毒虫ライタ
ほとんど何もないガランとした廃工場の中、打ちっ放しコンクリート床の上に駐車したドイツ製中古セダンの車内で毒虫ライタは目覚めた。
シートバックを倒してベッド代りにしていた助手席を起こし、車内灯を点けて、左手首のスイス製高級腕時計を見た。
(八時……もう朝か……)
全ての窓に目張りをして昼夜問わず外光の入らない廃工場の中、車内灯の小さな光の下で、ライタは鼻根を揉んだ。
(ゲンタの野郎、とうとう帰って来なかったな……)
センターコンソールの小物入れに置いてあったリモコンを操作して工場内の灯りを点け、助手席のドアを開けて車の外に出た。
「俺様ともあろう者が、着の身、着のままで車中泊とは……やれやれ」
体を伸ばして凝り固まった筋肉をほぐしながら大きく息を吸い、吐いた。
密閉された廃工場に淀む空気でも、せまい自動車の中よりはましに感じられる……が……
ほんのわずか、異臭を感じた。
振り返って、家出少年の血まみれ死体を見る。
「少々、生臭くなってきたか……さっさと処分したいが……」
何で、俺がそんな面倒をしなければいけないんだ……と、一瞬思う。
(この工場はゲンタの寝ぐらだろうがよ。工場の掃除は奴の仕事だろうが)
そこまで思ったところで、ふと気づく。
(ああ……いや……ひと晩経っても弟は帰って来なかった……もう工場へは戻らない……戻れない、って事だろうな)
コンビニへ行くと言ってゲンタが〈噛みつき魔〉の彷徨く夜の住宅街へ飛び出してから既に十二時間以上経過している。
日付が変わって夜が明けたというのに、そう遠くもないコンビニエンス・ストアから弟はまだ帰って来ない。
「つまり、ゲンタも奴らにヤられちまったって訳だ……おっ死んじまったのか、それとも今ごろ奴らと同じアホ顔こいてウロウロ歩き回ってんのか、いずれにしろ無事じゃねぇ……あっけない物だな」
血を分けた実の弟が死んでも、別に悲しくもなかった。
最初に湧き上がった感情は『毒虫ゲンタ』という名の金づるが居なくなった事に対する苛立ちだった。
「せっかく楽して金儲けして、面白おかしく人生送る方法が見つかったってのに……肝心要の弟さまがコンビニに行ったきり帰ってこねぇんじゃあ、仕方ねぇ……こんな事なら〈N・N〉の製造法を聞き出しとくんだったぜ」
それとも弟が危険を冒して工場の外に出ると言った時に、押さえつけてでも止まらせるべきだったのか。
しかし、一度弟が言い出したことを辞めさせるなど、実の兄だろうと誰だろうと無理だったに違いない、と思い直す。
ライタは、何でこんな事になっちまったんだと苛立ち、これからどうやって生きて行けばいいんだと戸惑い、戸惑っている自分自身に、さらに苛立った。
――その時――
シャッターわきのスチール・ドアから、かすかにガチャガチャという金属音が聞こえてきた。誰かが鍵を開けようとしているのだ。
心臓が跳ねた。
壁のインターフォンまで飛んで行ってモニターの電源を入れた。
液晶の向こうに現れたのは……
弟だった。
なぜか上半身裸だ。ドアノブに手をかけて回そうとしている。
ライタは素早く液晶画面から視線を動かし、もう一度スチール・ドアを見た。
ドアが、開いた。
その向こうに、弟が立っていた。
確かに、弟だった。
「ゲンタ……お前ぇ……生きていたのか……」
弟は、兄の問いかけには答えず、悠々と工場内に入り、後ろ手にドアを閉め、鍵をかけた。
「……ああ、兄貴……そんな所で何やってんだ?」
ライタと目が合って、初めてその存在に気づいたといった感じでゲンタが兄に尋ねた。
「そりゃ、こっちのセリフだ。ゲンタ、今まで何処をほっつき歩いてた?」
「べつに遊んでたわけじゃねぇよ……まあ、色々あってね……ああ、そうだ、兄貴にビール頼まれてたっけ? 悪ぃ、忘れちまった」
「んな事は、この際どうでもいいが……」
弟の飄々とした態度に内心ホッとする……まだ金づるに見放されちゃいねぇ、まだ俺の人生はツキに見放されたわけじゃねぇ、と。
ライタは、あらためて弟の姿を観察した。
見たところ、裸の上半身に噛み傷は無さそうだった。左の手首から先と、右肩の一部の色が違って見えるのが気になった。
(やけに生っ白いのも気に入らねぇが……左手の方が右手より小さく見える。指も細ぇ……まるで女の手みてぇじゃねぇか……目の錯覚か何かか?)
右手に例の〈サンダーボルト・シャーク・デス・セーバー〉とか言う剣。
弟が長剣を持ち上げた。「ああ、そうだ……こいつを充電しなくちゃ……でも、その前に軽く洗っておくか」
そう言いながら、壁から水道の蛇口が生えている場所まで歩いていく。かつて、この工場が稼働していた時には、床清掃に使われていたものだろう。
蛇口の真下にはステンレス製の格子が嵌った排水口があった。
ゲンタがハンドルをひねると水道水が勢い良く出て、そのまま真下の排水口へ落ちていく。
その滝のような水流の中に、ゲンタは長剣のギザギザの刃を突っ込んだ。
剣に付着した赤黒い汚れが溶けて流れ落ちていくのが、ライタの居る場所からも見えた。
水洗いを終え、水道の栓を締めて、ゲンタは水の滴る剣を持って工場の奥へ向かって歩いた。
「おい、ゲンタ」兄が弟を呼び止め、工場の床に転がる少年の全裸死体を指さす。「早くそいつを片付けろよ。腐って蝿が集って蛆が湧くぞ」
「ああ?」
言われて初めて思い出したといった風に、ゲンタは血まみれの死体を見下ろした。
「そうだった……そっちを先にやっておくか」弟は、いったん長剣を鉄階段の手すりに立て掛けて、カンッ、カンッ、カンッと音を立てながら階段を昇り、安物の三徳包丁を持って降りてきた。
赤黒く凝固した血が全身にこびり付いている全裸死体の横に跪き、包丁を使って一片の肉を死体の胸から切り取って、そのまま口の中へ放り込んだ。
「おい! ゲンタ! 何やってんだ!」
叫ぶ兄を無視して、ゲンタはクチャクチャと音を立てて生肉を咀嚼した。
「フムン……やっぱ臭うな……もう肉が傷み始めてる」咀嚼しながら独り言を吐く。「細胞が完全に死んじまってる……まあ、死んで半日以上たってるんだから、当たり前か……消化して飢えをしのぐ事は出来たとしても……これじゃ、生体融合は無理だな。やっぱり生きたままか、最低でも死んだ直後じゃないと……」
最後に肉片をごくりと飲み込み、苦い薬を我慢して飲んだようなしかめっ面になる。「おぇぇ……こりゃ、臭いし不味いし……どうにか食えないこともないけど……」
そう言って立ち上がった弟に、ライタはもう一度怒鳴った。「おい、ゲンタ! お前ぇ、なに食ってんだ! 気でも狂ったのか! 人間の肉だぞ!」
「狂っちゃいねぇよ。兄貴……」立ち上がったゲンタが、兄を見て言った。「少なくともコッチの方は、な」自分のこめかみを指さす。「狂っちまったんだとしたら、頭じゃなくて体のほうだろうさ……俺、昨日の夜を境に特異体質になっちゃったんだよ」
「はぁ? 特異体質だぁ? どういう意味だよ……わけの分かんねぇこと言ってんじゃねぇ」
「俺、人間の肉しか食えなくなっちゃったんだ……しかも、たぶん生肉限定」
「なに言ってんだ? ますます分かんねぇっての」兄は、弟の言動に付いていけず、軽いパニック状態になる……『ゲンタの野郎、とうとう狂っちまったのか』と。
「うーん……と……まあ、あれだよ……アレルギー? みたいなもん」そう言いながら、弟は、少年の血まみれ死体の片腕を持ち、打ちっ放しのコンクリートの上をずるずると引きずって出入り口へ向かった。
「おい、お前、死体をどうする気だ?」兄のライタが問う。
「外に捨てて来る」
「捨てるだと? なに考えてんだ?」
「だって、死体を片付けろって言ったの、兄貴じゃんかよ」
「警察に見つかったら、どうすんだ!」
「大丈夫……生きてんだか死んでんだか分からない奴らで町じゅう一杯だから。今さら死体が一つ増えたからって、誰も気にしないよ……第一、俺らが昨日の夜ころした連中の死体が、ドアの直ぐ外に散乱してるぜ。警察の心配するなら、そっちが先だろ」
「……そりゃ……そうだが」
「これは俺の勘だけどさ……もう警察とか、そういうの、この世界から消えて無くなっちまったと思う。警察も、自衛隊も……いや、たぶん日本政府そのものがもう存在してない……下手すっとアメリカもロシアも中国も……」
「警察が無くなっただぁ? ゲンタ、なに言ってんだか、ますます分からねぇぞ……お前、本当にイカれちまったのか?」
「しょせん何を言っても、一晩じゅう工場に引きこもっていた兄貴には分からんか……外へ出て、外の様子がどうなってるかを見りゃ、兄貴も一発で理解すると思うんだけどな……まあ、とにかくコレを捨てて来るわ。大丈夫、俺を信用して安心しろって」
ゲンタは、またズルズルと死体を引きずって戸口へ向かった。
空いてるほうの手で鍵を外し、無造作に鉄のドアを開けた。
「おい! ゲンタ! 何を……」
兄が『何をやっている』と問う前に、ゲンタが振り返る。
「大丈夫だって言ったろ? 安心しろよ、兄貴……ああ、それから俺の事を心配してくれてんなら、そっちも大丈夫なんだ……俺、奴らに食われない体質になったから」
「く、食われない体質って……」
ライタが重ねて問いかける間もなく、弟は引きずった死体と共にスチール・ドアの向こうへ消えた。




