第14話:夜のノイズ(寮編)と、初めての"怖い"
夜の寮は、静かだった。
いや、静かなはずだった。
ルーカスは、ベッドの上で目を開けていた。
眠れない。
夜になると、いつも眠れなくなる。
理由は、ノイズだ。
昼間は、様々な音が飛び交っている。
人々の話し声、足音、馬車の音、風の音。
それらが混ざり合って、一つの「騒がしさ」になる。
逆に言えば、個々の音を意識しなくて済む。
しかし、夜は違う。
静かになると、細かい音が際立ってくる。
そして、ルーカスの過敏な聴覚は、その一つ一つを拾い上げてしまう。
隣の部屋の生徒の寝息。
廊下を歩く夜回りの足音。
窓の外の虫の声。
遠くで鳴く犬の声。
そして、何より――
ドクン、ドクン、ドクン。
自分の心臓の音。
それが、やけにうるさい。
普通の人間は、自分の心臓の音をこれほど意識しないだろう。
しかし、ルーカスの聴覚は、それを「ノイズ」として処理してしまう。
「……うるさい」
ルーカスは、呟いた。
自分の心臓に向かって。
しかし、心臓は止まってくれない。
当然だ。
止まったら、死んでしまう。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓の音が、さらに大きくなった気がする。
気のせいかもしれない。
しかし、気になる。
気になると、もっと大きく聞こえる。
悪循環だ。
ルーカスは、枕で耳を塞いだ。
しかし、効果はなかった。
心臓の音は、体の中から聞こえてくる。
外を塞いでも、意味がない。
ドクン、ドクン、ドクン。
うるさい。
止まれ。
止まってくれ。
その思いが、どんどん強くなっていく。
同時に、胸の奥に、何か嫌な感覚が広がっていく。
冷たくて、重くて、息苦しい感覚。
これは、何だろう。
ルーカスは、その感覚に名前をつけられなかった。
しかし、それは確かに存在していた。
胸を締め付け、呼吸を乱し、体を硬くする。
不快な感覚だ。
――怖い。
その言葉が、ふと頭に浮かんだ。
怖い?
自分は、怖いのか?
何が怖いのだろう。
心臓の音が怖い?
いや、それは違う。
心臓の音は、ただのノイズだ。
怖いのは、別のものだ。
では、何が怖い?
分からない。
分からないから、余計に怖い。
原因が分からない恐怖。
それが、最も恐ろしいものなのかもしれない。
ルーカスは、ベッドから起き上がった。
このまま横になっていても、眠れそうにない。
少し、歩いてみよう。
気分転換になるかもしれない。
部屋を出て、廊下に出た。
深夜の廊下は、薄暗かった。
魔導灯が、低い光を放っている。
影が、長く伸びている。
ルーカスは、廊下を歩き始めた。
足音を立てないように、静かに。
夜の寮は、規則で外出禁止だ。
見つかると、面倒なことになる。
窓から、月の光が差し込んでいた。
銀色の光が、廊下を照らしている。
綺麗だ、と思う。
しかし、その綺麗さも、今は心を落ち着かせてくれなかった。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓の音は、まだうるさい。
歩いても、変わらない。
むしろ、体を動かしているせいで、少し速くなった気がする。
廊下の角を曲がったとき、誰かとぶつかりそうになった。
「っ!」
「きゃっ!」
お互いに、驚きの声を上げた。
相手を見ると、見覚えのある顔だった。
「セラさん……?」
「殿下……?」
セラだった。
彼女も、夜中に廊下をうろついていたようだ。
「なぜ、こんな時間に……」
「それは、こちらのセリフです。殿下こそ、なぜ」
「眠れなくて……」
「私も、です」
二人は、お互いを見つめた。
月明かりの中、セラの顔が見える。
彼女も、少し疲れているように見えた。
「セラさんは、何で眠れないのですか」
「……明日の訓練が気になって」
「訓練?」
「はい。模擬戦で優勝しましたが、まだ課題がたくさんあります」
「そうですか」
「殿下は? 何で眠れないのですか」
「……心臓の音が、うるさくて」
「心臓の音……?」
セラが、怪訝な顔をした。
そうだろう。
普通の人間は、自分の心臓の音をうるさいとは思わない。
「聴覚が、過敏になっているようです。自分の心臓の音が、とても大きく聞こえます」
「それは……辛いですね」
「はい。眠れません」
「……」
セラが、少し考え込んだ。
そして、口を開いた。
「殿下、少し、一緒にいませんか」
「一緒に……?」
「はい。一人でいると、余計に気になるでしょう。誰かと話していれば、気が紛れるかもしれません」
「……ありがとうございます」
ルーカスは、頷いた。
セラの提案は、ありがたかった。
一人でいるよりも、誰かと一緒の方がいい。
特に、セラと一緒なら。
* * *
二人は、寮の談話室に移動した。
深夜なので、誰もいない。
窓から月明かりが差し込み、部屋を柔らかく照らしていた。
「ここなら、見つかりにくいでしょう」
「はい」
二人で、ソファに座った。
少し離れて、でも近くに。
「殿下、心臓の音は、まだうるさいですか」
「……少し、マシになった気がします」
「良かったです」
セラが、微笑んだ。
その笑顔を見て、ルーカスの胸が少し軽くなった。
「セラさんがいると、落ち着きます」
「そうですか?」
「はい。なぜか、分かりませんが」
「……私も、殿下といると、落ち着きます」
「本当ですか」
「はい」
二人は、お互いを見つめた。
月明かりの中、時間がゆっくりと流れていた。
「殿下、一つ聞いてもいいですか」
「何ですか」
「さっき、『怖い』と言いましたか」
「……言いましたか?」
「はい。廊下で、小さく呟いていました」
ルーカスは、記憶を辿った。
確かに、部屋で「怖い」という言葉が浮かんだ。
しかし、口に出したかどうかは、分からない。
「たぶん、言ったかもしれません」
「何が、怖かったのですか」
「……分かりません」
「分からない?」
「はい。何が怖いのか、自分でも分からないのです」
ルーカスが正直に答えた。
セラが、少し心配そうな顔をした。
「殿下は、『怖い』という感情を、初めて感じたのですか」
「……たぶん」
「たぶん?」
「以前、監察官に見つめられたとき、似たような感覚がありました。でも、今夜ほど強くはありませんでした」
「そうですか……」
セラが、考え込んでいる。
しばらくして、彼女は口を開いた。
「殿下、『怖い』という感情は、誰にでもあります」
「そうなのですか」
「はい。私も、怖いことはたくさんあります」
「セラさんも?」
「はい。試験に落ちるのが怖い。大切な人を失うのが怖い。自分が弱いと思われるのが怖い」
「……」
「怖いと感じることは、悪いことではありません。人間として、当然のことです」
セラの言葉に、ルーカスは少し安心した。
怖いと感じることは、人間として当然。
では、自分は人間なのだ。
怖いと感じられる自分は、人間なのだ。
「殿下、怖いときは、誰かに話してください」
「話す……」
「はい。一人で抱え込まないでください。私は、いつでも聞きます」
「……ありがとうございます」
ルーカスの目から、涙がこぼれた。
また、涙だ。
しかし、今回は嬉しい涙だと分かった。
「殿下、泣いているのですか」
「はい。嬉しくて」
「嬉しい?」
「セラさんが、味方でいてくれて。話を聞いてくれて。嬉しいです」
ルーカスが、涙を拭いながら言った。
セラが、少し顔を赤くした。
「……殿下は、本当に正直ですね」
「嘘が、苦手なので」
「分かっています」
セラが、微笑んだ。
その笑顔を見て、ルーカスの心臓の音が、少し落ち着いた気がした。
「セラさん」
「はい」
「僕は、怖いものがあることを、初めて知りました」
「そうですか」
「でも、セラさんがいれば、怖くないです」
「……」
「セラさんがいると、安心します。怖いものも、怖くなくなります」
ルーカスが、まっすぐにセラを見た。
セラが、顔をさらに赤くした。
「殿下……それは……」
「何ですか」
「いえ、何でもありません」
セラが、そっぽを向いた。
耳まで赤くなっている。
ルーカスは、その反応の意味が分からなかったが、悪いことではない気がした。
セラと一緒にいると、怖くない。
それが、今夜分かった一番大切なことだった。
* * *
しばらく話をしているうちに、眠気がやってきた。
心臓の音も、気にならなくなっていた。
セラと話していたおかげだろう。
「殿下、そろそろ部屋に戻りましょう」
「はい」
「眠れそうですか」
「はい。大丈夫です」
「良かったです」
二人は、談話室を出た。
廊下を歩きながら、セラが言った。
「殿下、今夜のことは、秘密にしておきましょう」
「秘密……」
「はい。深夜に二人で会っていたと知れたら、噂になります」
「ああ、そうですね」
「だから、秘密です」
「分かりました。秘密にします」
ルーカスが頷いた。
セラも、頷いた。
それぞれの部屋の前で、二人は別れた。
「おやすみなさい、殿下」
「おやすみなさい、セラさん」
「良い夢を」
「セラさんも」
セラが、部屋に入っていった。
ルーカスも、自分の部屋に戻った。
ベッドに横になる。
今度は、心臓の音が気にならなかった。
代わりに、セラとの会話を思い出していた。
怖いという感情を、初めて感じた。
しかし、セラがいれば、怖くない。
それが、今夜学んだことだ。
「セラさん……」
ルーカスは、その名前を呟いた。
胸が、温かくなった。
この感覚の名前は、まだ分からない。
しかし、悪いものではないことは、確かだった。
目を閉じる。
今度は、すぐに眠りに落ちた。
夢の中では、セラが笑っていた。
それは、良い夢だった。




