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魔王討伐の契約更新を忘れた俺、担当魔王を横取りされる前に倒しに行く

作者: 宵永青空
掲載日:2026/04/01

 王都の朝は、だいたいうるさい。

 商人が怒鳴る。荷馬車が跳ねる。鐘が鳴る。

 酔っ払いがまだ寝ている。兵士がそれを足でつつく。つつかれた酔っ払いが「世界の終わりだ」と呻き、兵士が「お前の財布の話だ」と返す。

 実に平和だ。


 その喧騒の真ん中を一人の男が全力で走っていた。


 《カイル・ヴェルナー》。

 二十三歳。職業、勇者。

 そして本日、絶賛遅刻中だった。


「まずいまずいまずい!」


 肩で息をしながら石畳を蹴る。通行人を避け、果物籠を飛び越え、露店の串焼きの煙を突っ切り、曲がり角を勢いで曲がった瞬間、目の前に人影が立っていた。


 ぶつかる、と思った。

 だが相手は避けなかった。

 正確には、避ける必要がなかった。


 ひょい、と首根っこを掴まれる。

 カイルの身体が空中で停止する。


「うわっ」

「朝から元気ですねえ、カイルさん」


 穏やかな声だった。

 薄い金髪を肩で切りそろえた女が、片手で軽々とカイルを持ち上げている。小柄だが、王都冒険者管理局の制服を着ている時点で油断できない。

 そこにいるのは可憐な受付嬢ではなく、書類で人を殺せる類の役人だ。


 《リシェル・アーデン》。

 勇者契約管理官。


 カイルは地面に下ろされるなり、両膝に手をついて息を整えた。


「助かった……のか?」

「ぶつかられていたら私が助かっていませんので、助けたのは主に私ですね」

「言い方が冷たい」

「時間に遅れる人にはだいたい冷たいです」


 リシェルはにこやかに告げた。

 笑顔なのに、春の朝とは思えないほど寒い。

 カイルは嫌な予感を覚えつつ、顔を上げた。


「で、今日の呼び出しって何だよ。討伐報告なら昨日出しただろ」

「はい、出しました。三枚目だけ字が汚くて解読に苦労しましたが」

「勢いで書いたからな」

「勢いで働く人はいても、勢いで報告書を書く人は困ります」

「それで?」

「本題に入ります」


 リシェルは一枚の書類を取り出した。

 ぱっと見では、よくある契約書だ。

 だが、上部に押された赤い印を見た瞬間、カイルの顔が引きつる。


 失効。


 嫌な字だった。

 あまりにも嫌な字で、見た瞬間に胃が冷える。


「……何これ」

「見ての通りです」

「いや、見ての通り失効って書いてあるけど、何が?」

「あなたの勇者契約です」

「何で!?」


 王都の朝に、カイルの悲鳴が響いた。

 近くの鳩が一斉に飛び立つ。通行人がちらりと見たが、すぐに興味を失った。

 王都ではたまに勇者が叫ぶ。珍しくない。

 カイルは書類をひったくるように受け取り、目を走らせる。


 契約者名、本人。

 担当任務、第十九指定魔王討伐。

 契約更新期限、昨日。

 現状、未更新。ゆえに失効。


 文面は簡潔で、逃げ道がなかった。


「待て待て待て! 昨日!?」

「昨日です」

「聞いてないぞ!」

「三回通知しました」

「聞いてない!」

「聞いていなくても送っています」

「それはずるい!」

「何がですか」


 あまりにも真っ当な返しで、カイルは一瞬だけ黙った。

 その隙を逃さず、リシェルが続ける。


「書面通知が一度。魔導通信が二度。最後は私が『明日までですからね』と言いました」

「最後のは覚えてる!」

「なら聞いているじゃないですか」

「覚えてるのと理解してるのは違うだろ!」

「胸を張って言うことではありません」


 まったくその通りだった。

 カイルは額を押さえた。思い返してみれば、確かに言われていた気もする。

 だがあの時は、魔王領の外縁で泥まみれになりながら帰還した直後だった。人間、疲れていると大事なことを脳が勝手に捨てる。

 もっとも、捨てていい情報ではなかった。


「……失効したら、どうなる」

「担当任務が公開競争入札に回されます」

「もう嫌な単語しか出てこないな」

「市場原理は大事ですから」

「魔王討伐に市場原理を持ち込むなよ」

「むしろ大昔から持ち込まれています」


 さらりと言われ、カイルは口をつぐんだ。


 この世界で勇者は、唯一の英雄ではない。

 国家に認可された討伐資格者。

 それが制度上の定義だった。

 もちろん優秀な者は英雄と呼ばれる。

 だが制度の上では、勇者は勇者でしかない。


 魔王が複数存在する以上、討伐もまた複数必要になる。

 結果として生まれたのが、勇者契約制度だった。


 国家と教会と管理局が共同で運営する、魔王討伐業務の外部委託。

 言い換えれば、命懸けの公共事業である。


 夢がない、と初めて聞いた者は言う。

 生き残っている者は、夢で腹は膨れないと返す。


「俺の担当、どうなるんだ」

「今日の正午に仮公募です。明日の夕方には新担当が決まるでしょうね」

「早すぎない?」

「魔王は待ってくれませんので」

「それはそうだけどさ……」


 カイルは歯噛みした。

 第十九指定魔王。通称《霧喰いのザルヴァ》。

 強大無比というほどではない。

 だが厄介だった。


 霧を操り、土地を閉ざし、人も獣も魔物も区別なく惑わせる。討伐自体より、そこへ辿り着くまでの消耗が大きい。派手さがない。物語映えもしない。つまり人気がない。


 人気がないからこそ、競争率も低かった。

 カイルのような中堅勇者にも回ってきた案件だった。

 そして人気がないからこそ、ここまで進められた。


「進捗は七割だったんだぞ……」

「ええ。惜しいですね」

「惜しいで済ませるなよ」

「規則ですので」

「規則って万能の盾みたいに使うな」

「便利ですよ」


 少しも悪びれずに言うあたり、さすが管理官だった。

 カイルは空を仰いだ。

 雲ひとつない青空。

 今日はやけに腹立たしい。


「再契約は?」

「できますよ」

「本当か!」

「ただし」


 その一言で、持ち上がりかけた希望が落ちた。


「手続きに最低三日。加えて、失効案件の優先復帰はありません」

「つまり?」

「あなたが再契約した頃には、別の誰かがザルヴァ担当になっている可能性が高いです」

「お、終わった……」


 膝から崩れ落ちそうになるカイルを、リシェルが冷静に見下ろす。


「終わってはいません」

「慰め?」

「事実です。別の手はあります」

「別の手?」

「ええ」


 リシェルは少しだけ声を落とした。

 その顔つきは、先ほどまでの事務的なものと違っていた。仕事のできる人間が、面白くない状況を面白くひっくり返す時の顔だ。


「正式な担当でなくても、魔王は倒せます」


 カイルは数秒、言葉の意味を飲み込めなかった。


「……待て。それ、ありなのか?」

「厳密には、討伐権と報酬請求権が分かれているだけです」

「もっと厳密に言えよ」

「正式担当者は国家への主報告権を持つ。ですが、非担当者による先行討伐は禁止されていません」

「何でよ!?」

「禁止すると、偶発的な遭遇で討伐機会を逃すからです」

「理屈は分かるけど頭が痛い!!」

「そうですね」

「ってか、俺も危なくなかった、それ!?」

「制度というのはそういうものです」


 つまりこういうことだった。

 担当を失っても、ザルヴァを倒すこと自体はできる。

 ただし、倒しただけでは駄目。

 誰が討伐者で、誰に報酬が発生するか。

 そのあたりがひどくややこしい。

 カイルは嫌な予感を覚えた。


「おい、まさか……」

「正式担当が現地到着前にあなたが討伐し、証明部位と魔力記録と現地証跡を押さえ、なおかつ管理局に先着提出できれば、特例審査に持ち込めます」

「長い!!」

「要するに早い者勝ちです」

「急に雑になるな!!」


 だが、希望は見えた。

 完全に終わりではない。面倒で理不尽でいかにも役所じみた抜け道だが、道はある。

 カイルは立ち上がった。


「正午に公募なんだよな」

「ええ」

「つまり、まだ数時間ある」

「ありますね」

「その間に俺が出発して、ザルヴァのところまで先回りして、倒して、証拠を持って帰ればいい」

「かなり雑ですが、概ねそうです」

「あんたが言ったんだろ!!」


 とはいえ、カイルの目にようやく火が戻る。

 だが、次の瞬間、リシェルがすっと一枚の紙を追加で出した。


「なお、これが必要です」

「何だこれ」

「特例先行交戦届」

「えっ、今出すの?」

「今です」

「今から走るんだけど」

「だから今です」

「何枚ある」

「五枚」

「新手の嫌がらせ?」

「必要書類です」

「本当に今?」

「今です」


 必要書類は、だいたい嫌がらせに見える。

 カイルは机もない往来で書類を書かされる羽目になった。

 名前、所属、交戦理由、予定経路、証跡保全方法、緊急連絡先。

 書いているうちに、自分が勇者なのか荷物運搬業者なのか分からなくなる。


「緊急連絡先って何だよ」

「死んだ時に知らせる相手です」

「朝から重いな!!」

「大事ですから」

「その……妹で……」

「分かりました」


 そこで、リシェルの手が一瞬だけ止まった。

 普段の冷たさとは別の、ほんのわずかな間だった。


「死なないでくださいね」


 カイルは顔を上げる。

 彼女はもういつもの事務顔に戻っていた。

 だが確かに、その声だけは少し柔らかかった。


「言われなくても」

「信用が薄いですねえ」

「ひどいな」

「期限を忘れる人なので」

「まだそこ擦りますか」


 書類を書き終えると同時に、リシェルが封蝋を押した。


「はい、受理しました」

「よし!!」

「ついでにこれも」

「まだ何か?」

「携行簡易記録球です。討伐時の魔力波形を記録できます」

「便利だな」

「壊すと始末書です」

「だから、急に重くなるな」


 カイルは記録球を受け取り、腰袋へ放り込んだ。


「馬は?」

「南門に手配済みです」

「用意いいな」

「あなたが駄目な分、周囲が働いていますので」

「その言い方どうにかならない?」

「事実を丸める仕事ではありませんから」


 本当に容赦がない。

 だが、ありがたくもある。

 カイルは背負っていた剣を握り直した。

 使い慣れた片刃の長剣。名剣でも聖剣でもないが、何度も命を繋いできた相棒だ。


「行ってくる」

「はい」

「帰ったら書類減らしてくれ」

「討伐成功なら考えます」

「考えるだけかよ」

「善処はします」

「信用ならん言葉だ」


 善処する、は大抵しない。

 役所言葉の初歩である。

 カイルは苦笑し、南門へ走り出した。


 王都の喧騒が背中へ流れていく。

 風が頬を打つ。時間が惜しい。

 南門には、確かに一頭の栗毛馬が繋がれていた。隣にいた門兵が紙を確認し、頷く。


「カイル殿だな。管理局から預かっている」

「助かる」

「無茶はするなよ」

「勇者にそれ言うか?」

「言う。死ぬ勇者は面倒だからな」

「どいつもこいつもひどいな」


 現場の人間はだいたい正直だった。

 カイルは馬に飛び乗り、門を抜けた。

 王都を離れると、景色は一気に変わる。


 整備された街道、芽吹き始めた草原。

 ところどころに残る冬の名残。

 遠くに見える黒い森。

 そのさらに向こうがザルヴァの縄張りだ。


 七割まで進めた討伐。残り三割。

 だがその三割が、一番面倒だった。


 ザルヴァの霧は、近づくほどに濃くなる。

 方向感覚を狂わせ、同じ場所を歩かせ、音を歪め、距離を誤認させる。

 強さより、嫌らしさ。

 派手さより、陰湿さ。


「人気がないのも分かるよな……」


 馬上でぼやく。

 その時、腰袋の中で記録球がかすかに震えた。魔導通信の補助機能だ。

 手綱を緩め、球を耳に当てる。


『聞こえますか』

「うわっ、何だ」

『私です』

「リシェルか。何で繋がるんだよ」

『貸与品ですので、最低限の連絡機能くらいあります』

「ご都合が過ぎる」

『便利でしょう。あと一点、伝え忘れです』

「嫌な予感しかしない」

『正午の仮公募、想定より注目されています』

「何で!?」

『あなたの案件、今朝になって妙な噂が流れました』


 カイルは嫌な沈黙を置いた。


「……どんな」

『第十九魔王ザルヴァ、実は古代竜種を取り込んだ変異個体の可能性あり、だそうです』

「誰だ流したの」

『さて』

「お前だろ」

『さて』

「お前だな!?」


 球の向こうで、わずかに笑う気配がした。

 カイルは額を押さえる。


「何のためにそんなことした」

『案件価値が上がれば、管理局の優先観測対象になります』

「それで?」

『観測記録が増えます』

「それで?」

『特例審査が通りやすくなります』


 カイルは口を閉ざした。

 なるほど、としか言えない。

 制度を使う側が制度を操ると、こういう顔になるのか。


『もちろん、嘘は書いていません』

「可能性あり、って便利な言葉だな……」

『完全な虚偽ではありませんから』

「本当に役人向きだな」

『褒め言葉として受け取っておきます』


 軽口を叩き合っているうちに、少しだけ頭が冴えた。

 つまり、リシェルは最初から特例審査に持ち込むつもりで動いている。

 なら、こちらもそれに応えるだけだ。


「分かった。倒して証拠を押さえる」

『はい』

「ただし帰ったら一発文句言う」

『順番が逆です。まず帰ってきてください』


 少しの沈黙。

 それから、彼女は静かに言った。


『急いでくださいね』


 通信が切れる。

 カイルは手綱を打った。


 馬が駆ける。風が唸る。街道を外れ、黒森の縁へ入る。

 木々の間を縫うように進み、やがて視界の先が白く濁り始めた。

 霧だ。

 ザルヴァの領域は近い。


 馬を降り、木に繋ぐ。ここから先は徒歩だ。

 腰の剣を抜き、記録球を首から提げる。

 足元の土は湿り、踏みしめるたびに嫌な音を立てた。


「さて……遅刻の埋め合わせ、始めるか」


 誰にともなく呟く。

 霧の中を進む。三歩先が曖昧になる。

 木の影が人に見え、石が獣に見え、沈黙の中に声が混じる。


 だがカイルは、ここまで七割進めている。

 騙される場所も、やばい沼地も、戻される迷い路も、ある程度は把握していた。

 初見殺しの相手に対して、経験は何より強い。


 しばらく進んだ先で、不意に霧が裂けた。

 ぽっかりと開けた空間。

 倒木の上に、それはいた。


 痩せた黒い影。

 人型に近いが、人ではない。

 角のように歪んだ頭部、長すぎる腕。

 布のように揺れる霧そのものの外套。

 顔らしき場所には、穴のような二つの光だけが浮いている。


 《霧喰いのザルヴァ》。

 地味で、陰気で、だが間違いなく魔王だった。

 それが、くつくつと笑う。


「人間。まだ来るか」

「来るさ。仕事だからな」

「契約は切れた」


 カイルの眉が動いた。


「魔王も知ってんのかよ」

「霧は運ぶ。噂も、焦りも、足音も」

「意味が分からん」


 嫌な魔王だった。本当に。

 ザルヴァは倒木から立ち上がる。


「資格を失い、なお来たか。執着か、未練か」

「どっちもだよ」


 カイルは剣を構えた。


「あと、腹立たしさもな」


 霧が膨れ上がる。

 視界が白く染まる。

 音が遠ざかる。

 だが、もう迷わない。


 一歩踏み込む。霧の中から伸びた爪を弾き、逆袈裟に斬る。手応えは浅い。

 予想通りだ。実体が霧へ逃げる。

 なら逃がさない。


 カイルは腰の小袋を投げた。

 中身は、前回の探索で仕込んでおいた燐粉だ。

 火ではない。霧の魔力へ反応して発光する。

 対ザルヴァ用の即席道具。

 白い空間に、青白い輪郭が浮かび上がる。


「見えた!」

「小賢しい」

「不人気案件なめるなよ。地味な相手には地味な対策が溜まるんだ」


 踏み込み、斬撃を連ねる。

 一撃。二撃。三撃。

 ザルヴァが霧を圧縮し、槍のように撃ち出す。

 肩を掠める。

 熱ではない、冷たさで肉を裂く感覚。

 歯を食いしばり、距離を詰める。


 相手は強敵ではない。

 だが、油断すると勝てない。

 そういう相手が、一番始末に悪い。


「何故そこまで来る」

「七割やったからだよ!!」

「理由が俗だな」

「勇者なんてだいたい俗だ!! バカがよっ!!」


 叫び返しながら、カイルは低く潜った。

 ザルヴァの腕が空を切る。

 その懐へ飛び込み、心臓にあたる核を探る。

 霧の魔王は、濃い場所に本体を隠す。

 だったら、最も守る場所を斬ればいい。


 一瞬、青白い光が脈打った。

 そこだ。

 カイルは全身の力を剣へ乗せた。


「遅刻は取り返す!」


 振り抜く。手応えは、ある。

 硬いものが割れる感触。


 次いで、霧全体が悲鳴のように震えた。

 ザルヴァが後退する。輪郭が崩れる。

 穴のような目が、わずかに揺らいだ。


「人間ごときが」

「ごときで十分だ」


 二歩目。追撃。

 核へ、今度こそ深く刃を届かせる。

 霧が裂けた。

 音もなく、魔王の身体が崩れていく。

 最後に残った頭部の影が、かすれた声を落とした。


「契約に縛られながら、それでも来るか」


 カイルは荒い息のまま答える。


「縛られるのは嫌いだ」

「なら、何故……」


 少しだけ考えた。

 それから、肩をすくめる。


「帰った時に、うるさいやつがいるからだよ」


 ザルヴァは数秒黙る。

 そして、初めて少しだけ笑ったように見えた。


「……人間らしい」


 次の瞬間、すべてが霧へ溶けた。

 静寂。


 白かった空間が少しずつ透明になっていく。

 森の輪郭が戻る。湿った土の匂いが漂う。

 ただの森の匂いへ変わる。


 カイルはその場に膝をついた。

 肩が痛む。脚も重い。だが生きている。


 首から下げた記録球が明るく光っていた。

 戦闘記録は取れている。

 折れた角の欠片のような核片。

 足元に残っている。証拠としては十分だ。


「……よし」


 立ち上がる。

 帰らなければならない。

 討伐しただけでは、まだ終わらない。

 その現実が、この世界らしかった。


 王都へ戻った頃には、夕日が城壁を赤く染めていた。

 南門を抜け、管理局へ駆け込み、扉を開け放つ。


「特例審査、持ち込みだ!!」


 室内の視線が一斉に集まる。

 書類を抱えた職員たちが目を丸くし、奥の机で立っていたリシェルが、ほんの少しだけ目を見開いた。

 だが次の瞬間には、いつもの顔に戻る。


「遅いです」

「これでも急いだわ!!」

「証拠は?」


 カイルは核片を机へ置き、記録球を差し出した。


「戦闘記録、魔力波形、現地証跡全部!!」


 リシェルは受け取り、確認する。

 そして小さく頷く。


「受理します」

「……通るか?」

「通します」


 即答だった。

 その一言に、ようやく肩の力が抜けた。

 カイルは近くの椅子へ座り込み、大きく息を吐く。


「噂、何人釣れた」

「仮公募への事前問い合わせは四十二件です」

「ええ……多いな……」

「はい。ですが、本公募前に討伐済みなら問題ありません」

「お前、顔に出ないだけで楽しんでるだろ」

「職務です」

「便利な言葉だな、それ」


 リシェルは書類を整理しながら、ふっとだけ口元を緩めた。


「お帰りなさい」


 その声は小さかったが、今度は聞き逃さなかった。

 カイルは少しだけ笑う。


「ああ、無事に帰りましたとさ」

「では、まず始末書です」

「何でよ!?」

「貸与品の記録球、側面に傷がありますので」

「いやいや、戦ったらそうなるでしょ!!」

「理由は欄に書いてください」

「結局、また書類じゃねーか!!」


 管理局の中に笑いが漏れた。

 職員たちが顔を伏せて肩を震わせる。

 普段堅い場所である分、こういう時だけ妙に空気が軽くなる。

 カイルは机に突っ伏した。


「魔王倒したのになあ……」

「倒したからこそです。手続きが増えます」

「夢がない」

「現実がありますので」


 リシェルは新しい紙束を差し出した。

 カイルはそれを見て、心底うんざりした顔になる。


「何枚ある」

「四枚です」

「減ったな」

「一枚は私が先に書いておきました」


 カイルは顔を上げた。


「……気が利くじゃないか」

「期限を守る人限定です」

「最後までそれ言うのか」

「当然です」


 即答。

 だがもう、その冷たさも悪くなかった。

 王都の外ではまた別の魔王が息を潜め、別の勇者が契約書に頭を抱え、どこかで新しい厄介事が生まれているのだろう。


 この世界は広い。

 夢もある。

 理不尽もある。

 そして書類もある。

 カイルはペンを握り、深々とため息をついた。


「次はちゃんと更新するよ」

「はい」

「たぶん」

「今ので信用が落ちました」

「じゃあ絶対」

「最初からそう言ってください」


 窓の外では、夕暮れの鐘が鳴っていた。

 魔王は倒れた。仕事は終わった。

 だが手続きは終わっていない。

 勇者というのは、案外そんなものだ。


 剣だけで世界を救えるならば、もっと楽だっただろう。

 けれど実際には、剣を振るう前にも振るった後にも、面倒で細かくて馬鹿らしいほど現実的なものがいくつも挟まる。


 だからこそ、生きて帰る意味がある。

 

 帰れば、うるさいやつがいる。

 文句を言いながら紙を渡してくるやつがいる。

 その声を聞きながら、自分がまだこっち側にいると確認できる。

 カイルは書類の一行目に名前を書いた。

 そして顔も上げずに言う。


「なあ、リシェル」

「何ですか」

「今度、討伐報酬入ったら飯でも奢らせてくれ」


 少しの沈黙。

 職員たちの耳が露骨にそちらへ向いた。

 リシェルは書類から目を離さず、淡々と答える。


「期限を守れたら考えます」

「条件つきかよ」

「当然です」


 ようやく顔を上げた彼女は、ほんの少しだけ笑っていた。

 カイルも笑う。


 次も、面倒なことになる。

 また怒鳴られる。

 当然、書類も増える。


 それでも悪くない。

 少なくとも、今日のところは。

 彼はそう思った。

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