図書室
雨の音がしない。
窓を開けて外をのぞいてみると、朝あれほど降っていた雨はすっかり止み、雲間から日差しが差し込んでいた。
開いた窓から独特な雨の残り香を含む空気が入り込み、図書室に満ちる。
時刻を確認すると、時計は4時を示していた。
今日は土曜日で午前中で授業が終わってしまったため、6時の閉館まではしばらくある。
窓をそのままにしていつもの場所———貸出カウンターの向こうへ戻った。
土曜日に部活以外で学校に残る生徒などおらず、まして授業終了後4時間も経っているのに、本を借りに来るような奴はいるはずもない。
だから自分がここにいることは、はたから見れば滑稽なことなのだろうが、自分にとって一番大切な時間はこの時間だった。
借りに来た生徒への対応も、窓一つ開けることにさえ向けられる視線も、本ではなく光る液晶を眺めてばかりの女子も、うるさい親の小言も、将来への不安も、何もかもを忘れて本が作り出してくれる世界にのめり込めるこの時間が好きだった。
まだあと2時間もある。
嬉々として先ほどまで読んでいた本に手を伸ばしたとき、ガラリと図書室の扉があいた。
司書の先生だろうか。少し遠い扉の方へ目をやると、女子生徒が一人立っていた。
「お邪魔しまーっす!あれ、誰もいない」
静かであるべき図書室に入るときにわざわざ一言いう人間を初めて見た。
なんなんだ、逆に人がいたら困るだろう。
「だれもいないのかぁ、こんな時間だもんね……」
一歩二歩と中へ入ってきた彼女がくるっとこちらを向く。
「あっ!!いるじゃん!」
彼女を凝視していたことに気が付き、慌てて視線を本へと逸らすがもう遅い。
「ねえねえ君!何でまだ学校にいるの!?暇なの?」
明るい茶色の髪を揺らしながらハキハキとした声で話しかけてくる。
「図書当番だからだけど……ついでに一応静かにしてもらっていいかな?」
「うわ、固いね。誰もいないよ?」
「僕と君がいるじゃないか」
「そう!それだよ!なんで君はここにいるの?こんな時間の図書室なんて閉めて帰るのが普通だよ?」
静かにする気はさらさらないようだ。
質問に答えるべく、口を開く。
「誰にも気にされずに好きなことができるから、それだけだよ」
どうして初めて会ったばかりの人にこんなことを言っているのだろう。完全に彼女のペースに乗せられている。
「そっか、いいね。……うん、決めた。今回の私の居場所ここにする!よろしくね、メガネくん」
「どういうこと?それに僕の名前はメガネじゃない。氷室爽弥だ」
「爽弥くんね!覚えたよ。あ、うー……そろそろ行かなきゃか。最初にここに来ればよかったなぁ。じゃあまたね、爽弥君!!」
彼女は残念そうに一息吐くと、そのまま扉のほうへ歩き出す。
「ちょ、ちょっとまって。君は……君はいったい誰なの」
「私?私はね蔓実流美だよ」
ガラリ。入ってきたときと同じ音を立てて蔓実流美は出て行った。
なんだったんだ、一方的に話しかけてきて、わけのわからないことを言って。
中断していた本を開いては見るものの、全く頭に入ってこない。
今日はもうあきらめよう。本を棚に戻してカバンを背負い、鍵をしめる。この日の図書室の閉館はいつもの土曜日より1時間も早かった。
月曜日、蔓実は図書室に来なかった。火曜日も、水曜日も。
居場所とは何だったのだろう。
そして土曜日、蔓実が図書室に現れた。
「や!お勤めご苦労様です!」
入ってくるなりビシッと敬礼を僕にして見せ、笑顔でこちらへ来る。
「……図書室では静かに」
「ありゃ、また言われちゃった。気にしないけど!」
「気にしてよ、注意してるんだから」
「はーい。あ、今日は窓開いてないんだね、開けるね!」
注意は全く持って無駄だったようだ。タタタッと窓へ走り寄り全開にする。
初夏の風が吹き込み、暗い雰囲気を明るいものにする。
髪をかき上げて深呼吸をした蔓実は満足そうな顔でこちらを向く。
「うん!やっぱりこの方がいいよ!これからはいつも開けといてね?」
「いつもって……あれからこなかったじゃないか」
「そりゃあ爽弥君みたいに読書オタクじゃないもん」
「オタク……」
「間違ってないでしょ?」
「まぁ君みたいに図書室で喋るばかりで本を読まない人と比べたらね」
少しとげとげしい物言いをしてしまう。
だから詰め寄られたのはそのせいだと思った。
「流美」
「え?」
「私の名前は流美だよ、君じゃない。ちゃんと覚えて。ほら、りぴーとあふたーみー!流美!」
予想とは全く違う話だった。
言われるがままに彼女の名前を呼ぶと、満足そうに頷く。
「ちゃんと覚えた!?今度"君"なんて呼び方したら怒るからね」
「なんでそこまで」
当たり前の疑問を彼女に投げかける。
一瞬彼女の顔が曇る。しかし、すぐに笑顔を浮かべてこう続けた。
「私お父さんのせいでよく転校するんだ。それで私ってここに居るのかな、ってなっちゃう時があって……、爽弥君が名前で呼んでくれたら私はここにいるっていうことでしょ?だから……よろしくね!忘れちゃダメだよ!絶対!」
この通り!
と手のひらを合わせて拝むようにして茶化してみせる彼女。
しかし、最初に見せた一瞬のさみしそうな顔が彼女の本当の気持ちを僕に伝えていた。
もう、その顔は見たくなかった。
「いいよ、僕が証明し続ける」
別に親しいわけではない。土曜日の図書室仲間というだけだ。
それでも僕がこの時間が、この場所が大切なように、流美にも明るい気持ちでいてほしいだけだ。
僕の返事が意外だったのか、流美は目を丸くしたが、ふふっと息を吐き
「頼んだよ、爽弥君」
といつも以上の笑顔を見せた。