毒虫ゲンタ(その1)
……「噛みつき魔現象」発生初日の夜……
山のキャンプ場で、風田たち一行と大剛原親子、そして三人の大学生が出会い、互いの体験を伝え合っていた、その同じ時間。
N市住宅街の外れ、県道から一本裏道へ入った場所にある廃工場の中を、毒虫ゲンタは巨体を揺すりながらイライラと行ったり来たりしていた。
「あああ、腹減った、腹減った、腹減った、腹減った、腹減った」
「おい、ゲンタ、少し落ち着け」兄の毒虫ライタが溜め息まじりに弟を宥めた。「余計に腹が減るぞ。それに、こっちまでイライラしてくる」
弟とは対照的に、兄はひょろりと細長い体を工場の壁に預け、じっと腕を組んで動かなかった。
「兄貴、どうするんだよ? これからどうしたら良いんだよ?」ゲンタが兄のライタを見て言った。
「俺に聞かれたって、分かる訳ないだろうが……」兄は低い声で答えた。
「くそっ、腹が減って死にそうだ」
「いちいち大袈裟なんだよ。たかだか一食や二食メシを抜いたからって、人間がそう簡単に死ぬもんかよ」
ふと、弟が、工場の中央に捨て置かれた血まみれの肉塊に視線を向けた。
「な、なあ……兄貴……」
瞳が奇妙な欲望の色を帯びてギラリと光った。
「ひ……人の肉って……や、焼いたら美味いのかな?」
毒虫兄弟のサディスティックな「実験」の犠牲になり、切り刻まれ、ズタボロになった家出少年の死骸を見つめたまま、弟が低く呟いた。
「おいっ! ゲンタ!」さすがのライタも吐き気を覚えた。「気持ち悪ぃこと言うんじゃねぇ!」
「はは、冗談だよ、冗談……」ゲンタが乾いた笑いで誤魔化した。
しかし、ライタは、弟の異常な性格を知っている。
弟は、さも真実を語るような顔で嘘を吐き、冗談を言うように本心を吐く。
一瞬、ゾッと背筋に悪寒が走った。
(状況しだいじゃ、こいつ本当に人間の肉でも喰いかねないぜ……いや、場合によっちゃ、実の兄であるこの俺でさえ、殺して……)
……弟に『我慢の限界』が来る前に何とかこの工場を出る目処を立てなければ……
工場に一つだけあるスチール・ドアを見た。
あのドアの外には、血まみれの〈噛みつき魔〉どもが今も犠牲者を求めて彷徨いている。
(どうやら外の連中はドアやシャッターを抉じ開けるだけの知力も体力も無さそうだ……だとすれば、この工場の中にいる限りは安全だが……閉じ籠っていても埒は明かねぇ)
「冷蔵庫の中に、何か食いもんは無ぇのか?」念のため、弟に聞いてみた。
「すっからかんだよ。さっき確認した。見事に何にも無い。あー、こんな事なら冷凍ピザでも買い溜めしておくんだったよ」
「そうか……」
もう一度、ライタはドアの方を見た。
そして、ある事に気づいた。
「おい、ゲンタ……」
「何だよ、兄貴」
「音が、しねぇ」
兄の言葉に、ゲンタも耳を澄ます。
「そう言われてみれば……」
工場の外から音が聞こえて来ない……さっきまで〈噛みつき魔〉がスチール・ドアやシャッター叩く音がうるさく響いていたのに。
ゲンタはドアまで歩いて行って、横にあるインターフォンのモニターを点けた。ドアの外側に設置した監視カメラの映像が映し出される。
さっき殺した〈噛みつき魔〉の死体がドアの外に何体か転がっていたが、立って歩いている〈噛みつき魔〉は見当たらなかった。
「兄貴、誰も居ねぇぞ……やつらが、どこにも居ねぇ」
「監視カメラの視界なんて限られてるだろ……死角は幾らでもあるんだ。〈噛みつき魔〉の姿が無いからって、何の保証にもならねぇよ……」
「ひょっとしたら、飽きちゃったんじゃないのかな? それか、俺たちに噛みつくのを諦めたか……」
「ああ。そうだな……連中、そんなに頭が良いようにも見えなかったしな。俺たちのことなんか、もう忘れちまってるかもな」兄は気のない声で形だけ同意した。
「よしっ、決めた」弟が、自分自身に言い聞かせるように大きな声で言った。
工場の隅まで行って、そこに立てかけてあった西洋のロング・ソードとノコギリを掛け合わせたような珍妙な道具を手に取った。
「ちょっとコンビニまで行って来る」
「おいおい、ゲンタ……冗談言うな……」
「大丈夫だよ、兄貴……さっきの実験でこの〈サンダーボルト・シャーク・デス・セーバー〉の威力は証明済みだ。兄貴だって見てたじゃないか……これさえあれば、やつらなんか怖くねぇよ」
「ば、馬鹿、そんなオモチャで……外がどんな状況なのかも分からないのに、のこのこ出て行くなんて正気じゃねぇ」
「外がどんな状況なのか分からないからこそ、出て行って確かめるしかないんだろ……止めても無駄だぜ。もう決めたんだ」
「コンビニが営業してるって保証は有るのかよ」
「営業してないっていう確証も無いだろ。やってなかったら、やってなかったで何か別の方法を考えて食料調達するさ」
ライタはもう反論しなかった。弟が自分で言うとおり、もう決めた事なら止めても無駄だろう。
せめて、工場に残る自分自身の安全だけは確保したかった。
(ゲンタが外へ出て行って死んだり〈噛みつき魔〉になるのは奴の勝手だ……だが奴の無鉄砲で俺まで危険に晒されるのはまっぴら御免だ)
「鍵は持ったか?」ライタは弟に聞いた。「外に出たら、ちゃんとドアをロックしろよ! 戸締り不用心で工場の中に化け物どもがワラワラ入って来るなんてのは御免だからな」
「ちゃんと持ってるよ。分かってるって……」
「ああ、いや、待て……やっぱり俺が中から鍵をかける」
ライタは、扉を開けようとしたゲンタを制して、自分も出入り口まで歩いて行った。
ドアノブを握って「俺が自分自身の手で鍵をかける」と弟に言った。
「何だよ、弟の俺を信用していないのかよ」
「万が一って事もある……お前ぇが外に出た瞬間、隠れていた〈噛みつき魔〉に襲われて鍵を掛ける暇も無く殺られちまうって可能性だって、無いわけじゃない」
「ちぇっ」
舌打ちをしながら、ゲンタが右手に持った〈シャーク・デス・セーバー〉のスイッチを『即死』モードにした。
ブーン、という低い唸り音が鳴り、同時に剣の表面に「バチッ、バチッ」と青白い放電光が発生した。
「じゃあ、さっきリーマンを外へ蹴飛ばしたのと同じ要領で……今度は、兄貴がドアを開け、俺が〈シャーク・デス・セーバー〉を突き出しながら素早く外に出る、って段取りで良いか?」
弟の言葉にライタが頷く。「ゲンタが外に出た直後、俺はドアを閉め、鍵をかける、と」
「よしっ、準備は良いか? 行くぞ……いち、に、さんっ!」
弟の掛け声と同時にライタが鍵を外し、どうにかゲンタが外に出られる程度にスチール・ドアを開けた。
ゲンタが剣を前に突き出し、兵士が塹壕から出て敵に向かって突撃するような格好で外へ飛び出して行った。
すぐさまライタは扉を閉め鍵を掛けた。
フウッ、と息を吐く。
「あ、あいつ、大丈夫か……」
気になって、インターフォンのモニターを点けた。
ドアの外に弟が立っていた。
今のところ無事のようだった。
ゲンタの足元に転がる死体以外、周囲に〈噛みつき魔〉の姿は無い。少なくとも、監視カメラの視界には居なかった。
やがてゲンタは恐る恐るといった感じで周囲に気を配りながら歩き出し、すぐに視界の外へ消えた。
「ゲンタの野郎……本当に、大丈夫なんだろうな」
そう独り言ちながら、ライタは『怯えているのは自分の方だ』と悟った。
危険を避け安全な工場に残る事を選んだはずの兄のほうが、危険を顧ず外へ飛び出していった弟以上の不安と恐怖を感じてしまっていると、ライタは自覚した。




