第二章 影
放課後のチャイムが鳴ると同時に、教室は一気に騒がしくなった。
帰り支度をするやつ、机に突っ伏して動かないやつ。いつもと変わらない光景だ。
「で、行くんだよな?日下部の家」
森が鞄を肩にかけながら言った。
「様子を見るだけだからな。変なこと言うなよ」
「はいはい」
森は軽い調子で返事をしたが、内心では少し緊張しているようだった。
「しかし、ハカセも来るなんて意外だな」
ハカセのほうを振り向きながら森が話を続けた。
「もし事件なら、僕たちで解決すれば内申点上がるかもしれませんからね」
「むしろ事件に首を突っ込む変なやつって思われないか?」
「ねぇ!橋本は来ないの?」
僕たちの後ろを歩いていた神田が恐る恐る尋ねた。
「引っ越してきたばかりだから、田中先生と進路相談があるって言ってました」
「怖かったら、帰ってもいいんだぜ」
「こ、怖くないもん!」
緊張感のない話が聞こえていた。僕は三人の会話を静かに聞きながら、日下部の家へと歩みを進めた。
日下部の家は学校から歩いて十分もかからない。何度も前を通ったことがあるし、迷うこともない。
西日に照らされた住宅街は、昼間の暑さが嘘みたいに静かだった。
神田は僕の少し後ろを歩きながら、やたらと周囲を気にしている。
「ねぇ……いつもより……静かじゃない?」
言われてみれば、確かに音が少なかった。遠くで車のエンジン音が聞こえるだけで、人の気配が薄い。
いつもと違う街並みに違和感を感じながらゆっくりと歩みを進める。
「着いたぞ」
僕は歩みをやめ、後ろからついてきていた三人に告げた。日下部の家の前に着いたとき、まず気がついたのは明かりがついていないことだった。
二階建てのごく普通の家。カーテンは閉まっているが、完全に遮光しているわけではない。
「暗いね。留守かな?」
「風邪なんだろ。寝てるだけじゃね?」
森がそう言ってインターホンを押そうとした瞬間、ハカセが制した。
「待ってください」
「どうした?」
「……郵便受け、見てください」
郵便受けには、新聞とチラシがぎっしりと詰まっていた。一日二日分じゃない。
無理やり押し込まれた紙が、今にもこぼれ落ちそうになっている。
「一週間……って、これくらい?」
神田の声が少し震えていた。僕たちは互いに見合い、首をかしげる。
森が今度こそインターホンを押す。電子音が一度鳴り、沈黙が返ってきた。
もう一度押す。それでも返事はない。
「……やっぱり、誰もいないみたいだな」
森が声をひそめた。僕も同意する。
「少し入ってみますか……?」
ハカセは落ち着いた声で言った。
「え!入るの!やめたほうがいいよ!」
神田は震えた声で僕たちを止めようと必死だ。
「大丈夫。ちょっと様子を見に行くだけだ。」
このまま帰ったら、後悔する気がした。僕は鞄を肩にかけ、玄関のドアに手をかける。
冷たい金属の感触が手に伝わる。鍵は開いていた。
「……え?」
神田が小さな声を漏らす。
「居留守じゃないってことか?」
森も顔をしかめる。
ドアを押すと、かすかな軋む音が響いた。中は薄暗く、夕日の光が床に斑点のように落ちている。
家具の影が不自然に長く伸び、まるで誰かがそこに立っているように見えた。
「……やっぱり、誰もいないよね?」
神田が身を縮める。
「……うん、でも……なんか変だ」
僕も声を落とす。心臓の鼓動が早まるのを感じた。
階段を一段ずつ慎重に上がる。二階の窓のカーテンの隙間に、何か人影が見えた気がした。
誰もいない。だが、影は確かに人の形をしていた。
「……見間違いですよ?」
ハカセが冷静に言う。
「いや、あれは……」
森が顔を青ざめさせ、言葉を詰まらせる。
二階の廊下を進むと、かすかに低い囁き声が聞こえた。
「……春乃?私……美咲だよ。出てきて」
神田の声がかすれる。誰も返事をしない。だが、足元の影が微かに動いた気がした。
光の角度がわずかに変わるたび、影は一瞬、人の形になる。
「……やばい、逃げよう」
森が後ずさりする。
「ちょ、待て!落ち着け!」
僕は声を張り上げるが、喉が乾き、震えが止まらない。そのとき、郵便受けの中からカサカサと音がした。窓から外を見ると、新聞の上に置かれたチラシが、赤黒く染まっているように見えた。
血――ではない。けれど、見間違えではない。確かに赤い。
「……な、何あれ……?」
神田が声を震わせる。
「……帰ろう」
森が完全に顔を背けた。
ハカセだけが動かず、影の方向をじっと見つめている。冷静だ。だがその瞳は、普段の冷静さとは違う恐怖で光っていた。
翌日の放課後、僕たちは誰からともなく口を閉ざしていた。
昨日の出来事を担任に話す勇気はなかったし、警察なんてもってのほかだ。
鍵の開いた家に勝手に入り、二階まで上がった。どう考えても褒められる行為ではない。
「……日下部、今日も来てないよな」
森がぽつりと呟く。教室の一番後ろ、彼女の席は相変わらず空白のままだった。
「田中は、今日も“風邪”って言ってたよな」
「一週間以上続く風邪って、なによそれ……」
神田は自分の腕をさすりながら、昨日見た影のことを思い出しているようだった。
ハカセは何も言わず、ノートに何かを書き込んでいる。
覗き込むと、そこには箇条書きが並んでいた。
・郵便物が一週間分溜まっていた
・家に生活音がない
・鍵が開いていた
・影の位置と光源が一致しない
「……お前、それどういう意味だよ」
森が顔を引きつらせる。
『ギシ……ギシ……』背後で椅子が軋む音がした。全員が一斉に振り向く。
そこに立っていたのは、田中だった。
「ミナサン、ホウカゴニナッタラ、スグカエリマショウ」
相変わらず抑揚のない声。だが、僕は気づいてしまった。
田中の視線が、日下部の空席から一度も離れていないことに。
「やっぱさ……どう考えても田中だよね。怪しいの……」
神田の覇気のない言葉に返事をするものはいなかった。
僕たちは、校舎を背にゆっくりと歩いていた。時間だけが過ぎていく。
「このあとどうするよ?」
沈黙を破ったのは森だった。
「気になる点は二つあります。一つは日下部さんの家の影」
「もう一つは、田中だ」
僕は、ハカセのあとに続けて言う。
「明日からは二チームに分かれて調査しますか?僕は家の影について調べてみます」
「わかった。なら僕は、田中を探ってみるよ。森と神田はどうする?」
あの時の田中は明らかにおかしかった。僕たちを早く帰宅させようとしていたし、日下部の机をずっと見ていたのも気になる。だから田中のことを調べたかった。
「私も田中を調べようかな」
「なら俺は、影か。神田は家の影が怖いもんな」
「べ、別に怖くなんかないし」
「じゃあ明日は僕と神田で田中を。森とハカセで影の調査ってことで」
明日の予定が決まったところで、それぞれが帰路に就く。




