1.「なら真純、同盟を結ぼう」
伊能はトイレの壁を殴りつけた。室内にうつろな音がこだました。
「クソ! まただ……。今月もあいつの数字を超えられなかった」
洗面所に映る自身の顔を見た。
二十八にして、鬢には白いものがまじり、夜おそくまでのサービス残業がたたって眼の充血がひどく、おまけに隈ができてパンダみたいな人相になっていた。
――これぞブラック企業の申し子らしくなってきたじゃないか、ええ?
「……なんでだ? こっちは靴底減らして、誰よりも飛び込みしてるっていうのに、追い越すことができない。なのにあいつときたら、のほほんとデスクワークしてる時間の方が多いぐらいじゃないか。それも女の子とよろしくやりながら。――いったいどうやって実績を出してる?」
伊能 晃一はUVクリアシートの商材を売り込む営業マンだった。
檜作工業株式会社は合成樹脂製品を取り扱い、建築・土木業をはじめ、梱包・物流・生産資材・生活・レジャー用品にいたるまで広範の商品販売で知られていた。
とくに十二年前、独自に開発したUVカット液剤は画期的な商材として檜作工業を牽引し、年間売り上げの六割を稼ぎ出していた。建物の窓ガラスに塗布するだけで、紫外線のみならず熱までシャットアウトする優れものだった。
施工することで冷房効果を高められるため、学校やオフィス、コンビニ、ショッピングモールで重宝された。いまや業界の注目株となっていた。
檜作工業は最前線で戦う営業マンだけでも二十三人を擁し、本店であるこのビルは六階建ての最上階のフロアにあった。
二十一時をまわり、たいていの職員は帰途についていた。
伊能は昼間見せつけられた今月の個人別営業成績のグラフを思い出し、あまりのくやしさにトイレにこもり、自身の不甲斐なさを嘆いていたのだった。
「広重がおれの上に君臨するかぎり、おれは注目もされないし、昇進もできやしない。いつまで経ってもおれはあいつの影だ」
洗面台に両手をつき、下を向いた。唇をつよく噛む。血がにじみ、鉄臭い味が口腔にひろがった。
「あいつさえいなければ……。あいつさえ消えてくれたら、どれほど救われるか」
◆◆◆◆◆
「殺すつもりですって?」
真純はベッドのなかで聞いた。
「そのためにはおまえの力が必要だ」
と、伊能はブラインドのすき間から窓の外をのぞきながら言った。けばけばしいネオン街が小糠雨でにじんで見えた。
「そんなリスクを冒してまでトップに立ちたいの? 昔からあなたってそう。上昇志向が強いのはいいけど、度がすぎてる」
「広重には高校時代から負けっぱなしだ。陸上もあいつにはかなわず、おれはずっと日陰者。勉強だってそうだった。あらゆる教科で勝ったためしがない。そりゃ、全敗というわけではないが、あきらかに負け越してる」伊能は言い捨て、手にしたグラスのウイスキーを口にした。ストレートをのどの奥に流し込む。胃の腑よ、焼け焦げるがいい。奴というハードルを越えられない罰だ。「挙句の果て、当時付き合ってた女まで奪われたからな。そのとき女から聞かされたセリフは、いまでも鼓膜に刻まれてる。『あなたより、広重さんの方がアッチも上手なの』。――この屈辱、忘れたことがあるもんか。そのうえ、職場でも万年二番手に甘んじてると、負け癖がしみついた自分がつくづく嫌になる」
真純は裸の胸もとをシーツでくるんだまま、身体をそらして笑った。
「情けない男。銀メダルどころか、ゾウとアリぐらいの差があるんじゃないかしら。もう、ライバルじゃなくなってるってことじゃないの?」
伊能は真純をにらんだ。当たっているだけに反論できない。なまじ逆上すれば、よけいみじめになるだけだ。
「……どんなにがんばっても、おれの上に日はささない。広重がいなくなれば、おれにも運が向いてくるはずだ。あいつをどうにか消したい。直接手をくだすのはいずれバレる。警察の犯罪検挙率は、なんだかんだ言っても世界トップクラスだからな。なんとか自殺させるよう、仕向けることができないだろうか」
「一線越えたところで、うまく隠し通せるの? 隠しきれたとしても、一生負い目を背負って生きていかなきゃいけないのよ。あなたにその覚悟がある?」
「おおありさ。今度こそ、あいつをひざまずかせてやる。おれがトップに立てるなら、よろこんで背負ってやるとも」
「どうやらとめてもムダなようね」と、真純は艶然と笑って、サイドテーブルのメンソールのタバコに火をつけた。煙を細く吐き出し、うず巻く煙幕のなかで眼を光らせた。「……いいわ、協力してあげる。あたしだって、あの人にはいつか復讐したくってウズウズしてたからね」
真純は以前付き合っていた男が、広重 雅史との出世争いに蹴落とされたうえ心を病み、自殺していた。敗残者の末路は、どれも悲惨だった。
「なら真純、同盟を結ぼう」と、伊能はグラスを置き、上半身裸のままベッドのかたわらに寄った。学生時代にスプリンターとして活躍しただけあって胸もとは引きしまっていたが、腹まわりはアルコールの摂りすぎで、だらしないたるみが生じていた。真純の枕もとに腰かけ、ささやいた。「おまえが切り札だ。おまえなら顔が割れていない。あいつに近づけ。そして弱みをにぎれ。仕事の鬼みたいな広重だって、どこかにつけ入るスキがあるはずだ。弱点のない人間なんているもんか」
「現代のマタ・ハリってわけね。おもしろい。なんだかワクワクしてきた。――いいわ、その役目、ひきうけてあげる」