2.「恥をかくのが怖い」
「おれがのん気に事務所でふんぞり返ってばかりいたと思うか?」と、運転席の広重はステアリングをにぎったまま言った。「社畜の鑑とは、まさにおれのことだぞ。誰よりも遅くまで職場で居残って、裏で根まわししてることを、奴は知らんだけだ。トップのまま走り続けることがどれほどたいへんなことか。数字を稼ぐっていうのは、つまるところ人脈がモノをいうんだ。他社とひそかに情報交換して、持ちつ持たれつの関係を築く」
「伊能クンったら、あなたに嫉妬してばかりで、最近おかしくなっちゃってるのよ。……そうよね、広重さんだって、人知れず努力してるっていうのに、勝手に邪推しちゃって。このところ成績もいっぱいいっぱいなんじゃないかしら。むしろあなたたちって付き合い、長いんでしょ。たまには慰めてやったら? 総務部のあたしとしては、社員みんなの健康にも目を配りたいの。やさしいでしょ」
真純はポルシェの助手席でタイトスカートから伸びた脚を組んで言った。
「男のジェラシーは見苦しい」
広重は鼻をならし、片手で彼女のふとももの内側を撫でながら言った。
青信号になったとたん、広重はアクセルをベタ踏みし、荒々しくスタートさせた。たちまち真純はシートにめり込むような重力を感じた。
「強い男ってすてき。――でも、ときおりやさしさを見せる男は、もっと魅力的だと思うの」
「そのやさしさを、君だけでなく、伊能にもめぐんでやれと?」
「十代のころからの仲なんでしょ。それとも社会に出たら、いっしょにグラスも交わさない敵になったわけ? 世知辛い世のなか」
ステアリングを片手であやつりながら広重は、
「いいか――営業職はだまし合いだ。表面上、仲間同士で和気藹々とやってるつもりだが、一方であいつやこいつには負けたくないって思ってる。ほかの誰かが仕事でうまくいったとき、顔では称えてるが、腹んなかじゃ、くやしくって仕方がない。脱落していく奴は、それ見ろ、ざまあみやがれと内心、舌を出してるもんだ」
「男でもそんな足の引っ張りあいってあるのね。女の世界だけかと思ってた」
「営業の世界だけじゃない。プロ野球の選手だってそんなもんだろ。一軍のレギュラーで、ましてやスタメンで出場できるのは、ピッチャーをのぞいてたった八人。ベンチにいる控え選手は、いっそのことレギュラーの奴が怪我でもして、長期離脱してくれることを望んでる。レギュラーの奴が打席に立ったとき、三振したら、ドンマイドンマイと慰めてるが、腹んなかじゃ、ざまあみろ、成績が落ちればおれにチャンスがめぐってくる、と思ってるもんさ。――男ってなあ、いつの時代もエゴイストな生き物だと思うがね」
「つまり、あなたは変わってしまったと。伊能クンとはスタメンも張るつもりもないわけ」
「トップは譲れない。無人島の財宝を見つけたなら、おれはひとり占めする主義だ」
「……そのお宝、あたしにもわけてもらえないっかな?」
「真純……。おれの女になるなら、山分けしてやってもいいぞ」
「強い男って惹かれる。……ね、キスして」
と、真純がねだった。舌なめずりした。
すぐさま白いマシンを路肩にとめた。後続車がけたたましいクラクションで抗議したが、広重は意にも介さない。
女の唇にむしゃぶりついた。
ねじ切るように舌をからめ、噛みかけのガムをさし込んだ。唇を離すと、唾液が糸をひき、高速道路の常夜灯に照らされ、妖しげに光った。
「どうだ、まいったか?」と、広重。
「完璧すぎる男って、なんだか取り付く島もない。そんなあなたに苦手なものってないの?」
「苦手なもの? なんでいま、そんなことを聞く」
「意外と、かわいいウィークポイントがあるんじゃないかしら。ね、教えて。弱点を知ることで、あなたが、より豊かな人間に見えると思うの。特別な人にくらい、教えてくれたっていいのに」
「ごらんのように、れっきとした人間さ。吸血鬼にも致命的な弱点があるように。――死んだ親父は学校の先生で、しょっちゅう教鞭で叩くような恐怖の対象だったし、スキューバしてたころはホオジロザメに出くわしてからというもの、ちょっとしたトラウマになった。幸いにして腹を空かせてなかったらしく、ディナーにならず済んだが」
「それだけ?」
「あとつけ加えれば」と、ふいに神妙な面持ちで広重はうつむき、「恥をかくのが怖い。ガキのころ、ちょっとしたことで恥をかいて、親父にぶたれたことがある。怖いからこそ、おれは仕事に打ち込んで成績をあげている。強迫観念が、いまのおれを育てたようなもんだ」
「恥」
と、真純は男の片手をスカートの内側にみちびきながら言った。
広重は心ここにあらずの顔をしながら指を使った。
「恥でもいろんな種類の恥がある。大人になったいま、おれには特殊な羞恥心が芽生えた。この心理だけは克服できず、とくにその手のテレビ番組は直視できない。そんなのが画面に映ったら、すぐさまチャンネルをかえる」
真純がそれに食いついた。
「テレビ番組ですって? ね、具体的に教えて。教えてくれたら、ここから先に進ませてあげる」
「おやおや――パンティのなかへは通行許可証がいるのか」