毒虫ゲンタ(その5)
できるだけ姿勢を低く、静かに、なおかつ速く、二人は建物の陰から飛び出し、路肩にズラリと並ぶ車のうち、一番近くに停めてあった軽自動車とセダンの間に滑り込んだ。
「姿勢を低くしていたから、車道にいる奴らからは駐車車両が邪魔で見えなかっただろうが……」
軽自動車のリア・ハッチ越しに、ゲンタは恐るおそる周りの様子をうかがった。
「歩道にいる数人には見られた可能性がある」
「み、見られたんですか?」
「まだ分からん……運が良ければ全員見過ごして、まんまと第一関門突破だが……いや、待て」
ゲンタが眉間に皺を寄せた。
「だ、駄目だ。歩道にいる連中のうち、一人だけ真っ直ぐこっちへ向かってくる奴がいる」
「気付かれたって事?」
「多分な」
「ど、ど、どうするんですか? 僕たち食い殺されちゃうんですか?」
「まあ落ち着けよ。そう焦るな。ちゃんとプランBも考えてある」
実際にはプランAもプランBもゲンタの頭の中には無かった。苦しまぎれの出まかせだ。
勢いに任せて突撃した、というのが本当の所だった。
鋭い直感が突然閃く時もあれば、閃きも何も無く唯々行き当たりばったりの行動に終始することも多い……それがゲンタという男だった。
ただし一点だけ、ゲンタには保険があった。
隣でビクビク震えている深根善忠だ。
いざとなったらシャーク・デス・セーバーを『拷問』モードに切り替え、このヒョロヒョロした大学生にチョロっと当てて気絶させるなり一時的に動けなくしたうえで、放置すれば良い。〈噛みつき魔〉に餌を撒いて、奴らが気を取られている隙に全力で逃げる。
(そのためにも、善忠くんには最後の最後まで付き合ってもらわんとな。自信を持ってもらわないと……)
途中で勝手に逃げられたんじゃ、囮として使えない。
「プ、プランBって、何ですか?」と聞いてくる義忠に、「んん? そりゃあ、なあ、えーっと……」と答にならない答えを返しながら、ゲンタは苦しまぎれにもう一度、軽自動車のリア・ハッチに嵌められたスモーク・ガラス越しに、歩道の様子をうかがった。
近づいてくる〈噛みつき魔〉は、三十歳くらいの男だった。チェック柄のシャツを着ていた。他の連中同様、口の周りもシャツもズボンも血で赤く濡れていた。
その、一人だけ近づいてくるチェック柄シャツの〈噛みつき魔〉を見ているうちに、ゲンタはあることに気づいた。
「おかしいな……何で向かって来るのはチェック野郎一人だけなんだ?」
「そりゃあ、見られたのが一人だけだったからでしょ」
「だ・か・ら、何で一人で向かってくるんだ?」
「ちょっと質問の意味が分からないです。何が言いたいんですか?」
「アホか、お前は……いいか、奴らが本当に恐ろしい存在になるのは、どんな時だ?」
「……」
「逃げ場の無い状況で、大勢に取り囲まれた時なんだよっ……俺の剣なら一度に十人くらいまで相手にできるが、それ以上だと流石に電撃剣でもキツい……逆に言えば、奴ら一人一人は決して強くない。俺は実際に相対したから分かる。一人なら楽勝といっても良いくらいだ。弱い、鈍い、頭が悪いの三拍子……で、ここからが本題だ。集団でこそ力を発揮する奴らが、なぜ仲間を呼ばない?」
「そ、そりゃあ……」
「奴らには、コミュニケーション能力が無いからだ。究極の個人主義者ってわけだ。一人が俺らを見つけたら、大声で叫ぶなりして情報を共有し、集団で俺らを取り囲むのが最善策なのに、奴らはそれをしない。できない……なぜなら、奴らは言葉を話せないし理解できないから」
「つまり、何が言いたいんですか?」
「見られたのが一人なら……俺らに気づいて近づいてくるのが一人だけなら、楽勝ってことよ」
「楽勝?」
「俺を信じろ。お前だって、アパートの二階で見てたんだろう? 俺の勇姿と、このサンダーボルト・シャーク・デス・セーバーの威力を」
「サンダー……何ですか? それがその剣の名前ですか?」
「とにかく、あいつを倒すのが最優先だ。それは俺がやる。お前は他に近づいてくる奴がいないか、まわりを見張ってろ」
急に自信がついたような雰囲気を醸しだすゲンタを、義忠は取りあえず信用することにした。
言われたとおり軽自動車の陰から周囲を覗き見る。
「大丈夫です。他に、僕たちに気づいてる奴は居ないみたいです」
二人が小声で話している間にも、チェック柄シャツの〈噛みつき魔〉は、ゆっくりと、確実に、こちらへ近づいて来た。
ゲンタは、長剣が車からはみ出ないように低く構え、自分自身も低い姿勢のまま、よたよたと近づいてくる男を軽自動車のスモーク・ガラス越しに凝視した。
「……あと五メートル……三メートル……一メートル」
車の陰から男が現れた瞬間、ゲンタは低く構えた剣を下から上へ掬ようにして相手の股間に突き刺した。
「ちんこ痺れろ」
トリガー・スイッチを引く。
剣身に青白い放電光が走り、チェック柄の男は「しゅぶぶぶぶぶぶぶ」という意味不明の声と黒い反吐を口から吐きながら、狂ったように踊りだした。
感電による痙攣で男の手足がデタラメに暴れ動き、軽自動車のボディをバンッバンッと叩く。その音が予想以上に大きく県道に響いた。
「チッ、しまった」
ゲンタの顔が歪む。迂闊だった。
スイッチを入れた時に発生する放電光と放電音は小さく、明るい街灯が照らす県道なら、まず気づかれないだろう考えていた。
(しかし、まさか感電した腕が車のボディを叩くとは……何てぇ計算外だよ)
あわててスイッチを切る。
気づかれないようリア・ウィンドウ越しに周囲の状況を確認する。
ほとんどの〈噛みつき魔〉がこちらを見ていた。
肝が冷えた。
チェック柄の男の股間に突き刺していた剣を抜く。
男は頭蓋骨を軽自動車の角に打つけてさらに大きな音を響かせ、そのままアスファルトに崩折れた。
路上に、静寂が戻った。
〈噛みつき魔〉たちは襲ってこなかった。
もう、こちらには興味が無くなった、とでも言わんばかりに、また各々が勝手な方向へ歩き出した。
「な、何だ? どうした? 何で襲って来ない? 一体どういう原理だ?」
とりあえず危機は去ったと安心しつつ、どうにも解せない〈噛みつき魔〉の行動にゲンタは戸惑う。
「あ、あの……『仲間』だったからじゃないですか?」善忠が小声で言った。
「仲間? どういう意味だ?」
「あ、いや、彼らが互いを『仲間』だと認識しているかどうかは分かりませんが……とにかく、音のした方向を見て、その音を出したのが同じ〈噛みつき魔〉だと確認した時点で彼らは興味を失った、と」
「なるほど……人間を見つけりゃとことん追いかけるが、同類である〈噛みつき魔〉が大きな音を立てようが何をしようが一切関心なし、ってわけか」
「……まあ、仮説ですけど」
「いや、案外ドンピシャの正解かもしれない」
ゲンタは、工場の外でサラリーマンが〈噛みつき魔〉たちに襲われた時のことを思い出した。
(確か、あの時、リーマンに噛みついていた奴らは、ある瞬間ピタッと噛みつくのを止めた。まるで『もう、興味が無くなった』とでもいうように……そして、その直後、リーマンも奴らの同類になって歩き出した……)
「奴ら、ご同類には全く興味を抱かない、筋金入りの個人主義者ってわけだ」
(それにしても、奴らが人間に噛みつく理由は何だ? 食欲じゃ説明が付かねぇ。食べ方が中途半端だからな……仲間を増やす事? そうか、それだ)
「奴らの行動原理は、たった一つ。『仲間を増やせ』だ」
「はあ、そうなんですか?」
「何にせよ、俺たちにも勝ち目が出てきたじゃねぇか」
「本当ですか?」
「同類の数を増やす、それが奴ら欲望の全てだ。それだけなんだ……だから、既に噛みつかれて奴らの同類になってしまった人間には、興味が無い。死のうが踊り出そうが、一切関心を持たない。おまけに互いに協力し合うという知恵もない」
「つまり……?」
「いま俺たちがやっているのは、やっぱり『ステルス・ゲーム』だった、って事さ。隠密移動に暗殺、つまり他に気づかれないよう各個に撃破すればいい。賭け金は俺たち自身の命。ステージ・クリアの賞品はトンカツ弁当」
「賭け金のわりに賞品がショボいですね」
街灯の下、軽自動車の陰に隠れて、二人は顔を見合わせニヤリと笑った。




