第16話:感情訓練その2「怒らない練習」
感情訓練の第二弾は、「怒り」についてだった。
「殿下、今日は『怒り』について学びましょう」
放課後の訓練場で、セラが真剣な顔で言った。
ルーカスは、首を傾げた。
「怒り……」
「はい。人間には、喜怒哀楽という感情があります。前回は『笑う』を練習しました。今回は『怒る』です」
「でも、怒るのは良くないことでは」
「怒ること自体は、悪いことではありません。問題は、怒りを制御できないことです」
「制御……」
「はい。怒りに任せて暴走すると、取り返しのつかないことになります。だから、怒りを感じても、制御する方法を学ぶ必要があります」
セラの説明に、ルーカスは頷いた。
確かに、自分の身体には「暴走」のリスクがある。
怒りがトリガーになって暴走したら、大変なことになる。
制御の方法を学ぶのは、重要なことだ。
「具体的に、何をしますか」
「まず、殿下が怒りを感じるかどうか、確認します」
「怒りを感じるか……」
「はい。私が、殿下を怒らせるようなことを言います。殿下は、それを聞いて、どう感じるか教えてください」
「分かりました」
ルーカスは、心の準備をした。
セラが、怒らせることを言う。
それを聞いて、自分が何を感じるかを観察する。
「では、いきます」
セラが、深呼吸をした。
そして、ルーカスの目を見て言った。
「殿下は、役立たずです」
「……」
「何もできない、無能な王子です」
「……」
「学院に来ても、迷惑をかけるだけです」
「……」
ルーカスは、セラの言葉を聞いていた。
役立たず。無能。迷惑。
どれも、ネガティブな言葉だ。
しかし、不思議と何も感じなかった。
「殿下、何か感じましたか」
「いいえ。特に」
「怒りは?」
「……分かりません。怒りというものが、どういう感覚か分からないので」
「そうですか……」
セラが、考え込んだ。
しばらくして、彼女は別の方法を試すことにしたようだ。
「では、もう少し具体的なことを言います」
「はい」
「殿下は、人間ではありません。機械です。感情もない、ただの道具です」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、ルーカスの胸に何かが走った。
冷たい、鋭い何か。
不快感。
それに似た感覚だった。
「……今、何か感じました」
「何を感じましたか」
「分かりません。でも、嫌な感覚でした」
「嫌な感覚……それが、怒りの入り口かもしれません」
セラが、少し安堵したような顔をした。
しかし、同時に罪悪感も浮かんでいた。
「殿下、すみません。ひどいことを言いました」
「いいえ。練習ですから」
「でも、本心ではありません。殿下は人間です。機械ではありません」
「分かっています」
ルーカスが微笑んだ。
セラが言ったことは、練習のためだ。
本気ではない。
それは、分かっていた。
「では、続けましょう。もう少し、掘り下げてみます」
「はい」
セラが、また言葉を選び始めた。
今度は、より慎重に。
「殿下は、セラを危険にさらしています」
「……」
「殿下と一緒にいるせいで、セラは教会に目をつけられました」
「……」
「殿下のせいで、セラの将来が危うくなるかもしれません」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、ルーカスの胸に、さっきよりも強い何かが走った。
熱い、重い何か。
胸が締め付けられるような感覚。
「……セラさん」
「はい」
「今、嫌な感覚が、強くなりました」
「どんな感覚ですか」
「胸が、痛いです。熱くて、重くて」
「それは……怒りかもしれませんし、罪悪感かもしれません」
「罪悪感……」
「はい。自分のせいで誰かを傷つけた、という気持ちです」
セラの説明に、ルーカスは頷いた。
確かに、怒りとは違う気がする。
誰かに怒っているのではなく、自分を責めている感覚だ。
「では、怒りとは違うのですね」
「怒りは、もっと外に向かいます。誰かを攻撃したい、という気持ちです」
「攻撃したい……」
「はい。『許せない』『やり返したい』という感覚です」
「なるほど……」
ルーカスは、その説明を頭に刻んだ。
怒りは、外に向かう感情。
罪悪感は、内に向かう感情。
二つは、似ているようで違うのだ。
* * *
「では、もう一度試します」
セラが、別のアプローチを考えているようだった。
しばらく考え込んだ後、彼女は口を開いた。
「殿下、私を侮辱する言葉を言います。殿下は、私を守りたいと思っていますよね」
「はい」
「では、私が誰かに侮辱されている場面を想像してください」
「……はい」
ルーカスは、目を閉じた。
セラが、誰かに侮辱されている。
そんな場面を想像する。
「『騎士志望だと? 女のくせに剣を振るなんて、笑わせる』」
セラが、誰かの台詞を演じた。
その言葉を聞いた瞬間、ルーカスの中で何かが動いた。
「……」
胸が熱くなる。
しかし、さっきとは違う熱さだ。
外に向かいたがる熱さ。
抑えようとしても、沸き上がってくる感覚。
「殿下、何か感じましたか」
「はい。胸が熱いです。外に向かいたい感覚です」
「それが、怒りです」
「怒り……」
ルーカスは、その感覚を確認した。
確かに、これまで感じたことのない感覚だ。
誰かを攻撃したい。
侮辱した者を、罰したい。
そんな衝動が、胸の奥にある。
「殿下、大丈夫ですか」
「……はい。大丈夫です」
「手が、震えています」
「……」
言われて初めて気づいた。
自分の手が、わずかに震えている。
怒りが、身体に影響を与えているのだ。
「これが、怒りなのですね」
「はい。殿下は、私を守りたいから、私を侮辱する者に怒りを感じたのです」
「なるほど……」
ルーカスは、その感覚を噛み締めた。
怒りは、守りたい者を傷つけられたときに生まれる。
それは、ある意味、愛情の裏返しなのかもしれない。
「殿下、怒りを感じることは、悪いことではありません」
「はい」
「でも、怒りに任せて行動すると、危険です」
「分かっています」
「だから、怒りを感じたら、深呼吸をしてください。そして、冷静になるまで待つのです」
「深呼吸……」
ルーカスは、言われた通りにした。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
何度か繰り返すうちに、胸の熱さが少しずつ引いていった。
「どうですか」
「……落ち着いてきました」
「良かったです」
セラが、安堵の表情を浮かべた。
しかし、同時に、少し泣きそうな顔もしていた。
「セラさん?」
「いえ、何でも……」
「泣きそうな顔をしています」
「……すみません。殿下を怒らせるために、ひどいことを言ってしまって」
「練習ですから、仕方ありません」
「でも、自分が侮辱される設定を使ったのは、やりすぎました」
セラが、自分を責めている。
ルーカスは、その姿を見て、胸が痛くなった。
「セラさん、大丈夫です。僕は、セラさんを責めていません」
「でも……」
「むしろ、感謝しています。怒りという感情を、教えてくれたので」
「……」
「セラさんのおかげで、僕は少しずつ人間らしくなれています」
ルーカスが、真剣な目で言った。
セラが、少し目を潤ませた。
「殿下……」
「ありがとうございます、セラさん」
「……どういたしまして」
セラが、涙を拭いながら微笑んだ。
その笑顔を見て、ルーカスの胸が温かくなった。
* * *
その後、二人は怒りを制御する練習を続けた。
セラが挑発し、ルーカスが怒りを感じ、深呼吸で落ち着く。
その繰り返しだ。
「殿下、上達しています」
「ありがとうございます」
「怒りを感じても、すぐに冷静になれるようになりました」
「深呼吸が、効いているようです」
「良かったです」
セラが、満足そうに頷いた。
しかし、ルーカスは一つ気づいたことがあった。
怒りを感じるとき、自分の身体に変化が起きている。
体温が上がり、心拍数が増え、筋肉が緊張する。
それは、「自己修復」機能が活性化しているサインかもしれない。
「セラさん」
「はい」
「怒りを感じると、身体が変化するようです」
「変化……」
「はい。体温が上がり、心拍数が増えます」
「それは……」
「僕の『自己修復』機能が、反応しているのかもしれません」
セラの表情が、少し険しくなった。
「殿下、それは危険です」
「分かっています」
「怒りが、暴走のトリガーになる可能性があります」
「はい。だから、怒りを制御する方法を学んでいるのです」
「……」
セラが、考え込んでいる。
しばらくして、彼女は口を開いた。
「殿下、怒らないようにする方法も、考えましょう」
「怒らないように?」
「はい。怒りを感じても制御する、だけでなく、そもそも怒りを感じにくくする方法です」
「なるほど……」
「例えば、相手の言葉を真に受けない。挑発だと分かっていれば、怒りを感じにくくなります」
「挑発だと分かっていれば……」
それは、確かに有効かもしれない。
安全講習でのヴィンセントの質問も、挑発だと分かっていた。
だから、怒りよりも警戒心の方が強かった。
「やってみます」
「では、また挑発します。今度は、『これは練習だ』と意識してください」
「分かりました」
セラが、再び挑発の言葉を言った。
今度は、ルーカスは「これは練習だ」と意識しながら聞いた。
結果、怒りはほとんど感じなかった。
「どうですか」
「怒りを感じませんでした」
「良かったです。『相手の意図を理解する』ことで、怒りを予防できます」
「なるほど……」
ルーカスは、その方法を記憶に刻んだ。
挑発に対しては、怒りで反応しない。
相手の意図を理解し、冷静に対処する。
それが、怒りを制御する方法だ。
「殿下、今日の練習は、ここまでにしましょう」
「はい」
「お疲れ様でした」
「セラさんも」
二人は、訓練場を後にした。
夕日が、空を赤く染めている。
並んで歩きながら、ルーカスは今日学んだことを振り返っていた。
怒りという感情。
それは、守りたい者を傷つけられたときに生まれる。
しかし、怒りに任せて行動すると、危険だ。
だから、制御する方法を学ぶ必要がある。
深呼吸で落ち着く。
相手の意図を理解する。
挑発に乗らない。
これらの方法を、身につければ、怒りを制御できるようになるだろう。
そして、暴走のリスクも減らせる。
「セラさん」
「はい」
「ありがとうございました。今日も、たくさん学びました」
「どういたしまして」
「僕は、怒りを感じないと思っていました。でも、感じることができると分かりました」
「それは、人間として成長している証拠です」
「そうですか」
「はい。怒りを感じられるのは、大切な人がいるからです」
セラの言葉に、ルーカスは胸が熱くなった。
大切な人。
セラのことだ。
彼女を守りたいから、彼女を侮辱する者に怒りを感じた。
それは、人間として当然の感情なのだ。
「セラさんは、僕の大切な人です」
「……殿下」
「だから、セラさんを傷つける者には、怒りを感じます」
「……」
「でも、その怒りを制御します。セラさんを守るために」
ルーカスが、まっすぐにセラを見た。
セラの顔が、夕日の赤とは別の赤に染まった。
「……殿下は、本当に正直ですね」
「嘘が、苦手なので」
「分かっています」
セラが、小さく笑った。
その笑顔を見て、ルーカスの怒りは、完全に消えていた。
代わりに、胸に温かいものが広がっていた。




