婚約披露宴で兄の婚約者に「体を売っている」と罵られたので、私は彼女のHIV陽性診断書を暴露した
導入
兄の婚約披露宴で、未来の義姉になるはずの女が、私に向かって言った。
「佐伯先生って、病院の外で“夜のお仕事”もされているんでしょう?」
その瞬間、会場中の親戚たちの目つきが変わった。母は顔を真っ青にし、継父は黙り込んだ。兄だけが、彼女の肩を抱いたまま笑っていた。私はシャンパンのグラスを置き、彼女の首に巻かれたスカーフを見て、静かに尋ねた。
「白鳥さん。今日のホテル、空調がずいぶん効いていますよね。それでもまだ寒いんですか?」
彼女の顔がこわばった。私はさらに、彼女のバッグの中に見えていた白い薬瓶へ視線を移した。
「それから、さっきあなたはそれをビタミン剤だと言いましたね」
「必要なら私が確認しましょうか。その“ビタミン剤”が、本当にサプリなのか。それとも抗レトロウイルス薬なのか」
宴会場は、一瞬で静まり返った。聞こえるのは、司会者のマイクに走る微かなノイズだけだった。彼女が悲鳴を上げて私に向かってきた時、私はすでに東都医科大学病院感染症内科の当直電話へつないでいた。
「佐伯澪です」
「現場で、重大な感染症リスクを故意に隠し、健康診断書を偽造し、親密な接触関係にある相手を高リスク曝露状態に置いている可能性があります」
「場所は、港区虎ノ門、青山クラウンホテル。婚約披露宴会場です」
「院内の緊急連絡ルートを起動し、保健所へ相談してください」
1.婚約披露宴での侮辱
私の名前は佐伯澪。東都医科大学病院、感染症内科の医師だ。今、私は東京・港区にある高級ホテルの宴会場で、継兄の高梨翔真がスポットライトの下に立っているのを見ていた。彼は、相続権を手に入れたばかりの御曹司のように笑っていた。その隣にいるのは、彼の婚約者である白鳥麗奈だ。彼女はアイボリーホワイトのオートクチュールドレスをまとい、髪を一糸乱れず結い上げ、首には柔らかなスカーフを巻いていた。耳元には真珠のイヤリングが揺れている。
宴会場の大きな窓の外では、東京タワーが橙色に輝いていた。グラス、シャンパン、花束、そしてスクリーンに繰り返し映し出される二人の交際写真。すべてが、申し分ないほど上品で、体面だけは完璧だった。もし白鳥麗奈が、シャンパンを片手に私の前へ来なければ、私は宴会の終わりまで黙っていられたと思う。
「佐伯先生、どうしてお一人で座っているんですか? 皆さんとお話しなさらないんですか?」
私は、すでに三十六時間連続で勤務していた。午前四時には重症の日和見感染症患者を救急対応し、朝七時から回診し、昼には診療記録を仕上げた。そして午後、母からの電話でここへ呼び出された。電話口で母は言った。
「澪、今日は翔真の婚約披露宴なのよ。どんなに忙しくても、必ず来なさい」
だから来た。いちばん簡素な黒いワンピースを着て、薄く化粧をし、会場のいちばん隅に座っていた。私は、高梨家の本当の娘ではない。母が高梨家へ再婚した年、私は十五歳だった。
母は高梨清司と結婚し、高梨翔真の継母になった。何年も経った今でも、母は高梨家の父子に気を遣い続けている。特に、高梨翔真には。彼は高梨清司の唯一の息子で、高梨家が経営する小さな医療機器会社の跡取りだ。
その一方で私は、今も佐伯という姓のままだ。高梨家へ連れてこられた、外の人間だった。
「少し疲れているだけです」
私は白鳥麗奈に答えた。彼女は唇を押さえて笑い、わざと声を少し大きくした。
「そうですよね。感染症内科なんて場所、毎日かなり複雑な方々と接するのでしょう?」
周囲のテーブルから、少しずつ会話の声が消えていった。白鳥麗奈はそれに気づかないふりをして、さらに続けた。
「私、ドラマでしか見たことがないんです。感染症内科って、よくいるんでしょう? 新宿とか池袋で、夜に働いているような人たちが診察に来るって」
彼女はそこで、わざと一拍置いた。誰かが気まずそうに笑う。彼女は私を見つめ、無邪気な顔を作ったまま、細い針のような声で言った。
「佐伯先生はお若くて綺麗ですし、夜勤も多いでしょう? そういう場所にも詳しかったりするんですか?」
私は顔を上げ、彼女を見た。
「白鳥さん。何をお聞きになりたいんですか?」
彼女は怯えたように目を見開き、すぐに傷ついた表情を作った。
「ただの好奇心です。佐伯先生はお医者様だから、聞いてもいいかなって。科の患者さんには、私生活が乱れている女の子も多いんですか? それに、病院近くの会員制ラウンジで、女医さんや看護師さんが仕事帰りにお客様の相手をしているって聞いたこともあって」
テーブルの空気が、ぴたりと凍りついた。母の佐伯佳代子が、すぐに口を挟んだ。
「麗奈さん、今日はおめでたい席だから、そういう話はやめましょう」
「お義母様、そういう意味じゃないんです」
白鳥麗奈はすぐにうつむき、滴るほど柔らかい声を出した。
「私はただ、澪さんが心配だっただけです。女の子が東京で一人頑張るのは大変ですから。もし本当にお金に困っているなら、家族に相談すればいいのに。わざわざ誤解されるようなことをしなくても」
彼女の声は軽かった。けれど、周囲には十分聞こえていた。高梨家の年配の親戚たちは視線を交わし、眉をひそめる者もいれば、聞こえなかったふりをしてグラスを持つ者もいた。
その中には、商品でも品定めするように、私を頭から足元まで眺める者もいた。私は水のグラスを手に取り、一口飲んだ。高梨翔真が歩いてきた。彼は白鳥麗奈の肩に手を置き、気の抜けた笑みを浮かべる。
「麗奈はお前を心配しているだけだろ。澪、お前もいつも医者みたいな顔をするなよ。実際、病院関係のニュースなんて珍しくないだろ? 先月も、女医が深夜にホテルから出てきたって話があったじゃないか。服も乱れていたって」
私はグラスを置いた。
「高梨翔真」
声は高くなかった。けれど彼は、子どもの頃から知っている。私が名前をフルネームで呼ぶ時は、もう我慢する気がない時だと。
「あのニュースの実際の内容は、学会に出席していた当直医が、救急連絡を受けて会場から直接救命処置に向かったというものよ。患者は急性喉頭浮腫。あと五分遅ければ窒息していた。彼女は命を救った。それなのに隠し撮りされた映像を切り取られ、あなたの言う“服が乱れたままホテルから出てきた女医”にされた」
高梨翔真の顔が曇った。
「俺はお前のことだなんて言っていない」
「でも、女医は私生活が乱れていると暗示した」
私は彼を見る。
「命を救った医師を、身体で生きている人間みたいに言った」
高梨翔真は言葉に詰まった。その時、母の手が私の手首を押さえた。彼女は声を低くする。
「澪。今日だけは我慢して」
私は母を見た。母は私の目を避けた。その一瞬、私はひどく疲れた。勤務のせいではない。
母は、私が傷ついていることを知らないわけではない。ただ、高梨家の体面よりも私の傷のほうが重要だとは思っていない。それを、ようやく理解したからだ。白鳥麗奈の目が赤くなった。彼女は高梨翔真の胸元へ寄り、涙声で言った。
「ごめんなさい。全部、私が悪いんです。ただ、友人から聞いただけで……澪さんがよく病院の裏口の通りから出てくるって。あの辺り、夜になると会員制のお店が多いでしょう? だから、道を踏み外していないか心配で」
「麗奈、お前が謝ることじゃない」
高梨翔真はすぐに彼女をかばった。そして私を見る。その目には、明らかな苛立ちがあった。
「澪、お前もいい加減にしろ。麗奈は善意で言っている。医者をしているなら、普段どういう人間と接しているか、自分が一番分かっているはずだろ。今日は高梨家が親戚や会社の関係者を大勢招いているんだ。お前一人のせいで恥をかかせるな」
私は、ふっと笑った。
「私が恥をかかせている?」
「違うのか?」
高梨翔真は眉をひそめた。
「麗奈が何もないところから作り話をすると思うのか? 火のないところに煙は立たない。お前が本当に潔白なら、どうしてそんなに反応するんだ」
宴会場に低いざわめきが広がった。
「確かに、白鳥さんが嘘をつくようには見えないわね」
「女医はストレスが多いっていうし、そういうこともあるのかも」
「今日の高梨家は大変ね」
母の顔は、恐ろしいほど白かった。彼女は私を見つめ、唇を震わせる。
「澪……彼女の言っていることは、本当なの?」
私は母を見た。
「お母さんは、彼女を信じるの? それとも私を信じるの?」
母は答えなかった。ただ、痛々しくも責めるような目で私を見ていた。まるで、私がすでに許されない何かをしたかのように。その時、答えは分かった。私は母の手から、自分の手を抜いた。
「お手洗いに行ってきます」
2.母が選んだ体面
洗面室の鏡は、ひどく明るかった。金色の縁取り、白い大理石の洗面台、そして高価なシダーの香りがするハンドソープ。母は私を追って中へ入り、ドアが閉まった瞬間、表情を完全に変えた。
「澪、あなたはいったい何がしたいの?」
彼女は声を抑えていた。その目には疲労と怒りが満ちている。
「今日は翔真の婚約披露宴なのよ。高梨家の親戚も、会社の取引先も来ている。あなたは静かにしていられないの?」
「静かにしていないのは私?」
「麗奈さんが少し失礼なことを言っただけでしょう。どうしてわざわざ人前で言い返すの?」
「彼女は、私が夜の仕事をしていると言ったのよ」
「なら説明すればいいじゃない!」
「説明したら、信じるの?」
母は言葉を失った。私は鏡に映る彼女を見た。五十代の女。よく手入れされていて、高梨清司と結婚してから、ようやく彼女は望んだ生活を手に入れた。港区のマンション。
家賃に悩まなくていい暮らし。私一人の学費のために頭を下げて借金する必要のない生活。だから、母はそれを失うのが怖い。私はずっと知っていた。けれど、知っていることと、彼女が私を他人の足元へ押しやるところを目の当たりにすることは違う。
「お母さん。白鳥麗奈には問題がある」
彼女は眉をひそめた。
「どういう意味?」
「彼女は、重大な感染症リスクを隠している可能性がある。翔真はすぐに婚前検査を受けるべきよ。特にHIV、梅毒、B型肝炎、C型肝炎の項目は確認したほうがいい」
母の顔色が一気に変わった。
「あなた、正気なの?」
私は静かに言った。
「正気よ。私は感染症内科医。自分が何を言っているか分かっている」
「あなたは彼女を呪っているのよ!」
「私は警告しているだけ」
「麗奈さんは先月、全身の健康診断を受けたばかりよ。報告書も見たわ。どこにも異常はなかった」
「報告書は偽造できる。意図的に項目を抜くこともできる」
母の指が震えた。
「澪。彼女に少し嫌なことを言われたから、そんなふうに仕返しするの? あなた、いつからそんな人間になったの?」
私はすぐには答えなかった。一週間前。私は東都医科大学病院の感染症外来棟で、白鳥麗奈を見かけていた。その日、私は遠隔カンファレンスを終え、四階の診療エリアから地下駐車場へ向かっていた。サングラスとマスクをつけた女が、私の横を急ぎ足で通り過ぎた。
彼女の持っていた書類袋が床に落ち、中身が散らばった。私は反射的にしゃがみ、書類を拾おうとした。一番上にあったのは、当院の感染症外来でよく使われる淡い青色の説明用紙だった。そこには、こう書かれていた。
《HIV抗体・抗原検査陽性結果の説明および今後の受診案内》
患者氏名欄は、彼女の手で隠れていた。だが緊急連絡先欄には、はっきりと書かれていた。高梨翔真。
関係:婚約者。電話番号も翔真のものだった。彼女は慌てて書類を奪い返し、エルメスのバッグに押し込むと、振り返りもせずエレベーターへ駆け込んだ。その時、私は彼女の左手中指にある三日月形の古い傷跡を見た。
今日、私はまたその傷を見た。白鳥麗奈がシャンパンを手に、私を貶めていた時だった。私は意識を戻し、母に言った。
「お母さん。日常の接触でHIVに感染することはありません。食事、握手、抱擁、トイレの共用。どれも感染の原因にはなりません。だから恐れる必要はない」
「でも翔真は違う。彼は彼女の親密なパートナーよ」
「彼女が自分の状態を知っていながら、故意に隠していたのなら、それは病気の問題ではない。他人を傷つける問題になる」
母の顔色は青くなったり白くなったりした。
「証拠はあるの?」
「彼女が感染症外来に来ているのを見た」
「病歴を盗み見たの?」
「していない。私は彼女のカルテを一度も閲覧していないし、権限もない。彼女が公共の廊下で書類を落とし、私は拾うのを手伝っただけ」
「それだって誤解かもしれないでしょう!」
「だから私は、翔真に検査を受けさせるべきだと言っている」
母は私をじっと見た。しばらくして、歯を食いしばるように言った。
「澪、あなたは怖い子ね」
私は彼女を見返した。
「今日初めて家に入ろうとしている女の言葉は信じるのに、自分の継子には一度検査を受けさせることもできないの?」
「翔真に、今日そんな恥をかかせるわけにはいかないの!」
なるほど。大切なのは、翔真の健康ではない。今日、恥をかかないこと。私は蛇口を開け、丁寧に手を洗った。
一度、二度、三度。冷たい水が指先を流れるたびに、心も少しずつ冷えていった。母はまだ後ろに立っていた。
「澪、言っておくけれど、宴会で余計なことは言わないで」
私はペーパータオルで手を拭いた。
「なら、今すぐ翔真を病院へ連れていく」
「ふざけないで!」
「お母さん」
私は振り返った。
「あなたはもう一度、選んだ」
「でも今回は、私はあなたと一緒に間違ったほうを選ばない」
そう言って、私はドアを押し開けた。
3.その薬、本当にサプリですか
宴会場へ戻ると、ちょうど婚約のセレモニーが始まるところだった。司会者が壇上に立ち、整った笑顔と明るい声で進行している。スクリーンには、高梨翔真と白鳥麗奈の出会いから現在までが映し出されていた。銀座のレストラン。
箱根の温泉旅館。北海道のスキー場。パリの街角での自撮り。どの写真でも、白鳥麗奈は完璧に笑っている。
彼女はスポットライトの下に立っていた。首のスカーフは、相変わらずきつく巻かれている。会場の空調は二十二度。それでも彼女の額には、細かな汗が浮かんでいた。数分おきに、彼女は無意識に首元へ手をやる。そしてすぐに下ろす。
私は会場の隅から、静かに彼女を見ていた。婚約指輪の交換で、高梨翔真は片膝をつき、ダイヤの指輪を差し出した。宴会場に拍手が起きる。白鳥麗奈は口元を押さえ、目を潤ませた。
彼女は身をかがめ、彼を抱きしめる。その瞬間、スカーフの端がわずかに緩んだ。私は彼女の首筋に、暗赤色で少し盛り上がった斑状の発疹を見た。ほんの一瞬だった。
だが、十分だった。私は皮膚科医ではない。それでも感染症内科で、似たような所見を何度も見ている。少なくとも、それは彼女が言うような「婚前の疲れによる小さな湿疹」には見えなかった。
セレモニーが終わると、宴席が始まった。高梨翔真と白鳥麗奈は、各テーブルへ挨拶に回り始めた。私のテーブルへ来る頃には、白鳥麗奈はもう、あの穏やかで品のいい顔に戻っていた。
「澪さん。先ほど、具合でも悪くされたんですか?」
彼女は笑いながら尋ねた。
「顔色が悪かったので、私が何か失礼なことを言ってしまって、傷つけてしまったのかと思って」
私も笑った。
「少しだけ気分が悪くなっただけです」
彼女は首を傾げた。
「お医者様でも気分が悪くなるんですね」
「なります」
私は彼女を見た。
「特に最近、感染症リスクを隠す患者さんのケースが続いていて、少し疲れているので」
白鳥麗奈の笑みが一瞬こわばった。高梨翔真は眉をひそめた。
「またそれか。今日は病院の縁起でもない話はやめられないのか」
「健康の話は、縁起が悪いものではありません」
私は箸を置いた。
「翔真。最近、感染症の検査を一通り受けた?」
彼の顔色が変わった。
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ。婚前に双方が検査を受けるのは、お互いへの責任です。特に、どちらかが最近感染症外来を受診したり、関連する薬を服用していたりするなら、正直に話すべきです」
白鳥麗奈の持つシャンパングラスが、微かに揺れた。酒が手の甲にこぼれる。彼女はすぐにうつむき、拭き取った。声がわずかに張っていた。
「澪さんは冗談がお上手ですね。私は最近、銀座で美容のケアを受けただけです」
「銀座? その美容サロンは、東都医科大学病院の感染症外来四階にあるんですか?」
テーブルの周囲の空気が、一瞬で固まった。高梨翔真が白鳥麗奈を見る。
「麗奈?」
白鳥麗奈はすぐに笑った。
「翔真、まさか信じるの? さっき私が少し失礼なことを言ったから、澪さんは怒っているだけよ。だから仕返しをしているの」
高梨翔真の目は、すぐに私へ戻った。
「澪、もういい」
母も近づいてきた。先ほどよりさらに顔色が悪い。
「澪、席に戻りなさい」
私は動かなかった。白鳥麗奈が一歩近づき、私の手を握った。彼女の手はひどく冷たかった。
「澪さん。私、本当にどうしてそんなに嫌われているのか分かりません」
涙が驚くほど早く落ちた。
「あなたが小さい頃から高梨家で苦労していたことも、自分を外の人間だと思っていることも知っています。でも翔真が結婚するんです。私はただ、あなたの家族になりたかっただけなのに」
彼女の声が震える。
「どうして、そんなひどい言葉で私を壊そうとするんですか」
見事だった。あまりにも見事だった。この演技がドラマなら、最優秀助演女優賞を狙えるだろう。周囲の親戚たちは、完全に彼女の味方になっていた。
「佐伯澪さん、いくらなんでもやりすぎじゃない?」
「医者だからって、他人に病気があるなんて言っていいのか」
「兄が結婚するのが気に入らないんじゃないの」
「実の兄妹じゃないから、複雑なんでしょうね」
私はその声を聞きながら、急におかしくなった。司会者が、予定通りなのか、それとも白鳥麗奈の合図を受けたのか、マイクを持って壇上へ上がった。
「続きまして、親族からの祝福のお言葉です」
彼は笑顔で言った。
「新郎の妹でいらっしゃる佐伯澪様は、東都医科大学病院にお勤めの、大変優秀な若き医師でいらっしゃるそうです。本日はぜひ、佐伯様からお兄様と未来のお義姉様へ、祝福のお言葉をいただきたいと思います」
スポットライトが私に落ちた。会場中の視線も、私に集まった。高梨翔真は壇上で、施しでもするように私を手招きした。母は客席から、目で私を警告している。
白鳥麗奈は高梨翔真の隣に立っていた。その目の奥には、隠しきれない得意げな色があった。彼女は私を壇上へ上げたいのだ。全員の前で彼女を祝福させたい。自分こそが、この宴の勝者だと認めさせたい。
私は立ち上がり、一歩ずつ壇上へ向かった。そしてマイクを受け取った。司会者が笑って尋ねる。
「佐伯様、お兄様と未来のお義姉様に、何かお伝えしたいことはありますか?」
私はマイクを軽く試した。小さなノイズが響く。それから、会場にいる全員を見渡した。
「あります。第一に、今日ここにいる皆様へ、お伝えしたいことがあります」
宴会場が静かになった。私は少し間を置いた。
「感染症の患者は、差別されるべきではありません」
「HIVであれ、ほかの疾患であれ、病気そのものは罪ではありません。同じ食卓につくこと、握手をすること、抱きしめること。それらで感染することはありません。本当に恐ろしいのは、病気そのものではない」
高梨翔真の眉が寄った。白鳥麗奈の顔から、血の気が引いていく。私は彼女へ向き直った。
「本当に恐ろしいのは、自分が親密な相手にリスクを与える可能性を知りながら、故意に隠し、検査結果を偽造し、結婚という形で相手を危険へ引きずり込もうとすることです」
白鳥麗奈が鋭く叫んだ。
「佐伯澪!」
彼女の声は、ほとんど裏返っていた。
「黙って!」
全場がざわめいた。私はマイクを持ったまま、静かに彼女を見た。
「白鳥さん。先ほどあなたは、私が病院の外で夜の仕事をしていると言いましたね」
「私が接する患者たちは汚れている、とも言った」
「感染症内科は汚い場所だと、そういう意味で話していました」
「では、私からもお聞きします」
私は一歩前へ出た。彼女は無意識に後ずさった。
「あなたが先週水曜日の午後二時二十分に向かった場所は、銀座の美容サロンですか。それとも東都医科大学病院の感染症外来ですか」
彼女の顔は真っ白だった。
「デタラメよ……」
「あなたのバッグに入っている“ビタミン剤”の薬瓶には、なぜ抗レトロウイルス薬の一般名が書かれているんですか」
「あなたはなぜ、入場してから今まで、首のスカーフを一度も外さなかったんですか」
「あなたが高梨家に提出した婚前健康診断書には、なぜ感染症検査項目の原本番号がないんですか」
高梨翔真は完全に呆然としていた。
「麗奈……彼女は何を言っているんだ?」
白鳥麗奈の声が震えた。
「翔真、聞かないで。彼女は私に嫉妬しているの。ずっと私を嫌っていたの。私のカルテを盗み見たのよ!」
その一言で、宴会場は完全に爆発した。誰かが息を呑んだ。すぐにスマホを構える者もいた。私は片手を上げ、声を落ち着かせた。
「私は白鳥さんのカルテを一度も閲覧していません」
「東都医科大学病院の電子カルテシステムには、すべての操作履歴が残ります。権限のないアクセスは必ず記録されます」
「私が今話していることは、彼女が公共の廊下で落とした書類、現場で見えた薬瓶、偽造の疑いがある健康診断書、そして彼女自身の矛盾した発言に基づく判断です」
私は高梨翔真を見た。
「翔真」
これは今日、私が初めて彼をフルネームで呼ばなかった瞬間だった。
「今あなたが確認すべきなのは、彼女があなたを愛しているかどうかではない。すぐに病院へ行き、曝露後評価を受けることです」
「早いほどいい」
高梨翔真の顔から、最後の血色が消えた。白鳥麗奈は突然、悲鳴を上げて私に向かってきた。マイクを奪おうとしたのだろう。私は横へ避けた。
彼女の手は空を切り、身体が大きくよろめく。その拍子に、首元のスカーフが滑り落ちた。暗赤色の皮疹が、スポットライトの下にさらされた。会場は死んだように静まり返った。
次の瞬間、白鳥麗奈は狂ったように首を押さえた。
「見ないで! 見ないでよ!」
彼女は崩れた声で泣き叫んだ。
「佐伯澪、あなたが私を壊した! どうして私を壊すの!」
私はスマホを取り出した。画面では、感染症内科の当直電話がすでにつながっていた。
「佐伯澪です」
「現場状況が悪化しました。高梨翔真は高リスク曝露の可能性があり、早急に専門的評価が必要です」
「加えて、白鳥麗奈さんには健康診断書偽造の疑いがあり、婚約披露宴会場で興奮状態にあります」
「保健所へ相談のうえ、現場の方々には撮影をやめるよう案内してください」
私は電話を切り、客席へ向き直った。
「皆さん。落ち着いてください。同じ空間にいるだけでHIVに感染することはありません」
「ただし、白鳥さんと親密な接触があった方、血液や性接触などのリスク曝露があった方は、できるだけ早く専門医療機関へ相談してください。これは医学的な助言です」
宴会場の人々が、ようやく反応し始めた。高梨清司がホテルの警備員を呼んだ。母はその場に立ち尽くし、すべての力を失ったようだった。高梨翔真は白鳥麗奈の肩をつかみ、震える声で言った。
「言え。彼女の言っていることは、本当なのか」
白鳥麗奈は泣きながら首を振った。
「違うの……翔真、私はただ、あなたに捨てられるのが怖かっただけ……」
その言葉は、認めたのと同じだった。高梨翔真は手を離し、一歩後ずさった。白鳥麗奈はまだ彼にすがろうとしたが、警備員に止められた。彼女は突然、私を振り返った。美しく化粧された目に、残っていたのは激しい憎悪だけだった。
「佐伯澪。勝ったつもり?」
「私は絶対に、あなたを許さない」
私は彼女を見た。
「勝ちたかったわけではありません。ただ、あなたが他人の人生まで地獄へ引きずり込むのを、黙って見ていられなかっただけです」
4.医師としての境界線
あの婚約披露宴は、最終的に警察と救急隊が到着して終わった。正確に言えば、警察が来たのは、彼女がHIV陽性だったからではない。宴会場で興奮し、私に向かって攻撃し、マイクを奪おうとし、ホテルの備品を壊し、会場から逃げ出そうとしたからだ。ホテル側が通報した。
高梨家は弁護士の助言を受け、彼女が提出した婚前健康診断書が偽造されたものかどうか、また婚約に伴う贈与を詐欺的に得ようとした可能性があるかを調査することにした。高梨翔真は、東都医科大学病院へ搬送された。私は同行しなかった。
すでに当直責任者へ流れを説明していたし、当事者との親族関係も病院へ申告し、以後の診療からは自ら外れた。それが、医師としての最低限の境界線だった。彼が私の継兄だからといって、具体的な診療に介入してはいけない。まして白鳥麗奈に辱められたからといって、規則を越えて報復していいわけではない。私にできるのは、リスクを知らせることと、さらに深刻な結果を防ぐことだけだった。
その夜、私は病院へ戻り、白衣に着替えた。午前二時。感染症内科の廊下には、まだ明かりがついていた。看護師の小林芽衣が私を見て、驚いた顔をした。
「佐伯先生、ご家族の宴会に行かれていたんじゃないんですか?」
「終わったの」
「そんなに早く?」
私は説明しなかった。やがて彼女はスマホのニュースで動画を見つけた。ホテル側は出席者に削除を求めていたが、誰かが一部をネットに上げていた。タイトルはひどかった。
《港区婚約披露宴、大炎上。名家の花嫁を医師の小姑が公開処刑》
《感染症内科の女医、披露宴で修羅場。名家婚約に詐欺疑惑》
《未来の義姉が医師を“夜の女”呼ばわり、逆に重大な隠し事を暴かれる》
動画の中で、私は壇上に立っていた。白鳥麗奈は髪を乱し、叫んでいる。コメント欄の半分は彼女を非難し、もう半分は高梨家の噂話をしていた。さらに一部の人々は、HIV陽性者そのものへの悪意ある攻撃を始めていた。私は一度見ただけで、スマホを閉じた。
小林芽衣が小さな声で聞いた。
「佐伯先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「ネットの人たち、言い方がひどすぎます」
「だから見ないこと」
私はカルテを手に取った。
「三床の状態は?」
小林は一瞬きょとんとして、すぐに答えた。
「今朝は気分が落ち込んでいて、薬を飲みたくないと言っていました。彼女に伝えたら、別れを切り出されたそうです」
私は頷いた。
「見に行きます」
三床は二十三歳の男性だった。HIV陽性が判明してから、まだ三か月も経っていない。いちばん苦しい適応期にいる。病室へ入ると、彼はドアに背を向け、ベッドの端に座って窓の外を見ていた。
東京の夜は、ガラスの向こうに広がっていた。遠くの高層ビルの明かりは、互いに関係のない無数の人生のようだった。
「今日の薬、飲んでいませんね」
私は椅子を引いて座った。彼は長い間、黙っていた。
「佐伯先生。薬って、本当に意味がありますか」
「あります」
「長く生きられますか」
「適切に治療し、定期的に検査を受ければ、多くの人が長期的に安定した生活を送れます」
彼は振り返った。目が真っ赤だった。
「でも、彼女が言いました。家族は俺を受け入れられないって。怖いって」
私は彼を見た。同じように診断を受けた人間でも。ある人は隠し、偽り、他人を巻き込むことを選ぶ。ある人は正直に伝え、失う痛みに一人で耐えることを選ぶ。
病気が人を高貴にするわけでも、卑劣にするわけでもない。選択が、その人を形作る。
「彼女が怖がるのは、彼女の感情です。あなたがつらいのも、あなたの感情です。でも、あなたの命の価値は、誰かがそばに残るかどうかで決まるものではありません」
彼はうつむいた。
「俺はもう終わりですか」
「終わっていません」
私は水の入ったコップを渡した。
「あなたの人生は終わっていない。今日から、もっと真剣に自分を守り、他人を守ることを学ぶだけです」
「薬を飲むことは、負けではありません。薬を飲むことは、自分の人生を取り戻す最初の一歩です」
彼は私を見た。長い沈黙の後、手を伸ばして薬を受け取った。病室を出ると、小林芽衣がドアの前に立っていた。彼女は小さな声で言った。
「佐伯先生って、本当にすごいです」
「私は医師として当然のことをしているだけ」
「そうじゃなくて」
彼女は少し迷った。
「さっきあんなことがあったばかりなのに、あんなに落ち着いて患者さんと話せるなんて」
私は足を止めた。
「芽衣」
「はい?」
「病院でいちばん乱れてはいけないのは、医師です」
「私たちが乱れたら、患者は立つ場所を失う」
小林芽衣は数秒黙り、静かに頷いた。けれど私はまだ知らなかった。
白鳥麗奈が三日後、自分から病院に乗り込んでくることを。
5.あなたはウイルスじゃない
その日の午後、感染症外来の待合ホールから突然、悲鳴が上がった。私は医局で診療記録を書いていた。小林芽衣が駆け込んでくる。顔色が真っ白だった。
「佐伯先生、大変です!」
「どうしました?」
「白鳥麗奈が来ています」
私は立ち上がり、外へ出た。外来ホールはすでに混乱していた。患者と家族は両側へ下がり、警備員が中央を囲んでいる。しかし、簡単には近づけない様子だった。白鳥麗奈は、しわだらけのベージュのコートを着ていた。髪は乱れ、顔には化粧がない。
婚約披露宴の日、精巧な人形のように整っていた女とは、ほとんど別人だった。彼女は印刷された紙を握りしめ、かすれた声で泣き叫んでいた。
「皆さん、見てください! この医者です!」
「この人が私のカルテを盗み見たんです! 私のプライバシーを漏らしたんです! 私をネットリンチに遭わせたんです!」
「東都医科大学病院は、この人をかばっているんです!」
何人かがスマホを取り出した。私はすぐに手を上げ、警備員へ言った。
「撮影をやめるよう案内してください。患者さんのプライバシーを守ってください」
白鳥麗奈は私を見ると、目を真っ赤にした。
「佐伯澪! やっと出てきたわね!」
彼女は私に向かって突進してきた。警備員が止めようとした瞬間、彼女はバッグから小さなナイフを取り出した。ホールに悲鳴が広がった。彼女はナイフを横に構え、鋭い声で叫んだ。
「近づかないで! 私は病気なのよ! 私に触ったら、あんたたちも感染する!」
人々が恐怖で後ずさる。私は眉をひそめた。
「白鳥さん」
彼女は私を睨みつけた。
「あなたが私を壊した! 翔真に捨てられたのも、高梨家に訴えられたのも、ネット中から叩かれたのも、全部あなたのせい!」
「どうしてよ? 私はただ、結婚したかっただけなのに! 普通の生活がしたかっただけなのに!」
私は一歩前に出た。後ろで小林芽衣が叫んだ。
「佐伯先生!」
私は振り返らなかった。白鳥麗奈を見たまま、静かに言った。
「普通の生活を望むことは、間違いではありません。HIVに感染したことも、あなたの罪ではありません」
「じゃあ、どうして私を壊したのよ!」
「あなたが隠したからです」
彼女の唇が震えた。
「仕方なかったの! 言ったら、翔真は絶対に私と結婚してくれなかった!」
「だから健康診断書を偽造したのですか」
「だから婚約披露宴で私を貶め、私の口をふさごうとしたのですか」
「だから、彼にリスク評価が必要かもしれないと分かっていて、何も伝えなかったのですか」
白鳥麗奈は荒く息をしていた。ナイフを握る手が、どんどん震えていく。彼女は泣き叫んだ。
「あなたみたいな人に何が分かるのよ! あなたは医者で、清潔な場所から私を裁いているだけ! 私が陽性だと言われた日、どれだけ怖かったか分かる? 一人で診察室に座って、あの紙を見て、人生が全部終わったと思った気持ちが分かるの?」
「分かります」
彼女は固まった。私は声を低くした。
「私は毎日、そういう人たちに会っています」
「診断されて崩れ落ちる人。パートナーに去られる人。家族に言えない人。自分はもう愛される資格がないと思ってしまう人。だからこそ、正しい治療が必要です。正しい告知が必要です。自分と他人を正しく守ることが必要です」
私は彼女の手元のナイフを見た。
「白鳥麗奈。あなたの最大の間違いは、病気になったことではありません。自分の恐怖を、他人を傷つける理由にしたことです」
彼女は突然、叫び声を上げ、ナイフを振り上げてこちらへ向かってきた。私は横へ避け、ナイフを持つ手首をつかんだ。病院で毎年義務づけられている、医療暴力対応訓練の動作だった。手首を制御し、力の流れに沿って低く押さえる。
ナイフが床に落ちた。金属音がホールに響く。警備員がすぐに飛び込み、彼女を押さえた。白鳥麗奈はまだ暴れ、泣き叫んでいた。
「触らないで! 感染するわよ! 私はHIVなの!」
私は手袋をつけ、床のナイフを拾い、警備員へ渡した。それから、怯えた人々へ向き直った。
「皆さん、落ち着いてください。HIVは、空気、握手、抱擁、咳、唾液、同じ空間にいることでは感染しません。先ほど血液曝露がなかった方は、恐れる必要はありません」
「もし刃物で傷を負った方がいれば、すぐに近くの医療スタッフへ申し出てください。手順に沿って対応します」
ホールは少しずつ静かになった。白鳥麗奈は床に崩れ落ちた。彼女は涙に濡れた顔で私を見上げる。
「どうして? どうして、あなたまで私を怖がらないの?」
私は彼女を見下ろした。
「あなたはウイルスではありません。間違った選択をした、一人の人間です」
警察はすぐに到着した。白鳥麗奈は刃物による脅迫、病院秩序の混乱、業務妨害などの疑いで連れていかれた。去り際、彼女は一度だけ振り返った。その目には、もう憎しみはなかった。
ただ、空洞だけが残っていた。小林芽衣が近づいてきた。声はまだ震えている。
「佐伯先生、怪我はありませんか?」
「ありません」
私は手袋を外し、医療廃棄物用のごみ箱へ捨てた。それから洗面台へ行き、消毒液を押した。小林芽衣が隣に立ち、ぽつりと言った。
「佐伯先生。私、以前は正直、怖いと思うことがありました」
私は彼女を見る。彼女はうつむいた。
「患者さんが怖いんじゃなくて、自分が知らなくて、間違ったことをしたり、間違った言葉を言ったりすることが怖かったんです」
「怖いのは自然です。私たちは、恐怖をまったく感じないために医学を学ぶのではありません」
「怖い時に、どうすればいいかを知るために学ぶんです」
6.病気は罪ではない、隠して傷つけることが罪になる
婚約披露宴の事件の余波は、三か月続いた。高梨翔真は専門的評価と曝露後予防を受け、その後の複数回の検査でも感染は確認されなかった。彼は健康を守った。だが、元の人生をそのまま守ることはできなかった。
高梨家の会社は、婚約披露宴の動画と健康診断書偽造疑惑により、取引先から内部管理の甘さを疑われた。進んでいた融資計画は停止した。高梨清司は激怒した。母はその間に挟まれ、一度倒れた。母が入院した日、私に一通のメッセージが届いた。
「澪、翔真の再検査結果は陰性でした」
しばらくして、もう一通届いた。
「彼を救ってくれて、ありがとう」
私はスマホの画面を見つめた。返信はしなかった。あまりに遅れて届いた感謝は、もう感謝には見えない。ようやく、自分がどれほど間違っていたかを認めた人間の告白に見えるだけだった。
白鳥麗奈の件にも、結果が出た。彼女は健康診断書を偽造し、重要な事実を隠したまま高梨家の婚約に伴う贈与を得ようとした。さらに病院では刃物を持って脅迫し、外来診療エリアを一時閉鎖させた。
検察は、私文書偽造、詐欺、威力業務妨害、脅迫などの方向で起訴した。最終的に、白鳥麗奈には執行猶予のつかない実刑判決が下された。判決の日、私は傍聴へ行かなかった。
病院にいた。三床のあの青年は、規則正しく薬を飲めるようになり、ウイルス量も順調に下がっていた。彼は髪を切り、また仕事を探し始めた。ある日、再診に来た彼は、コンビニで買った抹茶クッキーを私に差し出した。
「佐伯先生、仕事が決まりました。契約社員ですけど、やってみようと思います」
私はクッキーを受け取った。
「よかったですね」
彼は少し照れくさそうに笑った。
「それから、元彼女と一度会いました」
私は書いていた手を止めた。
「彼女はどうでした?」
彼はうつむいて笑った。
「まだ怖いって言っていました。復縁はできないとも。でも、今回は崩れませんでした。昔一緒にいてくれてありがとうって伝えました。これからはちゃんと治療して、ちゃんと生きていくって」
私は彼を見た。
「とてもいい選択です」
彼の目が少し赤くなった。
「先生。俺、前はもう終わったと思っていました。でも今は、まだ続けられる気がします」
私は頷いた。
「最初から、続けられます」
その夜、私は科長に一つの申請書を提出した。《HIV陽性者の心理的支援およびパートナー告知支援グループ設立計画》科長は長い間それを読んでいた。
「佐伯。本気でやるのか?」
「はい」
「大変だぞ。人手は足りない。予算も限られている」
「分かっています」
「なぜ急に?」
私は少し黙った。
「急ではありません。ただ最近、より確信しただけです」
科長は私を見た。最後に、少し笑った。
「分かった。三か月、試験的にやってみろ。会議室が必要なら、看護師長と調整しなさい。心理士のほうは、私から声をかけておく」
私は頭を下げた。
「ありがとうございます」
支援グループが始まった日、十二人が集まった。診断されたばかりの大学生。十年以上安定して治療を続けている中年男性。夫に言い出せない主婦。
パートナーから感染したが、それでも生活を続けると決めた女性もいた。小さな会議室のカーテンは開いていて、白板に陽光が落ちていた。私はマーカーを取り、白板に一文を書いた。
病気は罪ではない。隠して傷つけることが罪になる。
私は彼らへ向き直った。
「今日の最初のテーマは、パートナーや家族への告知です」
若い女性が、おずおずと手を上げた。
「佐伯先生。もし彼氏に言って、離れていったらどうすればいいですか」
「彼は離れるかもしれません。離れないかもしれません。それは私たちが完全にコントロールできることではありません。でも、あなたが隠し続け、相手が選ぶ権利を失った後で知った時、そこに残るのは病気だけではなく、裏切りになります」
女性はうつむき、涙をこぼした。
「でも、怖いです」
私はティッシュを渡した。
「怖いのは当然です。だから、私たちが一緒に準備します。一人で向き合わなくていい」
別の中年男性が尋ねた。
「家族が受け入れてくれなかったら?」
「まず自分を守りましょう。治療を続ける。生活する。働く。眠る。食べる。誰かが一時的に受け入れられないからといって、自分に死刑判決を下さないでください」
会議室は静かだった。全員が耳を傾けていた。すべてを受け取れなくてもいい。たった一言でも、どこかの深夜に彼らを引き戻すことができるなら、それで十分だった。
活動が終わった時、私は入口で高梨翔真を見つけた。彼はずいぶん痩せていた。白いシャツとジーンズ。手には果物の袋を提げている。かつて輸入車に乗り、高級時計をつけ、言葉の端々に棘を持っていた高梨家の御曹司は、この三か月で薄っぺらい光をすべて削り落とされたようだった。彼は私を見つけると、どこか気まずそうにした。
「澪」
私は近づいた。
「何か用?」
彼は果物を差し出した。
「この支援グループをしているって聞いた。何を持ってくればいいか分からなくて、適当に買ってきた」
私は受け取った。
「ありがとう。みんなで分けます」
彼は頷いた。そして、長い間黙っていた。
「あの日のこと……」
「お礼なら、いりません」
「違う」
彼は顔を上げた。目には深い疲労があった。
「謝りに来た」
私は何も言わなかった。彼は苦く笑った。
「俺はずっと、お前が高梨家に住んでいる以上、感謝すべきだと思っていた。医大へ行けたのも、父さんが金を出したからだと思っていた。お前は冷たい、気取っている、人を見下していると思っていた。でも、あの日の後で気づいた。俺は一度も、本当の意味でお前を妹として見ていなかった」
彼の声が低くなる。
「澪。ごめん」
廊下は静かだった。遠くのナースステーションから、電話の音が聞こえる。私は彼を見た。ほんの一瞬、自分が痛快さを感じるのではないかと思った。
けれど、何もなかった。ただ、ひどく静かだった。長く続いた雨が、ようやく止んだように。
「果物は受け取ります。あなたはこれから、ちゃんと生きてください」
彼は頷いた。数歩歩いてから、また立ち止まった。
「澪」
「何?」
彼は振り返った。声はとても小さかった。
「お前は、いい医者だ。今まで一度も言わなかった。でも今は、本当にそう思っている」
私は答えなかった。彼も待たなかった。エレベーターの扉が開き、閉まる。彼の背中は廊下の奥へ消えた。小林芽衣が会議室から顔を出した。
「佐伯先生、今の方は?」
「昔、少し物分かりの悪かった人」
「今は?」
私は少し考えた。
「たぶん、学んでいる途中」
7.私の本当の人生
その夜、医局へ戻ると、机の上に一通のメールが届いていた。差出人は、国際感染症学会アジア太平洋会議事務局。内容は簡潔だった。次回の会議で、若手医師代表として「HIV陽性者の心理的支援とパートナー告知」について講演してほしいという招待だった。私は長く画面を見つめた。そして返信を押した。承諾します。
窓の外では、東京の夜が少しずつ深くなっていた。東都医科大学病院の入院棟には、まだ明かりがともっている。ここには、痛みが尽きることはない。恐怖も尽きない。
診断書を受け取った瞬間、自分の人生が終わったと思う人がいる。最も親しい人に捨てられる人がいる。無知によって差別される人がいる。そして恐怖のあまり、隠し、嘘をつき、他人を傷つけてしまう人もいる。
私は人間の弱さを、数えきれないほど見てきた。だからこそ、医学は薬と数値だけではないと知っている。医学は境界線でもある。告知でもある。尊重でもある。人が最も体面を失った時に、それでもこう伝えることでもある。
あなたは生きていい。
けれど、他人を傷つけながら生きていいわけではない。スマホがふいに光った。母からのメッセージだった。
「澪、身体は大丈夫?」
「最近、ちゃんと食べていますか?」
数秒後、もう一通。
「時間があれば、母さんと食事をしませんか」
私はその数行を見つめた。すぐには返信しなかった。私たちの間の亀裂は、一言の気遣いで消えるものではない。彼女は、私が最も信頼を必要としていた時、体面を選んだ。
私はその事実を、なかったことにはしない。けれど、昔のように、いつか母が突然目を覚まし、私に完全な母の愛を与えてくれることを望み続けることも、もうしない。人が大人になって学ぶ最も大切なことの一つは、きっとこういうことだ。
望んだ形にはならない家族もある。
私はスマホを閉じた。電子カルテを開く。夜には、二人の新入院患者の薬剤計画を確認しなければならない。明日の午前には、支援グループの二回目の活動がある。
午後には、若手医師向けに感染症防護の研修もある。あの婚約披露宴で、生活は止まらなかった。私の人生も、高梨家や白鳥麗奈、あるいは私を傷つけた誰かを中心に回ることはない。私は白衣を脱ぎ、病院の玄関を出た。
初夏の夜風が吹いてきた。少し湿った温かさを含んでいる。コンビニの自動ドアが開いて、閉じる。通りでは、自転車を押す人が通り過ぎた。遠くの地下鉄駅に灯りがついている。
東京は相変わらず騒がしく、冷たく、巨大だった。けれど今の私は、不思議と軽かった。私は高梨家の外の人間ではない。母の口から語られる、我慢すべき娘でもない。
まして白鳥麗奈の噂の中にいた、汚れた女でもない。私は佐伯澪。東都医科大学病院、感染症内科の医師。嘘も見た。悪意も見た。
それでも私は、命の側に立つことを選ぶ。明日もまた、新しい患者が来る。新しい診断がある。新しい恐怖がある。
新しい希望もある。私は今日と同じように手を洗い、白衣を着て、病室へ向かう。ここが私の戦場であり、私の本当の人生だから。




