第五章 結末
橋本の家へ向かう道は、日下部の家から本当に近かった。走っているうちに息が乱れる。
胸の奥がざわつき、嫌な予感だけが加速していく。
「……近すぎだろ」
森が吐き捨てるように言った。
「偶然とは思えませんね」
ハカセの声は落ち着いているが、歩調は早い。住宅街の角を曲がると、すぐにそれは見えた。
「ここだ……」
僕は足を止めた。橋本の家。転校初日に、本人から聞いた住所と一致している。
「……静かすぎない?」
神田が小さくつぶやく。確かに、周囲の家からはテレビの音や話し声が漏れているのに、この建物だけが切り取られたように静まり返っていた。
「まずは、インターホンだ」
森が前に出る。だが、ボタンを押す前に、ハカセが腕を伸ばして制した。
「待ってください」
「……どうした?」
「玄関、見てください」
ドアの前。靴が一足、きちんと揃えられている。外出中にしては、不自然なほど整っていた。
「……いる、ってことか?」
森は緊張した様子で、再びインターホンを押した。
――反応はない。もう一度押す。沈黙。
「留守……じゃないよな」
僕はドアノブに手をかける。
――開いている。
「……また、かよ」
森が顔をしかめる。二日前の出来事がフラッシュバックする。
玄関を開けた瞬間、鼻をつく匂いがした。生臭さ……というより、閉め切った空間の湿った匂いに、かすかな埃と金属のような香りが混ざっている。
「入ろう」
胸が押し潰されそうだ。もしここに日下部が……いや、何もいないかもしれない。
でも、入らなければ何も分からない。返事を待たず、僕は中へ足を踏み入れた。
室内は深い闇に包まれている。カーテンの隙間から、斜めに差し込む夕日の光が床に不気味な模様を描く。その形は……まるで人が立っているかのようだ。
「……足音、立てるなよ」
一歩、また一歩。軋む床の音が、静まり返った部屋に響く。心臓の鼓動と重なり、息を飲むたびに恐怖が押し寄せる。
日下部の家と違い、生活感はある。靴も揃っているし、テーブルの上には飲みかけのペットボトルもあった。
だが、違和感は――視線だった。
「……見られてる」
神田が腕を抱える。
視線の正体はすぐに分かった。壁一面に貼られた、写真。
日下部春乃だった。
「……は?」
一瞬、言葉が出なかった。
登校中の後ろ姿。
部活中の横顔。
教室で笑っている瞬間。
どれも、こちらを向いていない。盗撮だ。
「……これは……」
ハカセの声が低くなる。
写真の下には、メモが貼られていた。
――
笑うと、世界が壊れる
だから、僕が守る
誰にも見せない
――
その文面を見た瞬間、僕の脳裏に昼休みの“怖い話”がよみがえった。
あの詩。
――愛してる
――だから壊す
「……まさか」
森が呻く。
「橋本の話……あれ、自分の話だったのか」
そのとき。
――ギィ……。
二階から、床がきしむ音がした。
「……いる」
全員が同時に息を止める。
階段の上から、声が落ちてきた。
「……なんで、来たんですか」
姿は見えない。だが、その声は穏やかで、どこか満足そうだった。
「言ったでしょう。怖い話、得意だって」
――ギシ……。
一段、足音が近づく。
「日下部さんも、最初は怖がってましたよ。でも――」
声が、少し歪む。
「僕の気持ちを理解してくれた」
「……春乃!」
神田が叫ぶ。
短い沈黙のあと、橋本は答えた。
「……静かにしてもらえます?」
その声には、明確な苛立ちが混じっていた。
階段の影が、ゆっくりと動いた。
それはもう、演出された影ではなかった。
本物の人間が落とす、逃げ場のない影だった。
橋本が一歩前に出るたび、空気が重く、心臓が胸を打つ音だけが響く。
呼吸をするたび、喉の奥がひりつき、汗が背中を滑った。
「日下部は……オレのものだ」
その声は低く、耳元でずっとささやかれるように響く。
日下部の瞳が揺れ、涙が滲んでいる。肩が小刻みに震え、拳を握る手に力が入りすぎて白くなっている。
橋本がゆっくり近づく。
「動くな」
指先に握られたものは、日下部の小物。
髪留め、ノート、筆箱――どれも橋本の手で愛おしそうに弄られ、まるで彼女の存在そのものを確認するかのようだ。
息を詰め、視線をそらせずに立つ僕たち。神田は小さく震えている。
床の軋む音、かすかに揺れるカーテン、外から差し込む赤い光
――そのすべてが、異様な緊張を加速させる。
橋本が一瞬止まる。視線が日下部から僕たちに移る。
「君たちは……邪魔だ」
その瞬間、空気が鋭く裂けたように痛む。僕の心臓が跳ね上がる。
日下部が小さく後ずさる。橋本の手が伸びる――
その指先はほんの数センチの距離で止まり、空気を切る音だけが聞こえたように錯覚する。
僕は息を止める。神田も固まったまま。
森は震えた手で拳を握りしめ、光の差す床に目を落とす。
影が伸び、揺れ、壁の模様と混ざり合う。居間はまるで異空間のようだ。
橋本が深く息をつき、包みを床に置く。その中には、日下部の私物が整然と並んでいる。
「オレは……失いたくないんだ」
その声は静かだが、狂気が底から滲み出る。視線が鋭く、じっと僕たちを射抜く。
数分――いや、数秒が何時間にも感じられる。
僕は手を伸ばしたいが、指先が床に貼り付いたように動かない。
――助けに来たはずなのに、立っているだけだ。
神田が小さく息を吐く。床に落ちる影が、まるで橋本の意思を持つかのように伸び縮みする。
床のきしむ音、金属音、息遣い――すべてが拡大され、僕たちの神経を切り裂く。
そして、居間に静寂が訪れた瞬間、誰もが理解する――
ここには、計算された狂気と恐怖しかない。
息を殺して立ち尽くす僕たちの前で、橋本の影が夕日の中で揺れ、日下部の瞳に映る。
時間は止まり、心臓の鼓動だけが、残酷な刻を刻む――
数分間の地獄は、まだ終わらない。
「……もう、耐えられないよな」
橋本の声が低く、だが確実に迫る。日下部の肩が小さく跳ね、拳がぎゅっと固まる。
突然、玄関のドアが大きく揺れた。
「……誰だ!」
警察が一気に踏み込み、声と光が流れ込む。
「動くな!警察だ!」
サイレンの音、靴音、声――これまでの静寂が、破裂する。
橋本の影が一瞬、床に溶けるように揺れ、次の瞬間には固まった。
「……待ってくれ、説明する!」
その声は震えていたが、説得力はない。手錠がカチャリと音を立て、橋本の抵抗はそこで終わった。
「あんたが……どうして?」
神田の涙が光を反射する。
橋本はうつむき、答えない。ただ、唇だけが微かに動き、意味深な呟きが漏れた。
「……全部、計画通りだった……」
あなたが笑うと
世界が私を押しつぶす
だから私は
その笑顔を
独り占めにする
寝ても覚めても
あなたの影を追い
指先で記憶をなぞる
誰にも渡さない
誰にも見せない
あなたは
私だけのもの
声が聞こえなくても
匂いが消えても
私の心は
あなたを見張っている
逃げようとするなら
夢の中ででも
私はあなたを抱きしめ
決して離さない
愛してる
だから壊す
壊したら
永遠に
一緒にいられる
「……橋本……」
僕は日下部のそばに駆け寄り、ブレザーを彼女の肩にかけた。
事件は終わった。
だが、僕たちの心には、計画的な悪意が潜む人間の怖さが、深く刻まれたままだった。
沈みゆく夕日は、橋本の存在とその計画の影を、最後まで赤く映し出していた
――そしてその赤い影は、夜の闇の中で、静かに蠢き続けるかのようだった。
――気づかぬうちに、誰かがまた見ている。影は、完全には消えていない。




