第4話:感覚ノイズ初の大暴走(食堂編)
学院の食堂は、昼時になると戦場と化す。
いや、戦場という表現は、元戦闘用ロボットとしては不正確だ。
正確には、カオスだ。
広大なホールに、数百人の生徒が押し寄せる。
テーブルは隙間なく並び、椅子は奪い合いになる。
料理の匂いが充満し、談笑の声が反響し、食器の音が絶え間なく響く。
ルーカスは、食堂の入り口で立ち尽くしていた。
――処理負荷、危険域に接近中。
脳内に警告が浮かぶ。
匂い、音、熱、視線。
あらゆる感覚情報が、同時に流れ込んでくる。
これは、まずい。
「殿下? どうされました?」
侍従のグスタフが、心配そうに声をかける。
ルーカスは、その声すらノイズの一部として処理していた。
「グスタフ……少し、待ってください」
目を閉じて、深呼吸する。
感覚を遮断しようとする。
しかし、完全には遮断できない。
人間の身体は、機械のセンサーほど精密に制御できないのだ。
「殿下、お顔が青いですが……」
「大丈夫です。少し、情報が多いだけです」
「情報……?」
グスタフが首を傾げる。
説明するのは難しい。
「感覚が鋭すぎて、すべてがノイズになっている」などと言っても、理解されないだろう。
ルーカスは、意を決して食堂に足を踏み入れた。
瞬間、ノイズの嵐が襲いかかってきた。
匂い。
肉の焼ける匂い、パンの香ばしさ、スープの湯気、果物の甘い香り。
それらが混ざり合い、鼻腔を刺激する。
通常なら「いい匂い」と感じるのだろう。
しかし、ルーカスの過敏になった嗅覚は、それを「情報過多」として処理していた。
音。
話し声、笑い声、食器の音、椅子を引く音、足音。
数百人分の音が、同時に耳に流れ込んでくる。
どれが重要で、どれが無視していい音なのか、判断がつかない。
すべてが、等しくノイズだ。
熱。
人々の体温、料理から立ち上る蒸気、窓から差し込む日光。
温度のグラデーションが、肌に感じられる。
それぞれの温度が、別々の情報として処理される。
脳の負荷が、さらに上昇する。
視線。
何人かの生徒が、こちらを見ている。
「第三王子だ」という囁きが聞こえる。
その視線が、ルーカスの脳に刺さるように感じられた。
「殿下、お席はあちらに……」
グスタフの声が、遠くに聞こえる。
ルーカスは、足を動かそうとした。
しかし、身体が言うことを聞かない。
処理落ちが始まっている。
――警告:システム過負荷。緊急停止モードに移行中。
脳内に、赤い文字が浮かんだ。
まずい。
このままでは、倒れる。
「殿下!」
グスタフの悲鳴が聞こえた。
しかし、それすらもノイズの一部だった。
ルーカスは、必死で意識を保とうとした。
目の前のテーブルに、手を伸ばす。
支えを得ようとして。
しかし、手が届く前に、視界が暗転した。
* * *
意識を取り戻したとき、ルーカスは医務室のベッドに寝かされていた。
白い天井が見える。
消毒薬の匂いがする。
静かだ。
「お目覚めですか、殿下」
声をかけられて首を動かすと、マーガレット医務官が立っていた。
銀縁の眼鏡の奥の目が、心配そうに細められている。
「……どれくらい、気を失っていましたか」
「30分ほどです」
「そうですか」
ルーカスは、ゆっくりと身を起こした。
頭が重い。
しかし、食堂にいたときほどの負荷は感じない。
「食堂で、倒れたそうですね」
「はい。感覚が……情報が、多すぎました」
「情報が多すぎる、とは?」
マーガレットが、メモを取りながら問いかける。
ルーカスは、どう説明すべきか考えた。
「匂い、音、熱、視線。すべてが、同時に入ってきます。それを処理しきれなくなると、こうなります」
「……感覚過敏、ということですか」
「たぶん。でも、普通の感覚過敏とは違うと思います」
「どう違うのです?」
「分かりません。ただ、僕の感覚は、どんどん鋭くなっているようです。止め方が、分かりません」
ルーカスが正直に答えた。
マーガレットが、難しい顔をした。
「殿下、これは仮説ですが……」
「はい」
「殿下の身体は、何らかの理由で、常に『強化』されているようです。筋力、骨格、そして感覚。すべてが、通常の人間を超えています」
「はい。それは、自覚しています」
「その強化が、制御されていない。だから、感覚が鋭くなりすぎて、処理できなくなる。そういうことではないでしょうか」
ルーカスは頷いた。
マーガレットの分析は、おおむね正しい。
自己修復機能が、勝手に身体を強化している。
それが、様々な問題を引き起こしている。
「対策は、ありますか」
「正直に言えば、分かりません。こんな症例は、見たことがありません」
「そうですか……」
「ただ、一つ言えることがあります」
「何ですか」
「刺激の多い環境は、避けた方がいいでしょう。食堂のような場所は、殿下にとって危険です」
マーガレットが真剣な目で言った。
ルーカスは、その言葉を噛み締めた。
刺激の多い環境を避ける。
それは、つまり、多くの人がいる場所を避けるということだ。
しかし、学院生活で、それは難しい。
授業、訓練、食事。
すべてが、多くの人と関わることを前提としている。
「避けられない場合は、どうすればいいですか」
「……休憩を取ることです。限界を感じたら、すぐに離れる。そして、静かな場所で休む」
「分かりました」
ルーカスは頷いた。
それくらいなら、できるかもしれない。
* * *
医務室を出ると、廊下にセラが立っていた。
騎士科の制服姿で、腕を組んでいる。
その表情は、心配と怒りが入り混じっているように見えた。
「殿下」
「セラさん。なぜここに」
「グスタフ殿から、連絡がありました。殿下が食堂で倒れたと」
「そうでしたか」
「……大丈夫なのですか」
「はい。もう大丈夫です」
ルーカスが答えた。
しかし、セラは納得していない様子だった。
「何があったのですか。食堂で」
「感覚が、限界を超えました。情報が多すぎて、処理できなくなりました」
「情報が多すぎる……?」
「はい。匂い、音、熱、視線。すべてが、同時に入ってきます。それを処理しきれないと、倒れます」
ルーカスが説明した。
セラが、眉をひそめた。
「それは……以前からですか」
「いいえ。最近、特にひどくなっています。たぶん、感覚が鋭くなりすぎているのだと思います」
「鋭くなりすぎている……」
セラが、何かを考えている様子だった。
しばらくして、彼女は口を開いた。
「対策は、あるのですか」
「マーガレット先生は、刺激の多い環境を避けるようにと」
「食堂を避ける、ということですか」
「たぶん」
「しかし、それは現実的ではありません」
セラが、きっぱりと言った。
ルーカスも、同じ考えだった。
「では、別の方法を考えましょう」
「別の方法?」
「はい。例えば……」
セラが、腕を組んで考え込んだ。
しばらくして、彼女は顔を上げた。
「私が、付き添います」
「付き添う?」
「はい。食堂に行くとき、私が一緒に行きます。殿下が限界に達しそうになったら、外に連れ出します」
「それは……セラさんに迷惑では」
「迷惑ではありません」
セラが、きっぱりと言った。
その目には、強い意志が宿っていた。
「私は、殿下を放っておけません。それは、以前言った通りです」
「……」
「それに、騎士志望として、守るべき人を守るのは当然のことです」
「守るべき人……僕は、守られるべき人ですか」
「はい。少なくとも、今の殿下は」
セラが、まっすぐにルーカスを見ている。
その視線に、嘘はなかった。
「……ありがとうございます、セラさん」
「礼を言う必要は、ありません」
「いいえ。言わせてください。セラさんに助けられてばかりで、僕は……」
「だから、礼を言う必要はないのです」
セラが、少し強い口調で言った。
ルーカスが、首を傾げた。
「なぜですか」
「優しさに、見返りはいりません。以前、そう言いませんでしたか」
「……言いました」
「では、黙って助けられてください」
セラが、そっぽを向いた。
耳が、少し赤いように見えた。
ルーカスは、不思議な気持ちになった。
セラの行動は、理解できる。
困っている人を、放っておけない。
それが、優しさ、というものだ。
しかし、それだけではない気がする。
セラは、なぜこれほどまでに、自分を助けようとするのだろう。
単なる優しさだけでは、説明がつかないような気がした。
「セラさん」
「何ですか」
「なぜ、そこまでしてくれるのですか」
ルーカスが問いかけた。
セラが、少し驚いたような顔をした。
そして、視線を逸らした。
「……分かりません」
「分からない?」
「はい。私にも、分からないのです。ただ、殿下を見ていると、放っておけないのです」
「それは、優しさ、では?」
「たぶん。でも、それだけではないような気がします」
セラが、困惑した表情を浮かべた。
ルーカスも、同じ気持ちだった。
二人とも、自分の感情を理解できていないのだ。
「……とにかく」
セラが、話題を切り替えるように言った。
「明日から、食事のときは付き添います。いいですね」
「分かりました。ありがとうございます」
「だから、礼は……」
「いいえ。言わせてください。感謝しています」
ルーカスが、頭を下げた。
適切な角度で。
セラが、小さくため息をついた。
「……殿下は、本当に変わっていますね」
「よく言われます」
「でも、嫌いではないです」
「ありがとうございます」
ルーカスが笑った。
笑い方が正しいかは、分からない。
しかし、胸の奥に、温かいものが広がった。
* * *
翌日の昼、ルーカスはセラと一緒に食堂に向かった。
廊下を並んで歩きながら、ルーカスは緊張していた。
いや、緊張という感情が何なのか、まだよく分からないが。
「大丈夫ですか、殿下」
「分かりません。やってみないと」
「限界を感じたら、すぐに言ってください」
「分かりました」
食堂の入り口に着いた。
扉を開けると、昨日と同じ光景が広がっていた。
人々の喧騒、料理の匂い、熱気。
ノイズの嵐が、押し寄せてくる。
しかし、今日は少し違った。
セラが、隣にいる。
その存在が、なぜか心強かった。
「行きましょう」
セラが、ルーカスの袖を軽く引いた。
その感触が、ノイズの中で、一つの「確かなもの」として感じられた。
二人で、食堂の中を進む。
ノイズは相変わらず激しい。
しかし、セラの存在が、一種のアンカーになっていた。
彼女の声、体温、足音。
それらが、他のノイズと区別できる。
それだけで、処理が少し楽になった。
「ここに、座りましょう」
セラが、壁際の席を指し示した。
人通りが少なく、比較的静かな場所だ。
ルーカスは頷いて、席に着いた。
「トレーを取ってきます。殿下は、ここで待っていてください」
「いいえ、僕も行きます」
「しかし……」
「練習です。慣れなければなりません」
ルーカスが言った。
セラが、少し驚いたような顔をした。
そして、小さく頷いた。
「分かりました。では、一緒に」
二人で、配膳台に向かった。
人混みの中を進む。
ノイズが、さらに激しくなる。
しかし、セラが隣にいる。
その存在が、支えになる。
トレーを取り、料理を選ぶ。
スープ、パン、肉料理、サラダ。
ルーカスは、一つ一つの動作に集中した。
余計な情報を、遮断しようとする。
「殿下、顔色が……」
「大丈夫です。まだ、持ちます」
ルーカスが答えた。
実際、限界は近い。
しかし、ここで引き下がりたくなかった。
席に戻り、食事を始める。
スープを一口飲む。
温度が高い。
しかし、熱いとは感じない。
皮膚の耐熱化が進んでいるからだ。
「殿下、そのスープ、熱くないのですか」
「いいえ。適温です」
「……湯気が、ものすごく出ていますが」
「そうですね」
セラが、複雑な表情を浮かべた。
ルーカスは、構わずスープを飲み続けた。
食事を進めながら、周囲のノイズを意識する。
話し声、笑い声、食器の音。
それらが、相変わらず耳に流れ込んでくる。
しかし、少しずつ「慣れ」が生まれてきた気がする。
完全に遮断することはできない。
しかし、「重要でない」と判断した情報は、意識の端に追いやれるようになってきた。
これが、人間の言う「慣れ」というものだろうか。
「殿下?」
「はい」
「少し、様子がおかしいですが……」
「いいえ。考え事をしていました」
「考え事?」
「はい。ノイズの処理方法について」
セラが、眉をひそめた。
どうやら、また変なことを言ってしまったらしい。
「ノイズの処理方法、とは?」
「周囲の音や匂いを、どう扱うか、ということです。すべてを処理しようとすると、限界を超えます。だから、重要でないものは、意識の端に追いやる方法を考えていました」
「……それは、普通の人が自然にやっていることでは」
「そうなのですか?」
「はい。誰でも、必要な情報だけに集中して、他は無視しています」
「なるほど。それが、普通なのですね」
ルーカスが頷いた。
セラが、何とも言えない表情を浮かべた。
「殿下は……本当に、不思議な方ですね」
「よく言われます」
「普通のことが、普通にできないのですね」
「はい。それが、僕の問題です」
ルーカスが正直に認めた。
セラが、小さくため息をついた。
「では、練習しましょう」
「練習?」
「はい。普通のことを、普通にできるようになる練習です」
「……できるようになりますか」
「分かりません。でも、やらないよりはマシです」
セラがそう言って、微かに笑った。
その笑顔を見て、ルーカスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
* * *
食事を終えて、食堂を出る。
結局、今日は倒れなかった。
セラのおかげだろう。
「ありがとうございました、セラさん」
「だから、礼は……」
「いいえ。言わせてください」
ルーカスが頭を下げた。
セラが、観念したようにため息をついた。
「……どういたしまして」
「では、また明日も」
「はい。付き添います」
セラが頷いて、踵を返した。
その後ろ姿を見送りながら、ルーカスは考えていた。
セラの存在は、確かに助けになる。
彼女がいると、ノイズの中でも一つの「確かなもの」を感じられる。
それが、処理を楽にする。
しかし、いつまでもセラに頼るわけにはいかない。
自分で、ノイズを処理できるようにならなければ。
そのためには、練習が必要だ。
「練習……」
ルーカスは呟いた。
剣術の力加減も、感覚ノイズの処理も、練習で改善できるかもしれない。
人間は、練習すれば成長できる。
それが、人間というものなのだろう。
前世の自分は、成長しなかった。
製造されたときから、完成していた。
能力は固定され、変化することはなかった。
それが、機械というものだ。
しかし、今は違う。
人間の身体を持っている。
成長できる。
変われる。
それは、恐ろしいことでもあり、希望でもあった。
* * *
その夜、ルーカスは寮の自室で、今日の出来事を振り返っていた。
食堂で倒れたこと。
セラが付き添ってくれたこと。
そして、ノイズの処理方法を考え始めたこと。
窓の外には、星が瞬いている。
月は、三日月だった。
「普通のことを、普通にできるようになる」
ルーカスは呟いた。
それが、今の目標だ。
力加減、感覚ノイズ、人間関係。
すべてにおいて、「普通」を目指す。
しかし、「普通」とは何なのだろう。
セラは、普通のことを自然にやっていると言った。
必要な情報だけに集中して、他は無視する。
それが、普通なのだと。
ルーカスには、それができない。
すべての情報が、等しく重要に見える。
だから、処理が追いつかなくなる。
でも、練習すれば、できるようになるかもしれない。
セラは、そう言った。
信じてみよう。
ルーカスは、目を閉じた。
明日も、練習がある。
食堂で、ノイズと戦う。
セラに頼りながら、少しずつ慣れていく。
それが、今の自分にできることだ。
眠りに落ちる前、ルーカスはセラの笑顔を思い出した。
あの笑顔を見ると、胸が温かくなる。
それが何なのか、まだ分からない。
しかし、悪い感覚ではなかった。
むしろ、もっと見たいと思った。
その感情に名前をつけることは、まだできなかった。
しかし、いつか分かる日が来るだろう。
人間として生きていく中で、少しずつ学んでいく。
それが、転生した自分の、新しい「任務」なのかもしれなかった。




