第三十四話
数日経って僕はまた病院へ来た。
部屋の鍵を二つ持って。
受付を通り過ぎるとユキが談話室で花束を受け取っているのが見えた。
馴染みの病院の人たちが集まっているみたいだ。
みんな名残惜しそうにユキに握手を求めたり声をかけたりしている。
「退院しても元気でなー」
「優しい子だったよユキちゃんは」
「また遊びに来てね」
そうお年寄りの方や患者達にユキが笑顔で応えている。
そこに僕がひょっこりと姿を表す。
みんなの視線が痛い。
「この泥棒小僧め。ユキちゃんを治しやがって」
「またいつでも病気になって戻っておいでー」
「お兄ちゃんもまた遊びに来てね」
御爺さんや御婆さん子供たち。
みんな滅茶苦茶なことを言う。
僕が囲まれて困っているとその様子を見てユキが口元に手をあてて笑う。
僕もおかしくて頬をかいてると黒崎さんが来た。
「君も病院から離れるんだね」
「はい。黒崎さんにはお世話になりました」
彼はふふっと笑う。
「俺も君達から勇気をもらえたよ」
僕は意味がわからなくて首を傾げた。
「人間なんてくだらない。そう絶望して絵を描くのをやめた」
黒崎さんは淡々と言った。
「だけど人を信じる素晴らしさを君たちは思い出させてくれた」
彼は僕の肩に手を置く。
「優しさを持って生きることは難しい」
黒崎さんは僕の眼を見る。
「だけどそれを持って生きる人は素晴らしい人間だよ」
少なくとも俺はそう思う、と彼は微笑んだ。
彼はそれだけ言うと肩を叩いて離れていった。
今度はユキが僕の隣に来た。
「行こっか」
「うん」
僕達は二人並んで集まってくれた人達にお礼をした。
拍手が鳴った。
玄関まで出ると風が僕たちの頬を撫でた。
「おーい」
先生がいつもの様に走ってきた。
「……先生いつも走ってますね」
僕とユキは声を揃えて言った。
「全力の診療がモットーなんでな。診療が立て込んでて遅れてすまない」
そう先生がぜーぜー言いながら息を整える。
「ちゃんと見送ろうと思ってな」
「今日は忙しそうだったからまた改めてと思ったんですが……」
彼はいかんいかんと首を振った。
「最後のケジメが肝心だ」
市松先生はそう言って呼吸を落ち着けながらユキに声をかける。
「それにしても本当に良かった」
ユキは黙って話を聞いている。
「司と秋の子供が幸せになれて本当に良かった」
そう先生は肩の荷が降りた様に言った。
「先生のおかげです」
ユキがそう言うと先生は眼鏡を外し白衣で眼の辺りを擦る。
「あんまり年寄りを泣かせんでくれ。涙もろくなるんだから」
彼は眼鏡をかけながら今度は僕に声をかけた。
「草鹿君」
彼は感慨深そうに僕を見つめる。
「結果として君を利用するような形になってすまなかった」
彼は頭を下げた。
僕は慌てて止めるように促す。
「図々しいにも程があるが最後に君にお願いがある」
僕は頷いた。
「ユキは随分傷ついた。傷ついた心というのはそう簡単には戻らない」
そう先生は真剣な顔で言う。
「苛められた猫が人間を信用しなくなるようにね」
彼は続ける。
「傷つけられた人間の心を癒す方法は一つしかない」
僕が答えを待っていると市松先生は口を開いた。
「傷つけられた以上にその人間を愛してあげることだ」
彼は少しためらった様に僕の方を見た。
「ユキの長い治療を君にまかせても良いかな」
僕は頷いた。
彼は僕の肩に手を添える。
「君に会えて良かった。齢は離れてても友人の様に思ってたよ……」
先生は少し息を吸った後、僕の肩を叩いた。
「ほら! ユキが待ってるぞ。私も診療の時間だ。早く行った行った!」
僕とユキは病院の階段をかけ降りる。
それから振り返る。
懐かしい病院を背に先生が微笑んでいた。
僕たちは二人で踵を揃え礼をした。
秋の風が僕らを包んだ。




