魔王討伐の契約更新を忘れた俺、担当魔王を横取りされる前に倒しに行く
王都の朝は、だいたいうるさい。
商人が怒鳴る。荷馬車が跳ねる。鐘が鳴る。
酔っ払いがまだ寝ている。兵士がそれを足でつつく。つつかれた酔っ払いが「世界の終わりだ」と呻き、兵士が「お前の財布の話だ」と返す。
実に平和だ。
その喧騒の真ん中を一人の男が全力で走っていた。
《カイル・ヴェルナー》。
二十三歳。職業、勇者。
そして本日、絶賛遅刻中だった。
「まずいまずいまずい!」
肩で息をしながら石畳を蹴る。通行人を避け、果物籠を飛び越え、露店の串焼きの煙を突っ切り、曲がり角を勢いで曲がった瞬間、目の前に人影が立っていた。
ぶつかる、と思った。
だが相手は避けなかった。
正確には、避ける必要がなかった。
ひょい、と首根っこを掴まれる。
カイルの身体が空中で停止する。
「うわっ」
「朝から元気ですねえ、カイルさん」
穏やかな声だった。
薄い金髪を肩で切りそろえた女が、片手で軽々とカイルを持ち上げている。小柄だが、王都冒険者管理局の制服を着ている時点で油断できない。
そこにいるのは可憐な受付嬢ではなく、書類で人を殺せる類の役人だ。
《リシェル・アーデン》。
勇者契約管理官。
カイルは地面に下ろされるなり、両膝に手をついて息を整えた。
「助かった……のか?」
「ぶつかられていたら私が助かっていませんので、助けたのは主に私ですね」
「言い方が冷たい」
「時間に遅れる人にはだいたい冷たいです」
リシェルはにこやかに告げた。
笑顔なのに、春の朝とは思えないほど寒い。
カイルは嫌な予感を覚えつつ、顔を上げた。
「で、今日の呼び出しって何だよ。討伐報告なら昨日出しただろ」
「はい、出しました。三枚目だけ字が汚くて解読に苦労しましたが」
「勢いで書いたからな」
「勢いで働く人はいても、勢いで報告書を書く人は困ります」
「それで?」
「本題に入ります」
リシェルは一枚の書類を取り出した。
ぱっと見では、よくある契約書だ。
だが、上部に押された赤い印を見た瞬間、カイルの顔が引きつる。
失効。
嫌な字だった。
あまりにも嫌な字で、見た瞬間に胃が冷える。
「……何これ」
「見ての通りです」
「いや、見ての通り失効って書いてあるけど、何が?」
「あなたの勇者契約です」
「何で!?」
王都の朝に、カイルの悲鳴が響いた。
近くの鳩が一斉に飛び立つ。通行人がちらりと見たが、すぐに興味を失った。
王都ではたまに勇者が叫ぶ。珍しくない。
カイルは書類をひったくるように受け取り、目を走らせる。
契約者名、本人。
担当任務、第十九指定魔王討伐。
契約更新期限、昨日。
現状、未更新。ゆえに失効。
文面は簡潔で、逃げ道がなかった。
「待て待て待て! 昨日!?」
「昨日です」
「聞いてないぞ!」
「三回通知しました」
「聞いてない!」
「聞いていなくても送っています」
「それはずるい!」
「何がですか」
あまりにも真っ当な返しで、カイルは一瞬だけ黙った。
その隙を逃さず、リシェルが続ける。
「書面通知が一度。魔導通信が二度。最後は私が『明日までですからね』と言いました」
「最後のは覚えてる!」
「なら聞いているじゃないですか」
「覚えてるのと理解してるのは違うだろ!」
「胸を張って言うことではありません」
まったくその通りだった。
カイルは額を押さえた。思い返してみれば、確かに言われていた気もする。
だがあの時は、魔王領の外縁で泥まみれになりながら帰還した直後だった。人間、疲れていると大事なことを脳が勝手に捨てる。
もっとも、捨てていい情報ではなかった。
「……失効したら、どうなる」
「担当任務が公開競争入札に回されます」
「もう嫌な単語しか出てこないな」
「市場原理は大事ですから」
「魔王討伐に市場原理を持ち込むなよ」
「むしろ大昔から持ち込まれています」
さらりと言われ、カイルは口をつぐんだ。
この世界で勇者は、唯一の英雄ではない。
国家に認可された討伐資格者。
それが制度上の定義だった。
もちろん優秀な者は英雄と呼ばれる。
だが制度の上では、勇者は勇者でしかない。
魔王が複数存在する以上、討伐もまた複数必要になる。
結果として生まれたのが、勇者契約制度だった。
国家と教会と管理局が共同で運営する、魔王討伐業務の外部委託。
言い換えれば、命懸けの公共事業である。
夢がない、と初めて聞いた者は言う。
生き残っている者は、夢で腹は膨れないと返す。
「俺の担当、どうなるんだ」
「今日の正午に仮公募です。明日の夕方には新担当が決まるでしょうね」
「早すぎない?」
「魔王は待ってくれませんので」
「それはそうだけどさ……」
カイルは歯噛みした。
第十九指定魔王。通称《霧喰いのザルヴァ》。
強大無比というほどではない。
だが厄介だった。
霧を操り、土地を閉ざし、人も獣も魔物も区別なく惑わせる。討伐自体より、そこへ辿り着くまでの消耗が大きい。派手さがない。物語映えもしない。つまり人気がない。
人気がないからこそ、競争率も低かった。
カイルのような中堅勇者にも回ってきた案件だった。
そして人気がないからこそ、ここまで進められた。
「進捗は七割だったんだぞ……」
「ええ。惜しいですね」
「惜しいで済ませるなよ」
「規則ですので」
「規則って万能の盾みたいに使うな」
「便利ですよ」
少しも悪びれずに言うあたり、さすが管理官だった。
カイルは空を仰いだ。
雲ひとつない青空。
今日はやけに腹立たしい。
「再契約は?」
「できますよ」
「本当か!」
「ただし」
その一言で、持ち上がりかけた希望が落ちた。
「手続きに最低三日。加えて、失効案件の優先復帰はありません」
「つまり?」
「あなたが再契約した頃には、別の誰かがザルヴァ担当になっている可能性が高いです」
「お、終わった……」
膝から崩れ落ちそうになるカイルを、リシェルが冷静に見下ろす。
「終わってはいません」
「慰め?」
「事実です。別の手はあります」
「別の手?」
「ええ」
リシェルは少しだけ声を落とした。
その顔つきは、先ほどまでの事務的なものと違っていた。仕事のできる人間が、面白くない状況を面白くひっくり返す時の顔だ。
「正式な担当でなくても、魔王は倒せます」
カイルは数秒、言葉の意味を飲み込めなかった。
「……待て。それ、ありなのか?」
「厳密には、討伐権と報酬請求権が分かれているだけです」
「もっと厳密に言えよ」
「正式担当者は国家への主報告権を持つ。ですが、非担当者による先行討伐は禁止されていません」
「何でよ!?」
「禁止すると、偶発的な遭遇で討伐機会を逃すからです」
「理屈は分かるけど頭が痛い!!」
「そうですね」
「ってか、俺も危なくなかった、それ!?」
「制度というのはそういうものです」
つまりこういうことだった。
担当を失っても、ザルヴァを倒すこと自体はできる。
ただし、倒しただけでは駄目。
誰が討伐者で、誰に報酬が発生するか。
そのあたりがひどくややこしい。
カイルは嫌な予感を覚えた。
「おい、まさか……」
「正式担当が現地到着前にあなたが討伐し、証明部位と魔力記録と現地証跡を押さえ、なおかつ管理局に先着提出できれば、特例審査に持ち込めます」
「長い!!」
「要するに早い者勝ちです」
「急に雑になるな!!」
だが、希望は見えた。
完全に終わりではない。面倒で理不尽でいかにも役所じみた抜け道だが、道はある。
カイルは立ち上がった。
「正午に公募なんだよな」
「ええ」
「つまり、まだ数時間ある」
「ありますね」
「その間に俺が出発して、ザルヴァのところまで先回りして、倒して、証拠を持って帰ればいい」
「かなり雑ですが、概ねそうです」
「あんたが言ったんだろ!!」
とはいえ、カイルの目にようやく火が戻る。
だが、次の瞬間、リシェルがすっと一枚の紙を追加で出した。
「なお、これが必要です」
「何だこれ」
「特例先行交戦届」
「えっ、今出すの?」
「今です」
「今から走るんだけど」
「だから今です」
「何枚ある」
「五枚」
「新手の嫌がらせ?」
「必要書類です」
「本当に今?」
「今です」
必要書類は、だいたい嫌がらせに見える。
カイルは机もない往来で書類を書かされる羽目になった。
名前、所属、交戦理由、予定経路、証跡保全方法、緊急連絡先。
書いているうちに、自分が勇者なのか荷物運搬業者なのか分からなくなる。
「緊急連絡先って何だよ」
「死んだ時に知らせる相手です」
「朝から重いな!!」
「大事ですから」
「その……妹で……」
「分かりました」
そこで、リシェルの手が一瞬だけ止まった。
普段の冷たさとは別の、ほんのわずかな間だった。
「死なないでくださいね」
カイルは顔を上げる。
彼女はもういつもの事務顔に戻っていた。
だが確かに、その声だけは少し柔らかかった。
「言われなくても」
「信用が薄いですねえ」
「ひどいな」
「期限を忘れる人なので」
「まだそこ擦りますか」
書類を書き終えると同時に、リシェルが封蝋を押した。
「はい、受理しました」
「よし!!」
「ついでにこれも」
「まだ何か?」
「携行簡易記録球です。討伐時の魔力波形を記録できます」
「便利だな」
「壊すと始末書です」
「だから、急に重くなるな」
カイルは記録球を受け取り、腰袋へ放り込んだ。
「馬は?」
「南門に手配済みです」
「用意いいな」
「あなたが駄目な分、周囲が働いていますので」
「その言い方どうにかならない?」
「事実を丸める仕事ではありませんから」
本当に容赦がない。
だが、ありがたくもある。
カイルは背負っていた剣を握り直した。
使い慣れた片刃の長剣。名剣でも聖剣でもないが、何度も命を繋いできた相棒だ。
「行ってくる」
「はい」
「帰ったら書類減らしてくれ」
「討伐成功なら考えます」
「考えるだけかよ」
「善処はします」
「信用ならん言葉だ」
善処する、は大抵しない。
役所言葉の初歩である。
カイルは苦笑し、南門へ走り出した。
王都の喧騒が背中へ流れていく。
風が頬を打つ。時間が惜しい。
南門には、確かに一頭の栗毛馬が繋がれていた。隣にいた門兵が紙を確認し、頷く。
「カイル殿だな。管理局から預かっている」
「助かる」
「無茶はするなよ」
「勇者にそれ言うか?」
「言う。死ぬ勇者は面倒だからな」
「どいつもこいつもひどいな」
現場の人間はだいたい正直だった。
カイルは馬に飛び乗り、門を抜けた。
王都を離れると、景色は一気に変わる。
整備された街道、芽吹き始めた草原。
ところどころに残る冬の名残。
遠くに見える黒い森。
そのさらに向こうがザルヴァの縄張りだ。
七割まで進めた討伐。残り三割。
だがその三割が、一番面倒だった。
ザルヴァの霧は、近づくほどに濃くなる。
方向感覚を狂わせ、同じ場所を歩かせ、音を歪め、距離を誤認させる。
強さより、嫌らしさ。
派手さより、陰湿さ。
「人気がないのも分かるよな……」
馬上でぼやく。
その時、腰袋の中で記録球がかすかに震えた。魔導通信の補助機能だ。
手綱を緩め、球を耳に当てる。
『聞こえますか』
「うわっ、何だ」
『私です』
「リシェルか。何で繋がるんだよ」
『貸与品ですので、最低限の連絡機能くらいあります』
「ご都合が過ぎる」
『便利でしょう。あと一点、伝え忘れです』
「嫌な予感しかしない」
『正午の仮公募、想定より注目されています』
「何で!?」
『あなたの案件、今朝になって妙な噂が流れました』
カイルは嫌な沈黙を置いた。
「……どんな」
『第十九魔王ザルヴァ、実は古代竜種を取り込んだ変異個体の可能性あり、だそうです』
「誰だ流したの」
『さて』
「お前だろ」
『さて』
「お前だな!?」
球の向こうで、わずかに笑う気配がした。
カイルは額を押さえる。
「何のためにそんなことした」
『案件価値が上がれば、管理局の優先観測対象になります』
「それで?」
『観測記録が増えます』
「それで?」
『特例審査が通りやすくなります』
カイルは口を閉ざした。
なるほど、としか言えない。
制度を使う側が制度を操ると、こういう顔になるのか。
『もちろん、嘘は書いていません』
「可能性あり、って便利な言葉だな……」
『完全な虚偽ではありませんから』
「本当に役人向きだな」
『褒め言葉として受け取っておきます』
軽口を叩き合っているうちに、少しだけ頭が冴えた。
つまり、リシェルは最初から特例審査に持ち込むつもりで動いている。
なら、こちらもそれに応えるだけだ。
「分かった。倒して証拠を押さえる」
『はい』
「ただし帰ったら一発文句言う」
『順番が逆です。まず帰ってきてください』
少しの沈黙。
それから、彼女は静かに言った。
『急いでくださいね』
通信が切れる。
カイルは手綱を打った。
馬が駆ける。風が唸る。街道を外れ、黒森の縁へ入る。
木々の間を縫うように進み、やがて視界の先が白く濁り始めた。
霧だ。
ザルヴァの領域は近い。
馬を降り、木に繋ぐ。ここから先は徒歩だ。
腰の剣を抜き、記録球を首から提げる。
足元の土は湿り、踏みしめるたびに嫌な音を立てた。
「さて……遅刻の埋め合わせ、始めるか」
誰にともなく呟く。
霧の中を進む。三歩先が曖昧になる。
木の影が人に見え、石が獣に見え、沈黙の中に声が混じる。
だがカイルは、ここまで七割進めている。
騙される場所も、やばい沼地も、戻される迷い路も、ある程度は把握していた。
初見殺しの相手に対して、経験は何より強い。
しばらく進んだ先で、不意に霧が裂けた。
ぽっかりと開けた空間。
倒木の上に、それはいた。
痩せた黒い影。
人型に近いが、人ではない。
角のように歪んだ頭部、長すぎる腕。
布のように揺れる霧そのものの外套。
顔らしき場所には、穴のような二つの光だけが浮いている。
《霧喰いのザルヴァ》。
地味で、陰気で、だが間違いなく魔王だった。
それが、くつくつと笑う。
「人間。まだ来るか」
「来るさ。仕事だからな」
「契約は切れた」
カイルの眉が動いた。
「魔王も知ってんのかよ」
「霧は運ぶ。噂も、焦りも、足音も」
「意味が分からん」
嫌な魔王だった。本当に。
ザルヴァは倒木から立ち上がる。
「資格を失い、なお来たか。執着か、未練か」
「どっちもだよ」
カイルは剣を構えた。
「あと、腹立たしさもな」
霧が膨れ上がる。
視界が白く染まる。
音が遠ざかる。
だが、もう迷わない。
一歩踏み込む。霧の中から伸びた爪を弾き、逆袈裟に斬る。手応えは浅い。
予想通りだ。実体が霧へ逃げる。
なら逃がさない。
カイルは腰の小袋を投げた。
中身は、前回の探索で仕込んでおいた燐粉だ。
火ではない。霧の魔力へ反応して発光する。
対ザルヴァ用の即席道具。
白い空間に、青白い輪郭が浮かび上がる。
「見えた!」
「小賢しい」
「不人気案件なめるなよ。地味な相手には地味な対策が溜まるんだ」
踏み込み、斬撃を連ねる。
一撃。二撃。三撃。
ザルヴァが霧を圧縮し、槍のように撃ち出す。
肩を掠める。
熱ではない、冷たさで肉を裂く感覚。
歯を食いしばり、距離を詰める。
相手は強敵ではない。
だが、油断すると勝てない。
そういう相手が、一番始末に悪い。
「何故そこまで来る」
「七割やったからだよ!!」
「理由が俗だな」
「勇者なんてだいたい俗だ!! バカがよっ!!」
叫び返しながら、カイルは低く潜った。
ザルヴァの腕が空を切る。
その懐へ飛び込み、心臓にあたる核を探る。
霧の魔王は、濃い場所に本体を隠す。
だったら、最も守る場所を斬ればいい。
一瞬、青白い光が脈打った。
そこだ。
カイルは全身の力を剣へ乗せた。
「遅刻は取り返す!」
振り抜く。手応えは、ある。
硬いものが割れる感触。
次いで、霧全体が悲鳴のように震えた。
ザルヴァが後退する。輪郭が崩れる。
穴のような目が、わずかに揺らいだ。
「人間ごときが」
「ごときで十分だ」
二歩目。追撃。
核へ、今度こそ深く刃を届かせる。
霧が裂けた。
音もなく、魔王の身体が崩れていく。
最後に残った頭部の影が、かすれた声を落とした。
「契約に縛られながら、それでも来るか」
カイルは荒い息のまま答える。
「縛られるのは嫌いだ」
「なら、何故……」
少しだけ考えた。
それから、肩をすくめる。
「帰った時に、うるさいやつがいるからだよ」
ザルヴァは数秒黙る。
そして、初めて少しだけ笑ったように見えた。
「……人間らしい」
次の瞬間、すべてが霧へ溶けた。
静寂。
白かった空間が少しずつ透明になっていく。
森の輪郭が戻る。湿った土の匂いが漂う。
ただの森の匂いへ変わる。
カイルはその場に膝をついた。
肩が痛む。脚も重い。だが生きている。
首から下げた記録球が明るく光っていた。
戦闘記録は取れている。
折れた角の欠片のような核片。
足元に残っている。証拠としては十分だ。
「……よし」
立ち上がる。
帰らなければならない。
討伐しただけでは、まだ終わらない。
その現実が、この世界らしかった。
王都へ戻った頃には、夕日が城壁を赤く染めていた。
南門を抜け、管理局へ駆け込み、扉を開け放つ。
「特例審査、持ち込みだ!!」
室内の視線が一斉に集まる。
書類を抱えた職員たちが目を丸くし、奥の机で立っていたリシェルが、ほんの少しだけ目を見開いた。
だが次の瞬間には、いつもの顔に戻る。
「遅いです」
「これでも急いだわ!!」
「証拠は?」
カイルは核片を机へ置き、記録球を差し出した。
「戦闘記録、魔力波形、現地証跡全部!!」
リシェルは受け取り、確認する。
そして小さく頷く。
「受理します」
「……通るか?」
「通します」
即答だった。
その一言に、ようやく肩の力が抜けた。
カイルは近くの椅子へ座り込み、大きく息を吐く。
「噂、何人釣れた」
「仮公募への事前問い合わせは四十二件です」
「ええ……多いな……」
「はい。ですが、本公募前に討伐済みなら問題ありません」
「お前、顔に出ないだけで楽しんでるだろ」
「職務です」
「便利な言葉だな、それ」
リシェルは書類を整理しながら、ふっとだけ口元を緩めた。
「お帰りなさい」
その声は小さかったが、今度は聞き逃さなかった。
カイルは少しだけ笑う。
「ああ、無事に帰りましたとさ」
「では、まず始末書です」
「何でよ!?」
「貸与品の記録球、側面に傷がありますので」
「いやいや、戦ったらそうなるでしょ!!」
「理由は欄に書いてください」
「結局、また書類じゃねーか!!」
管理局の中に笑いが漏れた。
職員たちが顔を伏せて肩を震わせる。
普段堅い場所である分、こういう時だけ妙に空気が軽くなる。
カイルは机に突っ伏した。
「魔王倒したのになあ……」
「倒したからこそです。手続きが増えます」
「夢がない」
「現実がありますので」
リシェルは新しい紙束を差し出した。
カイルはそれを見て、心底うんざりした顔になる。
「何枚ある」
「四枚です」
「減ったな」
「一枚は私が先に書いておきました」
カイルは顔を上げた。
「……気が利くじゃないか」
「期限を守る人限定です」
「最後までそれ言うのか」
「当然です」
即答。
だがもう、その冷たさも悪くなかった。
王都の外ではまた別の魔王が息を潜め、別の勇者が契約書に頭を抱え、どこかで新しい厄介事が生まれているのだろう。
この世界は広い。
夢もある。
理不尽もある。
そして書類もある。
カイルはペンを握り、深々とため息をついた。
「次はちゃんと更新するよ」
「はい」
「たぶん」
「今ので信用が落ちました」
「じゃあ絶対」
「最初からそう言ってください」
窓の外では、夕暮れの鐘が鳴っていた。
魔王は倒れた。仕事は終わった。
だが手続きは終わっていない。
勇者というのは、案外そんなものだ。
剣だけで世界を救えるならば、もっと楽だっただろう。
けれど実際には、剣を振るう前にも振るった後にも、面倒で細かくて馬鹿らしいほど現実的なものがいくつも挟まる。
だからこそ、生きて帰る意味がある。
帰れば、うるさいやつがいる。
文句を言いながら紙を渡してくるやつがいる。
その声を聞きながら、自分がまだこっち側にいると確認できる。
カイルは書類の一行目に名前を書いた。
そして顔も上げずに言う。
「なあ、リシェル」
「何ですか」
「今度、討伐報酬入ったら飯でも奢らせてくれ」
少しの沈黙。
職員たちの耳が露骨にそちらへ向いた。
リシェルは書類から目を離さず、淡々と答える。
「期限を守れたら考えます」
「条件つきかよ」
「当然です」
ようやく顔を上げた彼女は、ほんの少しだけ笑っていた。
カイルも笑う。
次も、面倒なことになる。
また怒鳴られる。
当然、書類も増える。
それでも悪くない。
少なくとも、今日のところは。
彼はそう思った。




