第7話:感情訓練その1「笑う練習」
セラが監督役になってから、数日が経った。
二人は、授業から食事まで、ほとんどの時間を一緒に過ごしていた。
その日も、放課後の訓練場で、二人は向かい合っていた。
「殿下、今日は少し変わった訓練をしましょう」
「変わった訓練?」
「はい。剣術や体力ではなく、『感情』の訓練です」
セラの言葉に、ルーカスは首を傾げた。
感情の訓練。
それは、どういうものだろう。
「以前から気になっていたのですが、殿下は感情表現が乏しいです」
「そうでしょうか」
「はい。嬉しいときも、悲しいときも、あまり表情が変わりません」
「……言われてみれば、そうかもしれません」
ルーカスは、自分の顔を触った。
確かに、感情に合わせて表情を変える、という意識はなかった。
前世では、表情など必要なかったからだ。
「感情表現ができないと、人間関係で困ることがあります」
「人間関係……」
「はい。例えば、嬉しいときに笑わないと、相手は『嬉しくないのかな』と誤解します」
「なるほど。それは、問題ですね」
ルーカスは頷いた。
人間として生きるなら、感情表現は重要なのだろう。
「そこで、今日は『笑う練習』をしましょう」
「笑う練習……」
「はい。まず、笑ってみてください」
セラが、じっとルーカスを見つめている。
ルーカスは、少し困惑した。
笑う。
それは、どうすればいいのだろう。
口角を上げればいいのか。
それとも、声を出せばいいのか。
ルーカスは、とりあえず口角を上げてみた。
ぎこちない動きで、頬の筋肉を動かす。
「……殿下」
「はい」
「それは、笑顔ではなく、怖い顔です」
「怖い……」
「はい。引きつっています」
セラが、複雑な表情を浮かべた。
ルーカスは、鏡がないので自分の顔が見えなかったが、おそらく相当ひどい表情なのだろう。
「どうすれば、いいですか」
「まず、力を抜いてください。顔の筋肉が、固まっています」
「力を抜く……」
ルーカスは、顔の力を抜こうとした。
しかし、どこに力が入っているのか、よく分からなかった。
「殿下、笑うときは、口角を上げるだけではダメです」
「そうなのですか」
「はい。目も、笑わなければなりません」
「目を笑う……?」
ルーカスは、ますます困惑した。
目を笑う、とは、どういうことだろう。
目は、視覚を司る器官だ。
笑う機能は、ないはずだ。
「殿下、難しく考えすぎです」
「そうでしょうか」
「はい。笑うのは、技術ではありません。感情です」
「感情……」
「嬉しいときに、自然に笑うのです。意識して笑うのではなく」
セラの説明を聞いて、ルーカスは考え込んだ。
嬉しいときに、自然に笑う。
しかし、「嬉しい」という感情が、まだよく分からない。
「セラさん、『嬉しい』とは、どういう感覚ですか」
「……嬉しい、ですか」
「はい。何かをもらったとき? 褒められたとき? どういうときに、嬉しいと感じるのですか」
ルーカスの質問に、セラが少し驚いた顔をした。
そして、考え込んだ。
「……嬉しいときは、いろいろあります」
「例えば?」
「例えば……剣術の試験で良い点を取ったとき。好きな料理を食べたとき。友達と楽しく話したとき」
「なるほど」
「殿下は、そういうとき、どう感じますか」
「……分かりません。良い点を取ったときは、『目標達成』と思います。料理を食べたときは、『栄養補給完了』と思います」
「……」
セラが、絶句した。
どうやら、また変なことを言ってしまったらしい。
「殿下、それは、感情ではありません」
「そうですか」
「はい。それは、事実の確認です。感情とは、もっと……胸が温かくなるとか、心が軽くなるとか、そういう感覚です」
「胸が温かくなる……」
ルーカスは、その言葉に反応した。
胸が温かくなる感覚なら、知っている。
セラと一緒にいるときに、感じる感覚だ。
「セラさんと一緒にいると、胸が温かくなります」
「え……」
「それは、『嬉しい』という感情ですか」
ルーカスがまっすぐに問いかけた。
セラの顔が、みるみる赤くなっていった。
「で、殿下……」
「はい」
「そ、それは……たぶん、嬉しい、という感情、だと思います」
「なるほど。では、僕はセラさんと一緒にいると嬉しい、ということですね」
「……は、はい」
セラが、しどろもどろになっている。
ルーカスには、その理由が分からなかった。
事実を確認しただけなのに。
「では、セラさんと一緒にいるときに、笑えばいいのですね」
「え、ええ、そう、ですね……」
「やってみます」
ルーカスは、セラの顔を見つめた。
胸が温かい。
嬉しい、という感情だ。
その感覚を、顔に出す。
自然に、口角が上がった。
目も、少し細くなった。
「……殿下」
「どうですか」
「……今のは、笑顔、です」
セラが、少し驚いたような顔をしていた。
ルーカスは、自分の顔を触った。
確かに、さっきとは違う感覚だ。
「できましたか」
「はい。今のは、ちゃんと笑顔でした」
「なるほど。嬉しいときに笑う、ということですね」
「そう、です……」
セラが、まだ顔を赤くしている。
ルーカスは、首を傾げた。
「セラさん、顔が赤いですが、大丈夫ですか」
「だ、大丈夫です! 暑いだけです!」
「そうですか。水を飲みますか」
「い、いりません!」
セラが、そっぽを向いた。
ルーカスには、彼女の反応がよく分からなかった。
しかし、笑顔の練習は成功したようだ。
* * *
「では、次の練習をしましょう」
セラが、気を取り直して言った。
顔の赤みは、まだ少し残っていた。
「次は、何ですか」
「『褒められたときに笑う』練習です」
「褒められたとき……」
「はい。人は、褒められると嬉しいと感じます。そのときに、笑顔を返すと、相手も嬉しくなります」
「なるほど。相互的な感情のやり取り、ということですね」
「……まあ、そう言えなくもないです」
セラが、少し呆れた顔をした。
「では、私が殿下を褒めます。殿下は、それを聞いて、笑顔を返してください」
「分かりました」
「いきますよ」
セラが、咳払いをした。
そして、ルーカスの目を見て言った。
「殿下は、とても真面目な方ですね」
ルーカスは、その言葉を処理した。
真面目。
それは、褒め言葉だろうか。
たぶん、そうだ。
胸が、少し温かくなった。
セラに褒められたのが、嬉しいのだろう。
その感覚を、顔に出す。
口角を上げ、目を細めた。
笑顔、のつもりだ。
「……殿下」
「はい」
「笑顔は良いのですが、タイミングが遅いです」
「遅い?」
「はい。褒められてから笑顔になるまで、3秒くらいかかっていました」
「そうでしたか」
「普通は、もっと早く反応します。0.5秒くらいで」
「0.5秒……」
ルーカスは、計算した。
褒め言葉を聞く→意味を理解する→感情を判定する→顔に出す。
この一連のプロセスに、3秒かかっている。
それを、0.5秒に短縮しなければならない。
「難しいですね」
「でも、練習すれば早くなります」
「分かりました。もう一度、お願いします」
セラが頷いて、再び褒め言葉を言った。
「殿下は、努力家ですね」
ルーカスは、すぐに反応しようとした。
しかし、意味を理解するのに時間がかかる。
努力家。
それは褒め言葉だ。
嬉しい。
笑顔を出す。
結果、2秒くらいかかった。
「まだ遅いです」
「すみません。処理に時間がかかります」
「処理……」
セラが、眉をひそめた。
「殿下、難しく考えすぎです」
「そうでしょうか」
「はい。褒められたら、考える前に笑う。それだけです」
「考える前に……」
「反射的に、笑顔を出すのです。条件反射のように」
条件反射。
その言葉に、ルーカスは反応した。
条件反射なら、理解できる。
特定の刺激に対して、自動的に反応する。
それは、前世でもあった機能だ。
「つまり、『褒め言葉』という刺激に対して、自動的に『笑顔』を出す、ということですね」
「……そう、ですね。変な言い方ですが」
「分かりました。パターンを登録します」
「パターンを登録……?」
セラが首を傾げたが、ルーカスは気にせず続けた。
「もう一度、お願いします」
「え、ええ……殿下は、優しい方ですね」
ルーカスは、「褒め言葉」を検知した瞬間、笑顔を出した。
考えるより先に、顔の筋肉を動かす。
口角を上げ、目を細める。
「……!」
セラが、目を丸くした。
「今のは、どうでしたか」
「す、素晴らしいです! 1秒もかかっていませんでした」
「そうですか。パターン登録が成功したようです」
「パターン登録……殿下、本当に不思議な方ですね」
「よく言われます」
ルーカスが笑った。
今度は、自然な笑顔だった。
* * *
笑顔の練習を続けているうちに、問題が発生した。
「殿下、笑いすぎです」
「笑いすぎ?」
「はい。さっきから、何を言っても笑っています」
「褒め言葉を検知したら、笑顔を出すようにしました」
「検知……殿下、『ありがとう』は褒め言葉ではありません」
「違うのですか」
「はい。感謝の言葉です。笑顔で返すのは良いですが、爆笑するものではありません」
セラが、頭を抱えていた。
どうやら、パターン登録が雑すぎたらしい。
「笑顔と爆笑は、違うのですか」
「違います! 笑顔は微笑むこと、爆笑は大声で笑うことです」
「なるほど。強度の違いですね」
「強度……まあ、そうです」
「では、褒め言葉のレベルに応じて、笑顔の強度を調整すればいいのですね」
「……そう、ですね」
セラが、疲れた顔をしている。
ルーカスは、申し訳なく思った。
「すみません、セラさん。僕は、感情の扱いが下手なようです」
「……下手というか、根本的に違う気がします」
「違う?」
「殿下は、感情を『処理』しようとしています。でも、感情は処理するものではなく、感じるものです」
「感じる……」
「はい。頭で考えるのではなく、心で感じるのです」
セラの言葉に、ルーカスは考え込んだ。
心で感じる。
それは、どういうことだろう。
「心とは、何ですか」
「……え?」
「心は、どこにありますか。胸ですか、頭ですか」
「それは……比喩的な表現です。実際に場所があるわけではありません」
「では、心で感じる、とは、具体的にどういう状態ですか」
ルーカスの質問に、セラが言葉を失った。
しばらく考え込んでいる。
「……難しい質問ですね」
「すみません。変な質問でした」
「いえ、大切な質問だと思います」
セラが、真剣な顔で言った。
「心で感じる、とは……たぶん、『思考を介さずに感じる』ということだと思います」
「思考を介さない……」
「はい。例えば、好きな人を見ると、胸がドキドキします。それは、考えてドキドキするのではなく、自然にドキドキするのです」
「なるほど。自律反応ということですね」
「……自律反応」
セラが、また頭を抱えた。
「殿下、それは間違っていないのですが……もう少し、普通の言い方で言えませんか」
「普通の言い方……」
「はい。『心がときめく』とか、『胸がキュンとなる』とか」
「胸がキュンとなる……」
ルーカスは、その表現を記憶に登録した。
しかし、意味はよく分からなかった。
「セラさん、『胸がキュンとなる』とは、どういう感覚ですか」
「……それは」
セラの顔が、また赤くなった。
なぜか、視線を逸らしている。
「セラさん?」
「な、何でもありません! 今日の練習は、ここまでにしましょう!」
「え、でも、まだ……」
「ここまでです!」
セラが、足早に訓練場を出ていった。
ルーカスは、その後ろ姿を見送りながら、首を傾げた。
「胸がキュンとなる……難しいな」
呟きながら、ルーカスも訓練場を後にした。
* * *
その夜、ルーカスは寮の自室で、今日の練習を振り返っていた。
笑顔の練習。
褒められたら笑う。
嬉しいときに笑う。
それは、少しできるようになった気がする。
しかし、問題もある。
感情を「処理」しようとしてしまう。
心で「感じる」ことが、まだできていない。
「心で感じる、か……」
ルーカスは、窓の外を眺めながら呟いた。
月が、夜空に浮かんでいる。
星が、瞬いている。
綺麗だ、と思う。
その感覚は、処理ではなく、自然に湧いてくるものだ。
これが、「心で感じる」ということなのだろうか。
セラのことを考える。
胸が、温かくなる。
その感覚も、考えて出しているわけではない。
自然に、湧いてくる。
「セラさんのことを考えると、胸が温かくなる……」
ルーカスは、その事実を確認した。
それは、「嬉しい」という感情だと、セラが教えてくれた。
では、自分はセラのことを考えると嬉しい、ということだ。
それは、どういう意味なのだろう。
なぜ、セラのことを考えると嬉しいのだろう。
セラは、自分を助けてくれる。
自分の味方だと言ってくれる。
大切な人だと言ってくれる。
だから、嬉しい。
そういうことなのだろうか。
「……分からないな」
ルーカスは、ベッドに横になった。
感情は、難しい。
でも、少しずつ分かってきている気もする。
笑顔の練習は、明日も続けよう。
セラが付き合ってくれるなら。
彼女と一緒にいると、嬉しい。
その感覚を、もっと大切にしたい。
そう思いながら、ルーカスは目を閉じた。
今夜も、枕が焦げないことを祈りながら。
眠りに落ちる前、ルーカスは一つのことを決めた。
明日、セラに「ありがとう」を言おう。
今日、笑顔の練習に付き合ってくれた感謝を伝えよう。
そして、そのときに、ちゃんと笑顔を見せよう。
パターン登録ではなく、心から。
それが、できるかどうか分からない。
でも、やってみたい。
人間として、生きるために。
セラに、喜んでもらうために。
その思いを胸に、ルーカスは眠りについた。




