毒虫ゲンタ(その2)
N市住宅街の中を、ゲンタは県道へ向かって歩いた。
住宅街の入り組んだ道には死角が多い。
まして夜。薄暗い街灯。たった一人。
「見たところ、バケモノどもは居ないようだけど……」キョロキョロ辺りを見回しながら逃げ腰で歩く。
「いつ何処から飛び出してくるかわかったもんじゃねぇよ」
ロング・ソードとノコギリを足して二で割ったような不思議な形の武器を両手で構え、その切っ先をあちこちの物陰へ向ける。
廃工場を出たときから心臓がドキドキと鳴りっぱなしだった。
(お、俺、ひょっとして緊張してるのか? こ、怖がっている?)
ゲンタは『緊張』という自分自身の生理反応に気づき、驚いた。
物心ついてからこっち、緊張したことも、何かを怖がったこともなかった。
突き詰めれば、ゲンタには『愉快』か『不愉快』の二種類の感情しかなかった。
その時の感情が『愉快』なら、飽きるまで快楽を貪れば良い。
その時の感情が『不愉快』なら、キレて、怒鳴って、わめき散らして、相手を殴って、不愉快の元を断てば良い。
ゲンタが他人に恐怖を与えることはあっても、他人がゲンタに恐怖を与えることは無かった。
……〈噛みつき魔〉というバケモノの存在を知るまでは……
(どういう仕組みか知らないけど、やつらに噛まれたら、お、俺もあんな風になっちゃうんだ)
後先考えず、『腹へった、コンビニ弁当食いたい』という衝動を我慢できずに工場を飛び出して来た。
暗い夜道を歩くあいだに、徐々に衝動は冷めていった。
反比例するように『恐れ』と『後悔』が立ち上がった。
(阿呆みたいな顔して、フラフラ千鳥足で歩いて、口から血ぃダラダラ垂らして……やつらに噛まれたら、俺もあんな情けないバケモノになっちゃうんだ……そんなの嫌だ、嫌だ、絶対に)
路地がT字に交わる所まで来た。
左に曲がれば広い県道までは直だ。
ふと何気なく、古い木造アパートの二階を見上げた。
ひと部屋だけ、窓に明かりが点っていた。
窓に男の頭が見えた。
逆光で顔の細部は分からなかったが、若い男のようだ。
目が合った、と思った。
一瞬の出来事だった。
サッとカーテンが閉じられ、男はカーテンの向こう側に消えた。
「だ、誰か居るのか?」ゲンタは驚く。「ひ、人が居るのか? ……て、そりゃあ、居るよな。よく考えてみれば」
表情はよく分からなかったが、カーテンを素早く引く動作から、正常な人間のように感じた。
今まで無意識に、世界じゅうの人間が〈噛みつき魔〉なってしまった可能性を考えていた。
「はは……冷静に考えてみりゃ……この世でまともな人間が俺と兄貴の二人きりだなんて……あ、有り得ないよな……妄想するのも良い加減にしろよ、俺」
何やら恐ろしい事がこの周辺で起きている……それは間違いなさそうだ。
しかし、それはごく限られた地域での局地的な現象に過ぎないのではないか?
そんな事で社会全体が崩壊するはずがない。
いずれ警察なり医療機関なりが動きだして事態は沈静化するに決まっている。
(そ、そうだ……いくら異常な奴らが集団で現れたからって……なんで俺は『世界が滅ぶ』なんて有り得ない妄想に取り憑かれてたんだ?)
偶然アパートの住人と目が合った。どうやらそいつはバケモノじゃなく正常な人間らしい。自分たち兄弟以外にも、まだ正常な人間が居る……ただそれだけの事が、少しだけゲンタを気楽にさせた。
全身の緊張を解き、「フゥッ」と深く息を吐く。
逃げ腰でおどおど辺りを見回しながら歩くのを止め、ふらりとコンビニへ弁当を買いに行く時のような、いつも通りの無防備な姿勢でT字路を曲がった。
目の前に男が立っていた。
暗い色のスーツを着たサラリーマンだ。
さっきゲンタたち兄弟の廃工場に逃げ込んできた男……兄弟に捕まり〈実験台〉として外に放り出された男……その『成れの果て』
頭皮、額、耳、頰、鼻……顔じゅう至るところが欠損していた。
バケモノに齧り取られた傷口からヌラヌラと赤黒い血がにじみ出ていた。
袖口から見える左手は半分になっていた。
スーツもズボンも襤褸切れのようになって垂れ下がり、中に着た白シャツは襟から腹まで大量の血でグッショリ濡れていた。
ゲンタは不意をつかれ、思わず「ひゃあっ」と叫んでしまった。
予想以上の素早い動きで元サラリーマンのバケモノが両手を突き出し、ゲンタを捕まえようとした。
後ろへ仰け反り、間一髪でバケモノの手を躱せたのは、ただ単に運が良かっただけだ。
ゲンタは身を翻し、もと来た道を戻ろうとした。
工場へ戻るその道に、いつの間にか女子高校生が立ってた。
制服はボロボロで、全身血まみれだった。
スカートは無くなっていて、真っ赤に濡れたパンティと太ももが剥き出しになっていた。
ヨロヨロとした足どりで、こちらへ近づいて来る。
T字路の三方向のうち二つをバケモノ化したサラリーマンと女子高生に塞がれ、考える暇も無く、ゲンタは残った方へ全力で走った。工場からも県道沿いのコンビニからも遠ざかる羽目になったが、仕方ない。
(くそっ、剣が重い……)
ゲンタは、ただ太っているだけの男ではない。脂肪も多いが、筋力もそれなりに強い。見た目ほどドン臭くはない。
しかしロングソードのような金属の塊を持って走れば、速度も落ちる。息も上がる。
さっきまでシンッと静まり返っていた住宅街の夜道に、あちこちの暗がりからバケモノどもがワラワラと現れ、逃げ道が塞がれていく。
(な、なんだ? 誰もいなかったのに? なんで急に現れた? なんで急に集まりだした?)
そこで気づく。
(声か? さっき俺が思わず出しちまった叫び声に反応しているのか?)
児童公園があった。
意味もなく衝動的に公園の中へ逃げ込んだ。
隅の方にベンチとブランコ、中央部分にちょっとした広場があるだけの小さな公園だ。出入り口は二つしかない。
反対側の出入り口わきに植えられた木の陰から、バケモノ化した男子高校生が二人、現れた。
振り返る。
追いかけて来るバケモノどもは七、八人に増えていた。
ゲンタは公園の真ん中で足を止めた。
「挟まれた。つ、詰んじまったのかよ? 覚悟を決めるしかねぇってのか」
(くそっ、くそっ、くそったれがっ!)理性が吹っ飛んだ。頭の中で、何かがピンッと弾け飛ぶ音が聞こえたような気がした。
「やってやるよォォ!」
衝動がゲンタを支配した。
「殺ってやるって言ってんだよ! オラァ! かかって来いよ! バケモノォォォ!」
大声で叫んだ。ついさっき『音がバケモノを呼び寄せる』という仮説を自分で立てておきながら、我を忘れて叫んだ。
生まれつき頭脳は抜群に良いが、性格は幼稚で衝動的だった。
その瞬間その瞬間の感情に流され、刹那的、衝動的な行動ばかり取ってしまう。それがゲンタの弱点だ。
そもそも、最初にT字路でバケモノ化したサラリーマンに出会ったとき、叫び声を上げて逃げたりせず冷静に対処していれば、まだ可能性はあった。
自分自身の発明した『武器』が〈噛みつき魔〉に有効であることは、既に実証済みだったはずだ。ならばサラリーマンと一対一の時にそれを使うべきだった。
しかし、もう手遅れだ……
公園に追い詰められ、雄叫びを上げ、さらにバケモノどもの注意を引いてしまった。
公園に後から後からやつらがやって来る。
ゲンタは〈サンダーボルト・シャーク・デス・セーバー〉を構え、引き金を引いた。
柄頭のセイフティ・スイッチは、既に『即死』モードになっていた。
ブーンという唸り音と共に、剣身にバチッ、バチッと青白いスパークが走った。
「さあ、来いよ」
ゲンタの瞳が、追い詰められた獣のようにギラリと光った。




