目が覚めた
昔から、雨の日には良くない事が起こる。
「───婚約を、破棄する」
久しぶりに我が家にやって来た婚約者ディートマーは、メラニーの反応を見るようにじっと顔を見ながら言った。一瞬何を言われたのか理解出来なかったメラニーは彼を見返して首を傾げる。
「…………え」
「真実の愛を見つけた。……早く婚約破棄をして君から解放されたい」
10年間メラニーとディートマーは婚約者だった。彼と結婚するのは貴族として敷かれたレール上の、当たり前で当然来るべき未来のはずだった。
これが現実のものとは思えないメラニーは目の前に居るディートマーの顔をジッと見る。
……『真実の愛』? 確か数年前にパーティーでそう宣言をして『婚約破棄』をする事件があった。……それをしたのは、この国の王太子だったマルク王子。そしてその際に元婚約者の方に冤罪をかけたもののすぐにそれが嘘とバレた。
その後廃嫡、王位継承権を剥奪された元王子は真実の愛の相手と共に鄙びた土地へ送られたのではなかったかしら。
それにディートマーは『私から解放されたい』と言った? ……私は今まで彼を縛り付けていたの? 貴族として親が決めた結婚を当たり前と思っていたけれど、彼はそうは思わなかったという事なのだろうか……?
メラニーはゆっくりと口を開く。
「……でも、この婚約は家同士の決め事で……」
突然自分の未来が歪められたメラニーは震えながらも『この結婚は家同士の契約』だと主張したのだが……。
「僕達はどちらも子爵家で、しかもこの結婚によって特別何か新しい事業や決め事があった訳じゃない。僕達が結婚しなければならない理由はないんだ。……ああ、破棄の理由は君の不出来さかな」
ディートマーははぁとため息を吐きながらこの結婚にはなんの意味もないと、まるで聞き分けのない小さな子供にでも言い聞かすように言った。
……これは彼が私の前でだけ取る態度。だからお母様達が不在と分かっている今日を狙ってやって来たのね。
「……だけどお父様は……」
「メラニー! 僕の両親にはこちらで説明するから、君も自分の親には自分できちんと話をするんだ。メラニーの不出来の為に破棄されるとね」
そう身勝手な事を言ってから彼はこれ見よがしにため息を吐く。
「……はあ全く……! 君は昔からいつもそうなんだ。
自分の事は自分で始末をつけて欲しいね。そんな風だから僕は他の人を好きになってしまったんだ。いつも周りに頼って迷惑ばかりかけてはダメだよ、メラニー。……最後に君の為にそれだけは忠告しておいてあげるよ」
最後恩着せがましくそう言ってから、メラニーに憐れみの視線を投げかけて肩をすくめてからディートマーは去って行った。
「……っふ……う……っ」
突然の出来事にメラニーは俯き、その瞳からは涙が溢れていた。訳の分からない内に婚約破棄が決まった形になってしまった。しかもこれはメラニーの不出来さのせいだと彼は言うのだ。
……いつかは、彼に認められる日が来るのではないかと思っていたのに……。
窓の向こうでは、まだ雨が降っていた。
───メラニーはこの10年間の、ディートマーと婚約者として過ごした日々の一つ一つを思い出して……。
「……ん?」
ハタと気付いた。
……あれ? もしかして私ってずっとディートマーに虐げられてない?
昔の2人のどの部分を思い返しても、嫌な思いをした事しか思い浮かばないのだ。
そうだわ。……彼とは出会った時からそうだった。
栗色の髪に少し垂れ目で榛色の瞳の一見優しいディートマーは大人からの評判はすこぶる良い。自分がどう見られるか、どう行動すればよく見られるかをよく分かっていたようだった。
彼は何かをやらかしても、いやわざと何か悪い事をしてもそれを大抵他の誰かのせいにしていた。そして最初の頃に使用人に罪を着せるのを見たメラニーが庇ってから、その標的はメラニーになってしまった。
───ディートマーはずる賢くて、そしてそんな事をしても平気な神経の人だった。
パーティーでも最初だけエスコートして着いたらすぐに放置。そしてそれはメラニーが勝手にどこかに行った、という事にされるのだ。
ディートマーは外面が良過ぎて、メラニーがどれだけ周りに主張しても彼が疑われる事はなかった。
何度もそんな事があったのでいつの間にかメラニーは主張する事も彼に逆らう事も諦めてしまっていた。それどころか彼に見捨てられたら自分は『傷物令嬢』としてその後どうにもならなくなって修道院にでも行くしかないと思い込んでいた。
そしてメラニーの両親もディートマーを好青年だと信じ込み、そんな彼の良きパートナーとなれるように努力せよと常に言われ続けていた。そうしてメラニーはいつの間にか彼を支える事だけを考えるようになったのだ。……それが当たり前だと思っていた。
「……解放……、されたという事なのよね。私、ずっと抑圧されていたんだ……。でも今ディートマーから解放されたんだわ。もう自分を押し殺して生きていかなくていいんだわ……!」
急にぱあっと世界が広がった。……そんな気がした。
それにメラニーの通う学園のみんなに婚約者が居る訳ではない。そしてディートマーはマルク王子の事もありこのご時世に自分が『婚約破棄』をした事など周りに吹聴などしないだろう。
それに修道院に入らなくても、卒業までに仕事を探してみたらいいではないか。幸い勉強は嫌いではなかったし成績も悪くない。早速学園で先生に相談してみよう。
……しかしその前に父を説得しなければならないか。実のところそれが一番気が重い。
「姉さん! ……大丈夫なの?」
しばらく考え事をしていたからか侍女から話を聞いた3歳年下の弟スティーブが心配そうに声を掛けて来た。
メラニーはまだ少し涙で赤くなった目で笑って見せた。
「……ええ。平気よ。……お父様がお帰りになったらきちんとお話しするわ」
メラニーのその表情は、今まで人の顔色を窺ってばかりの大人しい少女の顔ではなかった。スティーブは姉の変化に少し驚きながらも一緒にお茶を飲み話を聞いてくれた。
メラニーは淹れ直してもらった温かいお茶を一口飲んでゆっくりと窓の外を眺めた。……いつの間にか雨は止み日差しが差し込んでいた。
その光を受けてそっと目を閉じる。
……この心にまで温かく届く光のように。
私は自分の心から、ディートマーを綺麗さっぱり忘れてみせるわ!
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