれている。
必要だと思ったことは、きちんと言葉にしてくれた。
だから私も、職人肌の彼を大事にしたい。
もっともっと大人になって、彼を支えられる人間になりたいと思った。
そう思える相手がいる事は、奇跡に近い。
今振り返ってみても、ほとんど二人きりの空間で気持ちを育てる事ができた私たちは幸運だったのかもしれない。
――高校に合格した私たちは、晴れて一緒の高校に通えるようになった。
そこで一番厄介だったのは、告白の多さだ。
中学時代も幾度となく告白をされていたが、高校はその比ではなかった。
絶え間ない告白の呼び出しになぜと辟易していると、友人が言った。
『美月の彼氏が住岡くんだってわかって、自分たちにもチャンスがあると思ってるのよ。ほら、彼って別にイケメンでもないし、成績も普通でしょ。だから今まで告白すらできなかった奴らが湧いて出てきてんの』
最初に聞いた時、怒りで机を叩き割りそうになった。
一度断っているのにそれでもやってくるのはそのせいなのか。
顔に自信のある人は「あんな男やめて俺と付き合おうよ。ずっと楽しいからさ」とのたまうし、妙に親し気に接してきた。
放課後も何かと時間を奪われて、彼との穏やかな時間を邪魔されてしまう。
しかも彼に対して暴言だけじゃなく暴力を奮う人も出てきていると知って、腸が煮えくり返る思いがした。
彼の事を何も知らないくせに、私がどれだけ彼の事を好きか知りもしないくせに、恥知らずにもほどがある。
私が彼に付き合ってあげている、なんてバカバカしい。
彼に出会えて付き合えたことは私にとっての奇跡だ。
中学校時代の友人も、なぜ私が彼と付き合ってるのかはよく分からないと言っていた。
私と彼は不釣り合い、そんな風に言われるのはとてもストレスだった。
そんな事を言うお前たちは何様なんだと、心の中で悪態までついてしまう。
そもそも、そんな事を言う人間は程度が知れているのだ。彼に勝てるわけがない。
彼と二年間一緒にいたが、彼が誰かをバカにして笑ったり、誰かの悪口を言ったのを聞いたことはない。
困っている人がいれば手を差し伸べて、お礼を言われても普通の事だと優しく笑う。
私に対してもそうだ。
何かを押し付けるでもなく、私の事を尊重してくれている。
それは当たり前のようで、当たり前ではない。
身勝手な告白を幾度となくされてきた私には身に染みて分かっている事だった。
だから何も知らない、知ろうともしない人間が、つり合うとかつり合わないとか馬鹿馬鹿しい事を言っているのが許せなかった。
二人で信頼を育てられたお陰で、そんな環境でも彼との関係は問題なく良好だった。
それでも放置するには厄介だったので二人でどうにかできないかを話し合った。
良かったこととしては、仲の良さをアピールするためにお互いを呼び捨てにすることにした事だ。
彼に「美月」と呼ばれるのは、彼の特別になれたようでとても嬉しかった。
そしてもう一つ。
彼は「僕が人に負けないものってなにか考えたんだけど、これかなって」と手作り菓子を詰めた袋をたくさん渡してきた。
「美月は僕のお菓子が好きだろう? だから、告白を断る時に「このお菓子よりおいしいものを作れる人以外は嫌だ」って言ってみたらどうだろう」
それだと私がお菓子目当てで彼と付き合ってるみたいだな、と思いつつ、半分は図星な気がしたので試してみたところ、これがなかなか効果があった。
この頃、彼の作るお菓子の腕はかなりのものになっていた。
彼がバイトする喫茶店「はなや」の常連客の多くは彼のお父さんの固定ファンや友人が多い。
グルメや資産家が集う常連客の舌を納得させるために、彼はかなり頑張っていた。
そのお陰で、高級菓子店にも劣らぬ美味しさを身に着けて、すっかり客を虜にしてしまったのだ。
そんな彼に勝てる高校生はこの学校にはいないだろう。
現に、二度目のチャレンジャーの数が激減した。
それだけではない。私の断り文句を聞きつけたスイーツ好きの女子生徒が友達になった。
名前は須田さん、中野さん、和泉さん。
なんでも、私に告白して玉砕した男子生徒から奪ったお菓子を食べて、彼の作るお菓子のファンになったという。
私をバカな奴らから守るから、ぜひ彼のお菓子を横流ししてほしい、と熱心に頼まれた。
嫌な感じがしなかったので彼に相談すると、「もちろん構わないよ」と二つ返事を貰って取引が成立したのだ。
彼女たちは言葉通り私を守ってくれた。
手作りを食べては男子生徒を鼻で笑って出直してきなと蹴り上げ、高級店の菓子を包み直して偽る男子生徒には二度と顔を出すなと踏みつぶす。
可愛い見た目も武器にしながら拳すらも武器にしてしまう三人の事が大好きになってしまった。
お菓子目当てだと公言されているのに、三人と話すのはとても居心地が良かった。
きっと彼女たちが彼をすごいと言ってくれるのが嬉しいのと、彼女たちのさっぱりとした性格のお陰だろう。
予期せずしていい友人を得られたのは幸運なことだった。
もちろん告白が完全に収まったわけでも、彼への中傷が完全に収まったわけでもない。
それでもこうして二人穏やかな時間を過ごす余裕が出来て満足である。
ケーキを食べ終えてニコニコしている私を見ていた彼は、そっと私に近付いて頭に唇を落とした。
彼はこうして私の頭を撫でたりキスをしたりするのが好きだ。
もちろん、私もされるのが好きだ。
頬に熱が集まるのを感じながら彼の手を取って、私は彼をじっと見上げる。
「今日も送ってくれますか、住岡くん」
冗談めかして出会った頃のように呼びかければ、彼も得たりとふんわり笑う。
「もちろんです、花岡さん」
恭しく私をエスコートしてくれる彼に、私は心を躍らせた。
大変な事もあるけれど、私は世界一幸せな人間だ。