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小説の面白さ

 小説の面白さとは一つには、作者の立場から批判的な人物もまた小説内部においては肯定的に書かれざるを得ないという事にある。

 

 これはどういう事かと言うと、当然、作者も一人の人間であり、社会的に存在しているのだから、何らかの社会的立場が存在している。何らかの思想とか、党派に彼も与しているわけだが、作家という立場からすると、彼は否定したい人物も作中ではまた一人の人間として魅力的に描かなければならない。

 

 この事はそれほど難しい事はない。例えば、私はネトウヨが嫌いだが、もし私が作中にネトウヨを登場させるとなると、私は少なくともネトウヨを一人の人間として描かなけばならない。

 

 この事は彼が知性的に劣っているという事とは少しく事情が違っている。確かに、こうした人物、別にネトウヨに限らずどのような党派でもいいが、こうした人物がネット中につまらない意見を書きなぐっている、その意見そのものはくだらないものではあろう。

 

 だが、彼が一人の人間として生きているという事を作家は認めなければならない。これは世界をフラットに見るという事である。

 

 つまらない人間はつまらないなりに自分の生を生きており、その事自体は全くつまらない事ではない。

 

 この証左として考えられるのが、どれほどつまらない、くだらない人間でもその人間が死んでしまえば、そこには何か厳粛なものが現れるという事だ。

 

 軽薄で、嘘つきで、犯罪者で、親族からも(とっとと死んでくれ)と思われるような人物、そうした人物が本当に死んだら、まわりはほっとするだろうが、しか彼の死に様、また彼の死体そのものには一人の人間の死という厳粛な事実が現れる。

 

 この矛盾はどこから来るかというと、一人の人間が生きているという事実と、彼がそれを言動として表しているものとは必ずしも一致しないという事から来ている。

 

 偉大な作家、哲学者はこれとは反対で、彼らが表現するものはほとんど彼らの生を越えている。ある意味、彼らが死んでも、彼らの作品という"本体"が残される。しかし普通の人間はそうではない。

 

 誰しもが表現に長けているわけではない。一人の人間が生きているというその全事実を人は普段意識せずに生きている。

 

 例えば、生物学的には、どれほどくだらない人間でも、人類という種が生まれ出るまでの膨大な進化の時間が一人の人間の中には眠っている。どれほどくだらない人間でも、その身体機能に生物学者が目を向ければ、その高性能な事に驚くだろう。もちろん、こうした人間はそうした自己自身を知らない。

 

 ※

 一人の人間はとにもかくにも生きているのであり、そこにはそれなりの存在感がある。こうした人間を作家は描かなければならない。

 

 一例としてはトルストイの「アンナ・カレーニナ」が思い浮かぶ。

 

 「アンナ・カレーニナ」は、キチイ・リョーヴィンというカップルと、ヴロンスキー・アンナというカップルが対になっている小説だ。

 

 作者のトルストイはリョーヴィンに近い存在として描かれている。作者が肯定したいのは田舎で静かに暮すキチイとリョーヴィンの二人である。一方、都会で不倫・恋愛・様々な遊びにうつつを抜かしているヴロンスキーとアンナの二人は本来、トルストイが否定したい人達だ。

 

 しかし、「アンナ・カレーニナ」という作品が素晴らしいのは、アンナという人物が素晴らしく魅力的に描かれているという事だ。彼女がいきいきとした魅力的な人物として描かれている。ここにトルストイの作家としての力量がある。

 

 この力量の出処はどこかと言えば、そもそもトルストイ自身が矛盾した人物であるからだ。トルストイは、聖なるもの、キリスト的な献身に憧れを持ちつつも、世俗的な欲望をたっぷり持つ人間だった。

 

 トルストイはそのような葛藤・矛盾を自己に抱えていたからこそ、自分が否定しようとする人物を魅力的に描けたのだった。アンナのように自己の欲望に従って生きる、そうした生き方もトルストイの中にあるものだった。アンナもヴロンスキーもトルストイの分身である。

 

 偉大な作家は自らの中に巨大な葛藤を抱え、それをそれぞれの作中人物に託して、いきいきとした人物を作り出す。偉大な作家の描く作品の人物がいきいきとしているのは、それらが皆、彼の胸から出てきたものだからだ。

 

 ※

 これと反対のものとして思い浮かぶのは、私がよく悪い小説の例としてあげる川上弘美の「センセイの鞄」だ。

 

 「センセイの鞄」という小説はセンセイという初老の男性に中年女性が恋をする話だ。センセイというキャラクターが作品のキーとなるのだが、私にはセンセイは、川上弘美本人の(こういう年上の男性が好み)という願望しか感じなかった。


 また、センセイというキャラクターに実在性がない。センセイというキャラクターに実在性がなく、魅力がないのは、作者自身が、中学生や高校生の時に誰しもが夢想するような異性に対する錯覚、それから逃れていないからだろう。


 誰しも人生を生きていれば、人間というのが非常にめんどくさい存在だというのがわかってくる。しかしこのセンセイからはそのめんどくささが省かれている。何故省かれているかと言えば、それを描いてしまうと作者の好みから外れてしまうからだろう。これはアイドルファンがアイドルを実際以上に単純に考えたがるのと似ている。

 

 また、「センセイの鞄」にはガラの悪い肉体労働者が出てくるが、これが本当にガラの悪い肉体労働者といった感じでしか出てこない。人物に対する何の洞察もない。一方でセンセイは植物的な、おとなしい男性なので、そちらの方が作者の好みなのだろう。

 

 「センセイの鞄」という作品を通して私が感じたのは作者の「好み」でしかなかった。私は他人の好みに興味はないし、そんなものはどうでもいい。

 

 それではトルストイは好みなのか。ドストエフスキーは好みなのか。なんでも「好き嫌い」で分別できると信じている人々には理解できないだろうが、こうした人達はむしろいかにして自らを断ち切るかという事に苦しんだのだった。

 

 何故、そういう事に苦しむのだろうか。何故、自分の好き嫌い、自分の欲望を素直に肯定して、客観性のない作品を彼らは書かないのだろうか。それは彼らには理想があったからだ。理想が、自己の欲望や好みと矛盾して分裂し、それが巨大な作品を生むきっかけとなった。

 

 現代の作品のほとんどは、そもそも作家に理想がないので、それぞれの好き嫌いが全てとなっている。たまたま多くの人の好き嫌いと合致すればそれはヒット作にはなるだろうが、それはそれだけの事だ。そこには矛盾もなければ葛藤もない。

 

 ※

 他に例をあげようとすればあげられるだろうが、あまり長くなっても仕方ないのでこれぐらいにしておく。

 

 ただ私は、優れた作家ほど自分が批判し、否定する者をうまく作中に活かしているという実感を抱いていてる。

 

 その極限がドストエフスキーで、ドストエフスキーの場合、いきいきしているのはラスコーリニコフやスタヴローギンといった犯罪者の方である。スタヴローギンがリーダーであるような当時の社会主義をドストエフスキーは嫌悪していた。


 にも関わらず、「悪霊」という傑作はスタヴローギンの存在感を抜きにしては決して生まれない。同様に「カラマーゾフの兄弟」という作品もイワンという悩める無神論者がいなければ成立不可能だった。

 

 ドストエフスキーの場合には、彼が批判する人物をいきいき描けるというよりももっと深く、むしろドストエフスキーが肯定したいものよりも否定したものの方が世界の主になっている、という感じすらある。

 

 これは小説というものの本質とも関わっている事であろうから、最後に少しだけ触れておきたい。

 

 ドストエフスキーは小説を書く時はおそらく、キリストの物語、福音書を念頭に置いていた。

 

 福音書は古代の書である。その当時は文学という概念もなかった。当時はまだ信仰、それも素朴な信仰という可能だった。だからこそ、キリストが奇跡を起こして人々を救い、最後には復活するという物語を生み出す事が可能だった。

 

 それと比べるとドストエフスキーの小説はなんといやらしく、ねちねちとした人間臭い欲望に取り憑かれているだろうか。だが、これは近代においては仕方ないというか、それ以外に取る事のできない方法だった。

 

 仮に現代において、聖書と同じような話を書いたところで、みんなはそれを笑うだろう。仮にキリストのような人物が現れたとしても人々は(何か裏があるんだろ)(ほんとは金目当てだろ)などと噂して石を投げるだろう。もう奇跡の時代でも信仰の時代でもない。

 

 それでも信仰の可能性を考えたかったドストエフスキーは彼の性格に一致したやり方で"裏"から攻めた。というより、近代文学というのはみな裏からの搦め手に過ぎない。

 

 近代文学が裏からの搦め手でなければ、何故フローベールや夏目漱石といった偉大な作家が不倫小説などを書いて喜んでいるのか、わけがわからなくなる。彼らはみな裏から攻めたのだ。

 

 ところが裏が全てとなり、"表"が何かわからなくなった現代では、そうした事情が全くわからなくなってしまった。それ故にスタイルだけ整えれば自分も文豪になれると勘違いする作家も出てきた。そうした作家は、表と裏の区別がないので、現代的な極めて平板な作品を書く事しかできない。

 

 少し話がずれてしまったが、ただこれは前半で述べた事と関わりがある。

 

 近代の作家はもはや、世俗的な理性全盛の時代に生きている。高尚なもの、理想は廃れた。だが、そうした理想がなければそもそも文学は不可能である。

 

 彼らは裏から責める事にした。それは空の存在を暗示する為に地平線を丁寧に描くようなものだ。地上を詳しく描く事で、地上を超える空の存在が暗示される。空はそのままは描けない。もう時代が違ってしまっている。

 

 この"裏から攻める""反対のものを描く"という事が、優れた作家が、自分の思想や好みとは逆の作家を魅力的に描く、という事に繋がっている。理想の反対にある人間像を実在ある存在として描かなければ、そこから暗示される理想も架空の存在になってしまう。だからこそ、近代の優れた作家はみな、自分の立場の反対の人々を生き生きと描いたのだろう。

 

 私は、小説の面白さとはそういうところにあると思う。だがこれは、自らの正義に凝り固まった現代においては、なかなか顧みられない事のように思う。現代はリアリズムを否定する時代になってきているのかもしれない。

 

 リアリズムに対して空想的なものが取って代わっている。リアリズムから外れた神話は、古代人にとって世界を説明する大きな論理だったが、現代の人々にとってフィクションは自分達の見たい景色で世界を上書きしていく、そうした道具となっている。


 こうした時代において、自分達の欲するものとは反対のものに重要さがあるという考えはなかなか受けいられられにくいだろう。



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