エピソード0-2
男の手が銃に触れる――その寸前に、別の手によって銃は取り上げられた。
「よし。よくやったわ」
そう言うなり、声の主であるリコは銃を両手で構える。その動作は無駄のない熟練されたものだった。
「動かないで。両手を上げて」
リコは銃の狙いを男につけ、脅すように言った。
「……」
男は無言のままゆっくりと両手を上げる。
「あなたは離れなさい」
リコに指示され、ユイは男から腕を放すと、警戒しながら後退った。男がユイとリコを交互に睨みつけている。リコは再び指示を出した。
「ユイ、ドアを開けてくれる? スライドさせれば開くから」
「了解」
ヘリには側部にそれぞれドアが付いている。ユイは男に注意しつつ左のドアに向かった。取っ手を掴むと、思い切り横方向に力を込めた。鈍い音を立ててドアが開く。
ドアを全開にすると空が一望できた。雲一つない青空が、どこまでも続いていた。
ユイはリコのそばまで移動する。
「お前、一体何者だ」
男は両手を上げたままリコにそう尋ねた。
「私? 私はただの調査員よ」
「人身売買調査のスペシャリストってわけか?」
「さぁ? どうかしら」
「これからどうする気だ?」
「とりあえず、無力化して連れていくわ。話はそこで――」
――その瞬間。
機体が大きく揺れる。
リコとユイは慌てて足を踏み込むが、それでも体勢が崩れるのは避けられない。そして、本能的に自分の足元に視線が行ってしまう。
だからこそ、気づくのが遅れた。
男が立ち上がり、こちらに接近してきていることに。
その手には鈍色に光るナイフが握られていた。
男のナイフがリコに迫る。リコは左手でナイフの軌道を逸らそうとする。だが、その左手を男の右手が掴んだ。
男の左手に握られたナイフが、リコの腹部に突き刺さった。
「――ぐッ!」
リコの口から苦痛の声が漏れる。しかし、その状況でもなお、彼女は動く。右手の銃を男の横腹に当てると、迷わず引き金を引いた。
発砲。弾丸は男の腹部を貫通し、開いたドアからヘリの外へ飛んでいった。
「ぐあああッ!?」
男の悲鳴が機内に響く。たった十秒ほどの出来事だった。
――その時。
ヘリが再び、大きく揺れた。
リコと男の傷は決して浅くはない。立っているのがやっとの状態である。そこに追い討ちをかけるように揺れが襲った。
それだけではない。機体がどんどん横に傾いていく。傾斜は十度を超え、二十度超え、やがて三十度に近づく。
足元がおぼつかないリコと男は、その傾きに耐えることができず、滑り落ちていく。その先には、まるで獲物を待つかのように開いたドアがある。
「――ッ!」
ユイは彼女を助けようと動く。しかし、慎重にしか動けない。一歩間違えれば自分も外へ落ちる危険性があった。
不意に、リコの右腕が外側へ払うように振られた。拳銃がこちらに飛んでくる。それをユイは両手で受け止めた。それと同時にリコが口を開いた。
「これは人身売買なんかじゃない! これはもっと別の何かがある!」
そこまでを一息に話し終えると、彼女は。
――男と共に、ヘリの外へ落ちていった。
「…………」
ユイは中腰のまま立ち止まる。思考が空白化する。
落ちた。人が、落ちた。……死んだ。人が、死んだ。
「……っ」
様々な感情が錯綜していた。
どうしてこんなことになった。これからどうすればいい。何をしたらいい。
徐々に機体が水平に戻っていく。それと同時に思考も落ち着いてきた。
「……あたしは」
生きるんだ。
失った。いろんなものを。綺麗さっぱり。
何もかもなくなった。だから、新たに始められる。
ここからまた、歩き出そう。
始めよう、新しい世界を。
「ははは」
ユイの口から薄い笑いが漏れた。心が固まった。