毒虫ゲンタ(その4)
住宅地の狭い路地と広い県道が交差する角には、四階建て鉄筋コンクリートの集合住宅があった。
ゲンタは、その臙脂色の煉瓦風外壁に背中を貼りつけるようにして巨体を隠し、そこから少しずつ顔を出して県道を覗いた。
等間隔に並ぶ街灯が県道を照らしていた。住宅地の路地より大分あかるい。
駐車している車が多かった。
いや、駐車車両が道路を埋めつくしているというべきか。
どの車も停め方が雑だ。斜めに駐車したり、片輪が歩道に乗り上げていたり……追突し、追突された状態で停車している車両、街灯の根元に突っ込んでバンパーに鉄柱をめり込ませたまま放置された車両。両側二重あわせて四台の車が並列に駐車して道を完全に塞いでしまっている所もあった。
駐車車両の三分の一はドアが開けっ放しだった。
乗車していた人間は、ドアを閉める間さえ惜しんで何処かへ行っててしまったのか……
当然、動いている車は一台も無い。
エンジン音と走行音の全く無い静かな夜の道路。その静まり返った道をうろつく人影……歩道だろうと車道だろうとお構い無しに歩き回る人間たち。
男、女、年寄り、若者、学生、子供……目的もなく、おそらく人としての意識もなく、ただ、のろのろと歩きつづけるだけの存在に成り果ててしまった者ども。
「うわ、結構うろついてるなぁ……」
ゲンタは小さな声で呟き、素早く首を振って逆方向を確かめた。
車道を渡った反対側、二百メートルほど先にコンビニエンスストアが見えた。いつも通り、明るい店内の光が全面ガラスの壁を通して県道を照らしていた。
コンビニの手前は小学校があった。
交通量の多い道路で生徒の安全を確保するためだろうか、学校の正門から数メートルのところに歩道橋が渡されていた。
コンビニ周囲の〈噛みつき魔〉の密度が他の場所よりも高い。
「何でだよ? 何でコンビニの周りだけ多いんだよ? 奴らも弁当買って食うってのか? そんなこと出来そうな感じじゃなかったけどなぁ……あれだけ数が多いと、このシャーク・デス・セーバーをもってしても流石に厄介だな」
どうしたものかと建物のかげに隠れて考える。
「イージーモードで第一ステージをクリアしたと思ったら、いきなり第二ステージはハードモードかよ」
ほんの少しのあいだ前方の県道に気を取られ、後方の住宅地への注意を怠った。
路地に居たやつらは電撃を放つ剣で全滅させた、という思い込みもあった。
――突然――
すぐ後ろに気配を感じた。
心臓がドクンッと一回、大きく跳ねた。
反射的に振り返りながら、ほとんど無意識に右手の剣を肩の高さで水平に振った。
振り返った目の前に男がいた。
男が「ひっ」という小さな悲鳴を上げ、頭を抱えてしゃがみこむ。その頭の上を、文字どおり間一髪、長剣が走り抜けた。
「た、助けて……切らないで……殺さないで」
しゃがんだ男が、か細い声で命を乞う。
年齢は二十歳くらいだろうか。生白い肌の細面にメタル・フレームの眼鏡をかけている。
ゲンタは、剣の引き金に掛けた指をゆるめて、しかし警戒心は解かずに切っ先をしゃがんだ男に向けたまま尋ねた。
「お前、喋れるのか?」
「え? あ、はい……喋れます。話せます……だから殺さないで」しゃがんだ男がゲンタを見上げて言った。
(言葉が通じるってことは、噛まれて阿呆みたいになっちまった奴らとは違う、ってことだよな? つまりまともな人間って訳だ)そんな風に考え、相変わらず切っ先を向けたまま、ゲンタは「立てよ」と若い男に言った。
「はい……」
男が言わるまま立ち上がった。
平均的な身長。
ひょろひょろした細い肩。
夜中にフラリとコンビニへ向かう大学生、といった感じの服装。
ゲンタは自分の口に指をあて、大学生風の男に向かって「しっ」と小さな声で言った。
「静かにしろよ。話すなら声を低くしろ。やつらは音に敏感だ……どうやら音に反応するみたいだ」
「音に? 本当ですか?」もともと弱々しい男の声が、さらに小さくなった。
「ああ。まだ確証を得たわけじゃないが……たぶん、な」
〈噛みつき魔〉でもないし、どうやら危険な男でもなさそうだと判断し、ゲンタは剣を下げた。
「あんた、名前は何て言うんだ?」
「深根って言います。深根善忠」
「善忠くんね……俺は、ゲンタだ」
そこで、ふと気づく。
「そうか、あのT字路沿いのアパートから俺を覗いていたのは、ひょっとして……」
「ぼ、僕です……アパートでゲームしてたら突然ネットが切断されて……電話も繋がらないし、テレビも映らないし、窓から通りを見下ろしたら、なんか通行人が血まみれになって噛みつき合ってるし……」
「それで、アパートに閉じこもって、俺の勇姿を二階の窓から見学していた、って訳か?」
「はい……なんかゲンタさんは正常に見えたから……町がこんな風になって以降、初めて見たまともな人間だったから……いつまでも閉じこもっていても埒が開かないし、それで」
「一か八かアパートを飛び出し、俺のところまで来たってわけだ」
「はい」
ゲンタは、あらためて深根善忠と名乗る若い男を見た。
今まで一度も外で運動したことがないような、ヒョロヒョロした体に生白い肌。
(なんか、足手まといになりそうな男だな……しかし俺にとっても、工場の外で出会った初めてのまともな人間だ。こっちが知らない情報を持っているのなら、しばらく行動を共にするのも手か……とりあえずキープしときゃ、いずれ何かの役に立つかもな。最悪、こいつを囮にして〈噛みつき魔〉どもの注意を引きつける、って手もある)
「善忠くん、アパートに食料とか、ある?」
「いいえ……お茶のペットボトルと、あとは調味料くらいしか……」
「残念。まあ、男の一人暮らしなんてそんなものか……じゃあさ……俺、これからコンビニに行くんだけど、善忠くんも一緒に来ない? いずれ食料は必要になるだろ?」
「コンビニ、開いてるんですか?」
「さあね。まあ電気は点いてるから、開いてるんじゃないかな。問題は、そこまでの二百メートルに連中がウジャウジャ歩き回ってる、ってことだけど」
「ど、どうするんですか?」
「こっそり隠れながら行くしかないだろ。ステルス・ゲームみたいに」
「ス、隠密行動ですか? コンビニまで二百メートルも? 見つからずに行けるんですか?」
「リスクが無いとは言えないけど……どうする? アパートに引きこもってた方が安全だって言うなら、ここで別れたって良いんだぜ?」
少しだけイラついたような表情を作って、ゲンタは善忠に決断を迫った。
「俺は、最初からコンビニに行くつもりでここまで一人で来たんだし、たとえ善忠と別れても一人で行く。とにかく腹が減って辛抱たまらん。何が何でもトンカツ弁当を買って食う……お前がここで別れたいっていうならそれでも構わない……でも、その時は俺たちの関係もこれっきりだ。俺がコンビニでトンカツ弁当を買って再びここまで戻ってきた時、お前がのこのこアパートから出てきたとしても、俺はお前を無視する……俺が危険を冒して行動している時に、自分だけ安全な場所に引きこもっていた奴を、仲間とは呼べないからな」
「僕も行きます」考える間も無く、善忠が答えた。
「一緒に連れってってください……さっきも言ったとおり、自分の部屋に居ても埒が開かない。何とか情報を収集してこの状況から脱しないと……それには一人より二人の方が良いし、ゲンタさんと一緒なら心強い。僕、ゲンタさんがその剣みたいなのでやつらを次々に薙ぎ倒すとこ見てました」
「そりゃ、どうも……これで決まりだな。俺たちゃ二人だけのパーティ、さしずめ俺は聖なる剣を持った勇者様ってわけだ。まあ勇者の俺としちゃ、どうせパーティ組むならヒョロい大学生じゃなくて巨乳エルフの魔法使いが良かったけどな」
ゲンタの笑えない軽口に、深根善忠が「ははは」と力なく笑う。
ゲンタは、いかにも真剣な表情をつくって善忠の頼りない顔を見返しながら、内心ほくそ笑んでいた。
(へへ。上手くいったぜ。馬鹿が。せいぜい足手まといにならないよう頑張って、いざとなったら俺の身代わりになってくれよ)
「そいじゃ、そろそろ行くか」
剣を持つ右手にギュッと力を入れ、再び物陰から県道を覗き見る。
「良いか、音を立てるんじゃねぇぞ。姿勢を低くして静かに進むんだ。ラッキーなことに乱雑に停められた車が物陰になってくれる。パックマンの迷路みたいなもんだ。俺たちゃパックマン、奴らは幽霊ってわけだ。捕まるなよ」
二人は腰を落とし、かがんだ姿勢で路肩の駐車車両に沿って静かに走った。




