第10話:噂「第三王子は鉄でできている」
学院に、奇妙な噂が広まり始めていた。
「聞いた? 第三王子のこと」
「ああ、鉄でできてるって噂?」
「本当かな。でも、確かに変なところあるよね」
「入学式で、机に頭をぶつけても平気だったし」
「剣術の授業で、木剣を何本も砕いたって」
「魔法の授業では、机が勝手に動いたらしい」
廊下を歩くたびに、囁き声が聞こえてくる。
ルーカスの聴覚は、その一つ一つを拾い上げていた。
不快ではあるが、否定することもできない。
すべて、事実だからだ。
「殿下、あまり気にしないでください」
隣を歩くセラが、小声で言った。
ルーカスは、小さく頷いた。
「気にしていません。事実ですから」
「でも、『鉄でできている』は言い過ぎです」
「確かに。鉄ではありません。正確には……」
「殿下!」
セラが、慌ててルーカスの言葉を遮った。
ルーカスは、首を傾げた。
「何ですか」
「自分で噂を広めないでください」
「広めていませんが」
「今、何か言いかけていましたよね。『正確には何々』と」
「ああ、はい。正確には、鉄ではなく――」
「言わないでください!」
セラが、必死の形相で言った。
ルーカスは、ようやく理解した。
ああ、自分で噂を補強するところだったのか。
「すみません。黙ります」
「お願いします……」
セラが、深くため息をついた。
ルーカスは、申し訳なく思った。
どうやら、自分は噂の扱いが下手らしい。
* * *
昼食の時間。
食堂で、ルーカスとセラは向かい合って座っていた。
周囲の視線が、いつもより多い気がする。
噂のせいだろう。
「殿下、食べないのですか」
「食べます。ただ、視線が気になって」
「無視してください。食事に集中しましょう」
「はい」
ルーカスは、スープを口に運んだ。
温度が高い。
しかし、熱いとは感じない。
皮膚の耐熱化が、相変わらず進んでいる。
「殿下、そのスープ、熱くないのですか」
「はい。適温です」
「……湯気がすごいですけど」
「そうですね」
この会話は、もう何度も繰り返している。
セラも、諦めたようにスープに視線を落とした。
そのとき、誰かが近づいてきた。
振り返ると、数人の生徒が立っていた。
見覚えのない顔だ。
おそらく、他のクラスの生徒だろう。
「第三王子殿下ですよね?」
先頭の生徒が、興味津々の顔で言った。
茶色の髪に、そばかすのある少年だ。
「はい。何か用ですか」
「あの、本当に鉄でできてるんですか?」
直球の質問だった。
ルーカスは、少し考えてから答えた。
「鉄ではありません」
「じゃあ、何でできてるんですか?」
「肉と骨です。普通の人間と同じです」
「でも、普通の人間は、机に頭をぶつけても平気じゃないですよ」
「それは……」
ルーカスは、言葉に詰まった。
確かに、普通ではない。
しかし、どう説明すればいいのか分からない。
「殿下は、体が丈夫なだけです」
セラが、横から助け船を出した。
生徒たちが、セラに視線を向けた。
「丈夫って、どれくらい?」
「普通より少し丈夫なだけです。騒ぐほどのことではありません」
「でも、魔法の授業で机が動いたって……」
「それは、魔力の制御ミスです。初心者にはよくあることです」
セラが、きっぱりと言った。
その言葉に、生徒たちは少し引いた。
「そ、そうですか……」
「はい。他に質問は?」
「い、いえ、ありません。失礼しました」
生徒たちが、足早に去っていった。
ルーカスは、セラに感謝の目を向けた。
「ありがとうございます、セラさん」
「いいえ。ただ、殿下、自分で否定することも覚えてください」
「否定……」
「はい。噂を広めないためには、適切に否定することが大切です」
「適切に否定……難しいですね」
「練習しましょう」
セラが、真剣な顔で言った。
ルーカスは頷いた。
* * *
午後の授業が終わり、ルーカスは廊下を歩いていた。
セラは、騎士科の用事で離れている。
一人で歩くのは、久しぶりだった。
廊下の向こうから、生徒たちがやってきた。
彼らは、ルーカスを見つけると、何かを囁き合った。
そして、一人がルーカスに近づいてきた。
「殿下、質問があるのですが」
「何ですか」
「本当に、熱湯を飲んでも平気なんですか?」
「……誰から聞きましたか」
「食堂で、スープをすごい勢いで飲んでたって聞いて」
「すごい勢いでは飲んでいません。普通に飲んでいました」
「でも、熱くなかったんですよね?」
「……それは」
ルーカスは、言葉に詰まった。
熱くなかったのは事実だ。
しかし、それを認めると、噂を肯定することになる。
「熱かったです」
「え?」
「熱かったので、ゆっくり飲みました」
ルーカスは、嘘をついた。
嘘をつくのは苦手だが、セラに言われた「適切に否定する」を実践しようとしたのだ。
「でも、全然顔に出てなかったって……」
「我慢していました」
「我慢……」
生徒が、怪訝な顔をしている。
信じていない様子だった。
ルーカスの嘘は、あまり上手くないらしい。
「まあ、いいです。ありがとうございました」
生徒が、去っていった。
ルーカスは、小さくため息をついた。
否定するのは、難しい。
* * *
その後も、何人かの生徒に質問された。
「木剣を砕いたのは本当か」
「机が動いたのは本当か」
「怪我をしても痛くないのか」
ルーカスは、その一つ一つを否定しようとした。
しかし、上手くいかない。
嘘をつくのが下手だからだ。
「砕いたのは本当ですが、力の入れすぎでした」
「机が動いたのは、魔力の暴発です」
「痛くないわけではありません。感じにくいだけです」
否定しているつもりが、むしろ肯定しているようになっている。
これでは、噂が広まるのも無理はない。
夕方、セラと合流したとき、ルーカスは疲れ切っていた。
「殿下、どうしました。顔色が悪いですが」
「噂を否定しようとしたのですが、逆効果だったようです」
「逆効果……」
「はい。否定しているつもりが、肯定していたみたいです」
セラが、呆れたようにため息をついた。
「殿下、何と言ったのですか」
「『砕いたのは本当ですが、力の入れすぎでした』とか……」
「それは否定になっていません」
「そうですか」
「はい。『砕いたのは本当』と認めた時点で、否定ではありません」
「なるほど……難しいですね」
ルーカスが、しょんぼりと肩を落とした。
セラが、複雑な表情を浮かべた。
「殿下、正直すぎるのです」
「正直がダメなのですか」
「ダメではありません。でも、時と場合によっては、曖昧にすることも必要です」
「曖昧に……」
「はい。すべてを正直に答える必要はありません。『覚えていない』『よく分からない』と言うこともできます」
「嘘をつかなくても、否定できる……ということですか」
「そうです」
セラの説明に、ルーカスは目を輝かせた。
それは、良い方法だ。
嘘は苦手だが、「分からない」なら言える。
「やってみます。次に質問されたら、『よく分からない』と答えます」
「それがいいです」
セラが、少し微笑んだ。
ルーカスも、微笑み返した。
* * *
翌日、早速チャンスがやってきた。
廊下で、見知らぬ生徒に話しかけられたのだ。
「殿下、本当に鉄でできてるんですか?」
またこの質問だ。
ルーカスは、昨日セラに教わったことを思い出した。
曖昧に答える。
「よく分かりません」
「分からない?」
「はい。自分の体が何でできているか、考えたことがなかったので」
「でも、普通の人間なら、肉と骨ですよね?」
「たぶん、そうだと思います」
「たぶん……」
生徒が、困惑した顔をしている。
ルーカスは、これでいいのか分からなかった。
否定になっているのだろうか。
「あの、殿下、もしかして、自分が何でできてるか本当に分からないんですか?」
「はい。分かりません」
「……」
生徒が、絶句した。
そして、何も言わずに去っていった。
ルーカスは、首を傾げた。
上手くいったのだろうか。
分からない。
後でセラに報告すると、彼女は頭を抱えた。
「殿下……」
「どうでしたか。曖昧に答えられましたか」
「曖昧すぎます」
「曖昧すぎる?」
「はい。『よく分からない』の使い方が違います」
「どう違うのですか」
「殿下の答え方だと、『本当に分からない=普通じゃない』と解釈されます」
「あ……」
ルーカスは、ようやく理解した。
「自分が何でできているか分からない」というのは、普通の人間なら言わないセリフだ。
普通の人間は、自分が肉と骨でできていると知っている。
それを「分からない」と言うのは、自分が普通ではないと言っているようなものだ。
「すみません。失敗しました」
「いえ……殿下が悪いわけではありません。私の説明が悪かったのです」
「セラさんの説明は、分かりやすかったです」
「でも、実践では上手くいきませんでした。もっと具体的に、何と言えばいいか教えるべきでした」
セラが、反省している様子だった。
ルーカスは、申し訳なく思った。
「セラさん、僕のために時間を使わせてすみません」
「謝らないでください。これは、私の仕事です」
「仕事……」
「はい。監督役として、殿下を守るのが私の仕事です。噂から守ることも、含まれます」
セラが、真剣な顔で言った。
ルーカスは、その言葉に胸が温かくなった。
「ありがとうございます、セラさん」
「だから、礼は……」
「いいえ。言わせてください。セラさんがいてくれて、本当に嬉しいです」
ルーカスが、まっすぐにセラを見た。
セラが、少し顔を赤くした。
「……どういたしまして」
その一言に、ルーカスは笑顔になった。
* * *
数日後、噂は学院全体に広まっていた。
「第三王子は鉄でできている」
「熱湯を飲んでも平気」
「木剣を素手で砕く」
「魔力で机を動かす」
すべて、尾ひれがついて大きくなっている。
「これは、まずいですね」
セラが、深刻な顔で言った。
ルーカスも、頷いた。
「はい。教会の監察官に、報告されるかもしれません」
「すでに、報告されているかもしれません」
「そうですね……」
二人は、中庭のベンチに座っていた。
周囲には、誰もいない。
噂話をするには、都合の良い場所だった。
「殿下、一つ提案があります」
「何ですか」
「噂を、逆手に取りましょう」
「逆手に取る?」
「はい。噂を否定するのではなく、笑い話にするのです」
セラの提案に、ルーカスは首を傾げた。
笑い話にする。
それは、どういうことだろう。
「例えば、『鉄でできている』という噂に対して、『では、磁石に引っ付くか試してみましょうか』と冗談を言うのです」
「冗談……」
「はい。深刻に否定するのではなく、冗談として笑い飛ばす。そうすれば、噂も『冗談の一種』として扱われます」
「なるほど……」
ルーカスは、その提案を考えた。
冗談を言う。
それは、難しい。
しかし、試してみる価値はある。
「やってみます」
「頑張ってください。私も、手伝います」
セラが、微笑んだ。
ルーカスも、微笑み返した。
* * *
翌日、早速チャンスがやってきた。
廊下で、生徒の集団に囲まれたのだ。
「殿下、本当に鉄でできてるんですか?」
また、この質問だ。
ルーカスは、深呼吸した。
冗談を言う。
笑い話にする。
「鉄ですか……では、磁石を持ってきてください。引っ付くかどうか、試してみましょう」
ルーカスが、真顔で言った。
生徒たちが、一瞬沈黙した。
そして、誰かが吹き出した。
「磁石って……殿下、面白いですね」
「いや、本気で言ってるのかも……」
「どっちにしても、笑えるな」
生徒たちが、笑い始めた。
噂を否定したわけではない。
しかし、深刻な雰囲気は消えた。
「殿下、もしかして、冗談ですか?」
「どうでしょうか」
ルーカスが、曖昧に笑った。
その笑顔が、少しぎこちなかったが、生徒たちは気にしなかった。
「殿下、意外と面白い方なんですね」
「そうですか?」
「はい。噂で、怖い人かと思ってました」
「怖くはないです。たぶん」
ルーカスが答えた。
生徒たちが、また笑った。
「『たぶん』って何ですか」
「自分のことは、よく分からないので」
「殿下、変わってますね」
「よく言われます」
会話が、和やかに進んでいった。
噂の「第三王子は怖い」というイメージが、少し和らいだ気がした。
生徒たちが去った後、セラが近づいてきた。
隠れて見ていたのだ。
「殿下、上手くいきましたね」
「そうですか?」
「はい。冗談も言えていましたし、笑顔も良かったです」
「ありがとうございます。セラさんのアドバイスのおかげです」
「いいえ。殿下の努力の成果です」
セラが、微笑んだ。
ルーカスは、その笑顔を見て、胸が温かくなった。
噂は、まだ消えていない。
しかし、「怖い」から「面白い」に変わりつつある。
それは、大きな進歩だった。
「セラさん」
「はい」
「僕、少しずつ、人間らしくなれている気がします」
「……はい。私もそう思います」
「ありがとうございます。セラさんがいてくれるおかげです」
「殿下……」
セラが、少し顔を赤くした。
ルーカスは、その反応の意味が分からなかったが、悪いことではない気がした。
空には、青い空が広がっていた。
雲が、ゆっくりと流れていく。
平和な午後だった。
噂との戦いは、まだ続く。
しかし、一人ではない。
セラがいてくれる。
それだけで、前に進む勇気が湧いてくる。
ルーカスは、空を見上げながら、小さく笑った。
今度は、自然な笑顔だった。




