第六章 変化
事件から一週間が経った。
校門をくぐると、いつもと変わらない朝の風景が広がっている。
昇降口のざわめき、廊下を走る足音、誰かの笑い声。世界は、何事もなかったかのように動いていた。
けれど、僕たちは知っている。
あの日、確かに何かが壊れたことを。
教室に入って、最初に目に入ったのは埋まった席だった。
「……おはよう」
日下部春乃が、そこに座っていた。
少し痩せたように見えたが、背筋は伸びている。机の上には、いつものノート。
教室の空気が、一瞬だけ静まった。
「おはよう……」
神田が、慎重に声をかける。
日下部は小さく微笑んだ。
それは以前と同じようで、どこか違う笑顔だった。
無理をしているわけではない。ただ、自分の感情を確かめるような、慎重な表情。
「心配かけて、ごめんね」
それだけ言って、彼女は視線をノートに落とした。
誰も、それ以上踏み込まなかった。
昼休み。
以前なら、誰かが怖い話を始めていた時間。
「……今日はやめとくか」
森がぽつりと言う。
「だな」
僕も短く答えた。
沈黙は気まずくなかった。
むしろ、今の僕たちには必要な間だった。
日下部は窓際で、外を眺めている。
風に揺れる木々の影が、ガラス越しに教室へ落ちる。
彼女は一瞬だけそれに目を向け、すぐに視線を逸らした。
それでも、逃げなかった。
放課後、校舎を出るとき。
日下部が、少しだけ足を止めた。
「……ねえ」
夕焼けの中で、彼女は立っていた。
あの日と同じ色の空。でも、違う時間。
「私ね、まだ怖いよ」
正直な声だった。
「夜になると、思い出すし……影を見ると、ドキッとする」
神田が言葉を探し、森が目を伏せる。
僕は一歩前に出た。
「それでいいと思う」
自然と、そう口にしていた。
「怖かったことを、なかったことにしなくていい」
日下部は少し考えてから、ゆっくり頷く。
「……忘れなくていいって思えたら、少し楽になった」
ハカセが静かに言った。
「恐怖は消せません。でも、共有することはできます」
日下部は、ふっと息を吐いた。
ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。
帰り道。
街灯の下で、影は確かに伸びていた。電柱の影、建物の影、そして僕たち自身の影。
でもそれは、もう“何かが潜んでいる影”ではなかった。
ただ、光があるから生まれるものだった。
「また明日」
日下部が言う。
「うん、また明日」
僕たちは答える。
世界は完全には元に戻らない。
人の心に落ちた影も、消えない。
それでも――
影があるということは、光があるということだ。
誰かに見られている気配を、ふと思い出す夜は、きっとこれからもある。
それでも僕たちは歩いていく。
今度は、一人じゃない。
影は、確かに残っている。
けれどもう、それに押しつぶされることはない。




