夜。（その２）
いつまで待っても沖船姉妹はトイレから帰ってこなかった。
「拙いですね」
風田孝一が隣に立つ大剛原栄次郎に言った。
「何かあったんじゃないでしょうか？」
「仕方が無い。行ってみるか」
男二人で女子トイレへ向かう。
「奈津美さん、沖船奈津美さん、入るよ」
入口で、妹の奈津美に呼びかけた。
しばらく間があって、中から少女の声がした。
「ど、どうぞ」
中に入る。
男子トイレもそうだったが、女子トイレの方もこの手の無料キャンプ場にしては清潔に保たれていた。
三つ並んだ個室の一番手前、洗面台のすぐ隣のドアが閉まってた。ドアをとんとん叩きながら妹の奈津美が「姉さん、あけて」と繰り返していた。
「由沙美さん、開けてくれ。由沙美さん！」
大剛原も沖船由沙美に呼びかけてみた。返事は無い。
風田は個室の上部を見た。天井と壁の間に隙間がある。何とか人間ひとりが入れそうな隙間だった。
洗面台の方を見ると、壁に鏡が貼ってあり、小物が置けるよう鏡の下の壁が手前に二十センチ程せり出ていた。段のようになったせり出しの上には人工の化粧石が埋め込まれていた。
「埒が明かない。上から覗いてみます」
「覗くって……風田くん……」
「変な誤解しないで下さいよ。緊急事態だ。場合によっては中に入って内側から閂を外します」
言うが早いか、由沙美の閉じこもっている壁の上部に手をかけ、軽く跳びあがって化粧石に上に足を乗せた。
バランスを取りながら、壁の上から中を覗く。
ブラジャーとパンティー姿の由沙美が便器を避けるようにして便所の床に座り込んでいた。着ていた高校の制服が床の上に散乱していた。
気配を感じたのか、項垂れていた顔を上げて少女がこちらを見た。
どろんとした虚ろな目だった。
（薬物中毒か）
顔には傷ひとつ見当たらないが、これで口の周りが赤く染まっていれば「噛みつき魔」に間違われても仕方が無い。
「由沙美さん、由沙美さん」
反応が無い。相変わらず焦点の定まらない目で風田を見上げている。
（仕方が無い）
風田は壁と天井の隙間で体を反転させ、何とか個室の中に降り立った。
中から閂を外し、扉を開けた。
大剛原が扉から顔を覗かせた。その後ろで心配そうにしている妹の顔も見えた。
「大丈夫か？」
「分かりませんが……こういう場合は、安静にした方が良いんですか？ それとも運び出します？」
「運び出しても大丈夫だろう。駐車場まで連れて行こう」
男二人で由沙美の両腋の下に肩を入れて立ち上がらせ、ふらつく少女の体重を支えながらトイレから出た。
姉の服と靴を持って来るよう奈津美に言って、駐車場へ向かった。
ハイブリッド・カーの助手席側に周って窓をノックし、寝ていた禄坊太史に一旦車外に出てもらった。後部座席に居た隼人も外に出た。
リクライニングさせた助手席のシートに由沙美をねかせ、風田はクルマの横で「ふう」と息を吐いた。
「ど、ど、どうしたんですか？」
太史が尋ねると同時にＳＵＶの窓が開いて、中から大剛原結衣の声がした。
「父さん、どうかしたの？」
「色々と、な。詳しい話は後でする」
大剛原が腕時計を見た。
「吸引直後から徐々に、ろれつが回らなくなる・足がふらつく等の症状を呈し、三十分から一時間で完全な酩酊状態に陥る……なるほど。報告書にあった通りだ」
「報告書って……何の話ですか？」
今度は風田が大剛原に聞いた。
「〈Ｎ・Ｎ〉さ。新手の合成ハーブだ。この市の若い連中は大分前から吸っていたようだが……市警察が存在を確認したのは、つい半年前だ」
「へええ。そんな物が有るんだ」
太史が感心したように声を上げた。
「効果の立ち上がりが比較的ゆっくりなのが特徴だ。その分、完全な酩酊状態に入った時の『幸福感』が凄いらしい。そのあと酩酊状態が三時間から六、七時間ほど持続し、そして三時間から十二時間泥のように眠る。睡眠時間が短ければ起きたあとも酩酊状態が続き、また眠り、酩酊状態、眠り、酩酊状態、眠りというサイクルを二十四時間から長ければ三日ほど繰り返し、薬が切れると……」
「反動、ですか」
風田の言葉に大剛原は頷いた。
「イライラする、攻撃的になる、味覚障害、倦怠感、何をやっても面白くない、物事を悲観的に考える……妄想や幻覚の類も一部で報告されている」
「……で、その状態から逃れようとして再び薬物に手を出す、と」
「まあ、そんな所だ」
由沙美の全身にジットリと汗が滲み出ている。
春とは言え〈丘の上キャンプ場〉は肌寒かった。ブラジャーとパンティーだけの姿で汗ばむ事など、普通なら考えられない。
「自律神経の混乱だな」
大剛原が説明する。
「体温調節機能が上手く働かないんだ」
「ど、どうするんですか？」
太史の問いには答えず、大剛原は、制服と靴を持って傍に立っていた妹の奈津美に尋ねた。
「どれくらい前から吸うようになったんだ？」
「家族が感づいたのは高校に入ってからです。それ以前からやっていたか、どうかは分かりません。……姉さん、中学の最後のあたりから勉強の事とかで大分悩んでいて……今の高校に入学してから、急に『もう、どうでもよくなった』みたいなこと言いだしたんです。それから性格も変わってしまって」
「『どうでもいい』なんて言う奴ほど、本当はどうでもいいなんて思っていないし、自分を傷つける奴ほど、本当は誰かに救って欲しいんだろ」
大剛原が、ぼそりと言った。
「まあ、それはそれとして……クスリをやるようになって最短で一ヶ月か。まだ深みに嵌っていない可能性もあるが……薬物が抜けたときの反動がどれ位かは未知数だな。……とにかく、今夜はこれ以上どうすることも出来ん。迷惑だろうが、このまま助手席に座らせて置くしかないと思う。喉の渇きを訴えたら水分を補給してやってくれ。小便をするたびに代謝が進んで薬物が体外に排出されるだろう」
「わかりました。禄坊くんは、由沙美さんの代わりに後部座席に移ってくれ」
「はい」
隼人と奈津美と太史が後部座席に乗り込み、風田が運転席に座り、大剛原がＳＵＶの運転席に入ってドアを閉めた。
キャンプ場に静けさが戻った。
