第5話:医務室の先生が一番怖い
定期健康診断の日が来た。
学院では、月に一度、全生徒が医務室で健康診断を受けることになっている。
ルーカスにとっては、最も避けたい行事の一つだった。
「殿下、本日は健康診断です」
侍従のグスタフが、朝食の場で告げた。
ルーカスは、パンを噛む手を止めた。
「……マーガレット先生のところですか」
「はい。午前中に、お越しください」
「分かりました」
ルーカスは、淡々と答えた。
しかし、内心では不安を感じていた。
いや、不安という感情が正しいのか分からないが、胸の奥に重いものがある。
マーガレット・ホーソン。
学院の医務官であり、ルーカスの「異常」を知る数少ない人物の一人だ。
彼女は、ルーカスの身体に起きている変化を、詳細に記録している。
その目は、常に鋭く、容赦がない。
正直に言えば、マーガレット先生は「怖い」。
怖い、という感情を理解し始めたのは、彼女のおかげかもしれなかった。
* * *
午前10時、ルーカスは医務室の前に立っていた。
白い扉が、威圧感を放っている。
いや、扉に威圧感はない。
威圧感を感じているのは、自分の心だ。
「……入ります」
ルーカスは、扉をノックした。
「どうぞ」
中から、マーガレットの声が聞こえた。
扉を開けて、中に入る。
医務室は、相変わらず清潔で、整然としていた。
白い壁、白いベッド、白い棚。
消毒薬の匂いが、鼻をくすぐる。
そして、部屋の奥に、マーガレットが立っていた。
「いらっしゃい、殿下。お待ちしていました」
銀縁の眼鏡の奥で、彼女の目が光った。
その視線は、獲物を見つけた狩人のようだった。
「……よろしくお願いします、マーガレット先生」
「では、診察台に座ってください」
ルーカスは、言われるままに診察台に座った。
マーガレットが、様々な器具を準備している。
聴診器、血圧計、体温計。
そして、いくつかの見慣れない器具。
「今日は、いつもより詳しく調べます」
「……何か、問題が?」
「問題だらけですよ、殿下」
マーガレットが、鋭い目でルーカスを見た。
その視線に、ルーカスは身をすくめた。
「先日の食堂での件、聞きました」
「……はい」
「感覚過敏で倒れた、と」
「はい」
「それは、以前より悪化しているということですね」
「……たぶん」
ルーカスが正直に答えた。
マーガレットが、ため息をついた。
「殿下、私は何度も言っていますが、無理は禁物です」
「分かっています。でも、避けられない状況もあります」
「それは、理解しています。だからこそ、詳しく調べる必要があるのです」
マーガレットが、聴診器を取り出した。
ルーカスは、上着を脱いだ。
「深呼吸をしてください」
ルーカスは、言われた通りにした。
マーガレットが、聴診器を胸に当てる。
その表情が、みるみる険しくなっていった。
「……心拍数が、また上がっていますね」
「そうですか」
「通常の1.5倍です。前回は1.3倍でした」
「……」
「つまり、心臓も強化されているということです」
マーガレットが、聴診器を外した。
その目が、真剣だった。
「殿下、正直に答えてください」
「はい」
「身体の変化を、自分で感じていますか」
「……はい」
「どのような変化ですか」
ルーカスは、少し考えた。
どこまで話すべきか。
しかし、マーガレットは味方だ。
隠しても、意味がない。
「骨が、硬くなっている気がします」
「骨が」
「はい。以前より、衝撃に強くなっています」
「他には?」
「皮膚が、熱に強くなっています。熱湯を触っても、熱いと感じません」
「他には?」
「感覚が、鋭くなっています。音、匂い、温度、すべてが以前より強く感じられます」
「他には?」
「……筋力が、上がっている気がします。木剣を握ると、砕けそうになります」
ルーカスが、すべてを話した。
マーガレットが、メモを取りながら聞いていた。
その表情は、険しいままだった。
「殿下、それは『自己修復』ではありません」
「え?」
「それは、『進化』です」
マーガレットが、重い声で言った。
ルーカスは、その言葉の意味を考えた。
「進化……?」
「はい。殿下の身体は、勝手に『より強く』なろうとしています。それは、単なる修復ではありません。生物として、進化しているのです」
「……」
「問題は、その進化が止まらないことです。このままでは、殿下の身体は、人間の範疇を超えてしまうかもしれません」
マーガレットの言葉が、ルーカスの胸に突き刺さった。
人間の範疇を超える。
それは、つまり――
「僕は、人間ではなくなる、ということですか」
「可能性の話です。確定ではありません」
「でも、可能性がある」
「はい。あります」
マーガレットが、正直に答えた。
その誠実さが、逆に怖かった。
「止める方法は、ないのですか」
「今のところ、分かりません。調べてはいますが、こんな症例は前例がないのです」
「……」
「ただ、一つ言えることがあります」
「何ですか」
「進化の速度は、一定ではありません。刺激が多いほど、速くなるようです」
ルーカスは、その言葉の意味を理解した。
食堂で倒れたこと、剣術で力が入りすぎること。
それらは、身体に「刺激」を与えている。
その結果、進化が加速しているのだ。
「つまり、刺激を減らせば、進化も遅くなる、と」
「理論上は、そうです。しかし、学院生活で刺激を完全に避けることは、不可能でしょう」
「……はい」
「だからこそ、私は殿下に言っているのです。無理は禁物だと」
マーガレットが、厳しい目でルーカスを見た。
その視線に、ルーカスは背筋が伸びた。
「分かりました。気をつけます」
「本当に分かっていますか」
「……たぶん」
「たぶん、ではダメです」
マーガレットが、ため息をついた。
そして、ルーカスの肩に手を置いた。
「殿下、私はあなたの味方です。だから、厳しいことも言います」
「はい」
「進化が進めば、教会の監察官も黙っていないでしょう。『禁忌』として、処分される可能性があります」
「……」
「それを避けるためにも、今は目立たないことが重要です。分かりますね?」
「はい。分かりました」
ルーカスが頷いた。
マーガレットが、少しだけ表情を和らげた。
「良い子ですね。では、続きの検査をしましょう」
マーガレットが、血圧計を取り出した。
ルーカスは、腕を差し出した。
検査は、まだまだ続きそうだった。
* * *
健康診断が終わったのは、昼近くだった。
ルーカスは、医務室を出て、廊下を歩いていた。
頭の中は、マーガレットの言葉でいっぱいだった。
進化。
自分の身体は、勝手に進化している。
止める方法は、分からない。
このままでは、人間ではなくなるかもしれない。
「殿下?」
声をかけられて振り返ると、セラが立っていた。
騎士科の制服姿で、少し息が上がっている。
探していたのだろうか。
「セラさん。どうしましたか」
「健康診断が終わったと聞いて。様子を見に来ました」
「……ありがとうございます」
「何か、あったのですか。顔色が悪いですが」
セラが、心配そうにルーカスの顔を覗き込んだ。
その視線が、温かかった。
「……少し、考え事を」
「考え事?」
「はい。自分の身体のことを」
ルーカスが、曖昧に答えた。
すべてを話すのは、まだ早い気がした。
セラを、巻き込みたくない。
「殿下、何かあれば、言ってください」
「はい」
「私は、殿下の味方です」
「……ありがとうございます」
ルーカスが、小さく笑った。
その笑顔が、少し寂しげに見えたのか、セラが眉をひそめた。
「殿下」
「はい」
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「マーガレット先生に、何か言われたのですか」
セラの目が、まっすぐにルーカスを見ていた。
鋭い。
ルーカスは、少し驚いた。
「……なぜ、そう思うのですか」
「殿下の顔を見れば、分かります。何か、重いことを言われた顔です」
「重いこと……」
「はい。何を言われたのですか」
セラが、真剣な表情で問いかけた。
ルーカスは、どう答えるべきか迷った。
すべてを話すべきか。
それとも、黙っておくべきか。
セラを巻き込みたくない、という気持ちがある。
しかし、隠し通せるとも思えない。
「……セラさん」
「はい」
「僕の身体は、普通ではありません」
「それは、知っています」
「いいえ、もっと深刻なのです」
ルーカスが、声を落とした。
セラが、真剣な顔で聞いている。
「僕の身体は、勝手に『進化』しています」
「進化……?」
「はい。より強く、より速く、より頑丈に。それが、止まらないのです」
「……」
「このままでは、僕は……人間ではなくなるかもしれません」
ルーカスが、正直に言った。
セラが、目を見開いた。
「人間ではなくなる……?」
「可能性の話です。でも、ゼロではありません」
「……」
セラが、しばらく黙り込んだ。
その表情は、ルーカスには読み取れなかった。
怖い。
セラが、自分を拒絶するかもしれない。
そう思うと、胸が締め付けられた。
「殿下」
「……はい」
「それでも、私は殿下の味方です」
セラが、きっぱりと言った。
その目には、強い意志が宿っていた。
「え……」
「人間ではなくなる、と言いましたね」
「はい」
「でも、殿下は今、人間として悩んでいます。人間として、苦しんでいます。それは、人間の証拠です」
「……」
「私は、殿下が人間でなくなるとは思いません。殿下は、人間です。今も、これからも」
セラの言葉が、ルーカスの胸に響いた。
人間として悩み、苦しむ。
それが、人間の証拠。
「……セラさん」
「はい」
「ありがとうございます」
ルーカスの目から、涙が一粒、こぼれ落ちた。
涙。
それは、初めての経験だった。
「殿下……泣いているのですか」
「……分かりません。目から、水が……」
「それは、涙です」
「涙……」
「はい。悲しいときや、嬉しいときに、出るものです」
セラが、少し驚いたような顔をしていた。
しかし、すぐに表情を和らげた。
「今のは、どちらですか。悲しいのですか、嬉しいのですか」
「……分かりません。両方、かもしれません」
「両方……」
「セラさんの言葉が、嬉しかったです。でも、自分が人間でなくなるかもしれない、という不安も消えません。だから、両方です」
ルーカスが、涙を拭いながら言った。
セラが、小さく笑った。
「殿下は、本当に正直ですね」
「嘘をつくのは、苦手です」
「分かっています」
セラが、ルーカスの肩に手を置いた。
その手の温かさが、ノイズではなく、「確かなもの」として感じられた。
「殿下、一緒に頑張りましょう」
「一緒に……」
「はい。殿下が人間でいられるように、私も手伝います」
「……ありがとうございます」
ルーカスが、また涙を流した。
今度は、嬉しさの涙だった。
たぶん。
* * *
その日の午後、ルーカスは中庭のベンチに座っていた。
セラは、騎士科の授業に戻った。
一人になって、ルーカスは考えていた。
進化。
自分の身体は、勝手に強くなっている。
それは、止められない。
しかし、遅くすることはできるかもしれない。
刺激を減らす。
目立たない。
無理をしない。
それが、今の自分にできることだ。
しかし、それだけでいいのだろうか。
受け身で、守りに入るだけでいいのか。
もっと、能動的に何かできないのか。
「……分からないな」
ルーカスは呟いた。
答えは、見つからなかった。
ふと、視線を感じた。
顔を上げると、中庭の向こうに、誰かが立っていた。
黒い衣を着た人物。
教会の監察官だった。
監察官は、ルーカスをじっと見つめていた。
その目は、冷たく、鋭かった。
値踏みするような、観察するような視線。
ルーカスは、その視線を受け止めた。
恐怖を感じる。
しかし、逃げるわけにはいかない。
ここで逃げれば、疑惑が深まるだけだ。
しばらくして、監察官は踵を返して去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ルーカスは胸の中で誓った。
人間として、生きる。
どんなに身体が変わっても、心は人間のままでいる。
セラが言ってくれたように。
「僕は、人間です」
ルーカスは呟いた。
その言葉を、自分に言い聞かせるように。
空には、雲が流れていた。
風が、木々を揺らしていた。
平和な午後だった。
しかし、ルーカスの心には、暗い影が落ちていた。
教会の監察官。
彼らは、ルーカスを「禁忌」として狙っている。
進化が進めば、その疑惑は確信に変わるだろう。
そのとき、何が起きるのか。
隔離か、処分か。
どちらにせよ、良い結果にはならない。
「だから、止めなければ」
ルーカスは、拳を握った。
進化を止める方法を、見つけなければならない。
そのために、何をすべきか。
答えは、まだ見つからない。
しかし、諦めるわけにはいかない。
人間として生きるために。
セラの期待に応えるために。
ルーカスは、立ち上がった。
まずは、今日できることをやる。
それが、前に進む唯一の方法だ。
中庭を後にしながら、ルーカスは空を見上げた。
雲の隙間から、太陽の光が差し込んでいた。
その光は、希望の象徴のように見えた。
希望。
それは、まだ手の届く場所にある。
そう信じて、ルーカスは歩き始めた。




