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3 黒いワンピース

 強烈な冷房のおかげで汗は完全に引き、冷たくなったシャツが背中に貼り付いていた。

 佐藤健がまだ、朱里の思い出話を、竹見沢になかば煽られるように話している。

 蛇草がふたりの話を遮った。

「おい、もうちょっと小さな声で話せよ。他のお客に聞こえてるぞ」

 首をすくめた佐藤は、表向きはファイナンシャルプランナーとして講師業などをしているが、実のところはデイトレーダーである。コナラ会メンバーの中で最も収入が多いはずだ。鍛えられた引き締まった体を持っている。

 その肩越しに女性の姿があった。

「すみません。変なことを噂して。お気を悪くされたのではないでしょうか」

 竹見沢の唐突で妙な挨拶に、女性は小さな笑みを作った。

「先ほど受付をされていた方ですね」


 店の客は生駒達とその女性ひとりだけ。

 竹見沢は少し打ち解けた口調になって、自分達が何者であるかを説明し始めた。押し付けがましい紹介に、女性の笑みが少し大きくなった。


「ええ、存じています」

 思わず顔を見合わせる。

「中道さんのパソコンにあった名簿から選ばせていただいて、皆さんにご案内を差し上げたのは私ですから」

 また竹見沢が口を開きかけたが、それより早く、

「あの、私、三好と申します」と、女性が自己紹介をした。

「中道さんとずっと一緒に仕事をさせていただいておりました。お聞きになってられる方もおられると思いますが、ふたりで新しい会社を始めようと誘っていただいて、スタートできる目処がようやくついたところでした」

 言葉から聡明さが滲み出ていた。

「あの、生駒さんのお名前は中道さんからお聞きしておりますし、竹見沢さんや赤石さんにもこれからお世話になることがあるだろうと……」

 朱里がそんなことを……、生駒はこみ上げてくるものを押さえ込んだ。

「それが、こんなことになってしまって……。いったいどうして中道さんは……」

 三好は下を向いてしまい、涙をこらえている。

 生駒も同じような顔つきになっていた。三好の黒いワンピースに、色白の顔。ハンカチを握りしめた白い手がさらに白さを増したようだった。


 生駒も朱里からこの女性のことは聞いていた。

 パートナーに信頼できる人がいる、近いうちに紹介するわ。まだ歳も二十代で若いし、デザインのセンスもいい。がんばり屋なのよ。

 と言っていたのが、この人なのだ。

 生駒はもどかしいと感じながらも、肩を震わせている黒い服の女性を見つめることしかできなかった。


 やがて三好は店を出ていき、生駒達もそれを機にお開きになった。

 車で来ていた者と別れて、生駒と弓削と赤石の三人は商店街を歩き始める。

 このふたりとも日常的な付き合いはない。あたり障りのない話題をポツリポツリと繋ぎながら歩く。

 赤石は銀行の支店長になっている同年代の男だが、同じ釜の飯を食った仲間ではない。生駒のいた事務所がこの銀行の支店を設計することになり、その担当者として知り合ったのだった。そんな縁でなんとなくコナラ会の仲間、つまりいわば準メンバーになったという男である。陽気さが身上で、コナラ会の仲間となっても誰も違和感はなかった。しかしさすがに今日は口数が少ない。


 また汗が吹き出てきた。生駒は胸の内ポケット手をやった。ピンク色の封筒が入っている。

 事情聴取を受けた日に届いたものだった。

「一緒に行こうね いつがいい? 朱里」と、短く書かれた便箋と映画の前売りチケットが一枚。難波にあるリバイバル専門の地下劇場。来週上映される映画は「スティング」。

 あまりの切なさに生駒は思わずその封筒を胸に押しつけた。


 生駒と朱里の高校卒業が間近に迫ったある日のことだった。

「ねね、映画行かない?」

 昼休みの廊下はごった返していた。

 卒業が実感されて、合格組も浪人組にも分け隔てなく心にさざなみが立っていた。

 朱里はニコニコして友達とカメラに収まっていたが、生駒を見つけると走り寄ってきたのだった。


「映画ぁー?」

「そう。ほら、これ。もう買ったよ。生駒くんの分と私の分」

「げっ」

「見に行きたいなって言ってたやん。私たちの卒業キネンーーー」

「ふたりでか?」

「そう!」

 思い出作りなのだと朱里は言って、強引にチケットを押し付けてきた。

 スティング。

「おっしゃぁ!」


 後にも先にも、生駒が朱里と映画を見たのはそのときだけだった。その日も映画を見た後は喫茶店で一時間ほど粘っただけで、夕方には家に帰り着いていたはずだ。

 淡い恋、なのだろうと生駒は卒業後に思うことがあった。

 でも、会いたいと思うことはあっても、電話をするほどの強い気持ちではなかった。大学生活がフル回転し始めると、そういうホロホロした思いはいつしか心の隅に少し温かみを持った記憶となってコンパクトに書き記され、たまに思い出として顔を出すだけとなった。


 しかし、今、生駒の胸ポケットにあるのは確かに朱里から送られてきた映画の前売り券。

 一緒に行こうね……。

 スティング……。

 生駒と朱里の最初で最後の映画……。


 違うだろ。

 朱里が自殺するなんて。


 ピンク色の封筒の中身、つまり朱里の思いが熱を放ち、胸を熱くさせているのか、太陽の光とアスファルトが放出する熱なのか、生駒は体中に汗を噴出させていた。めまいがしていた。


 この封筒のことを誰にも話すまいと決めていた。

 俺だけのもの……、ではない。

 朱里を独占したいという気持ちではなく、このチケットを送ってきた朱里の気持ちを竹見沢や蛇草や赤石に詮索されたくはなかった。それが彼女に対する最後の思いやりだと思おうとしていた。


 高架駅である住道駅の階段を上り、切符販売機の前まで来たとき、弓削に改まった口調で引き止められた。

「それじゃあ僕はここで。でも、朱里さんの話、どう思いますか? 僕はもう少し、皆さんと話したいと思うんですけど。どうです? 追悼の会ということにでもして、もう一度集まりませんか。小人数で」


 弓削が会合を持ちたいと言い出したことで、生駒は少しほっとした。胸には、朱里の死の原因を確かめたいという気持ちが固まりつつあったのだ。

 自殺じゃない。朱里は殺されたのだ。このままでは朱里が浮かばれない。

 警察に頼るものは頼るとしても、俺なりに犯人を、という使命感にも似た強い感情が、全身に帯びた熱とともに生駒を支配していたのだ。

「そのほうが良さそうやな。竹見沢さんに集めてもらおうか」

「どうかなぁ。それでもいいですけど……」

「柏原の店でやるか。じゃ、俺からメンバーに連絡しよう」

「ええ。柏原さんは適任ですよね。辞められたとはいえ弁護士ですから」


 弓削が愁眉を開いた。

 この小柄な男は生駒のひとつ後輩。今はインテリアデザイン事務所を開いている。物腰が柔らかく、ちょっととぼけたところもあって、誰からも好かれている。どういう理由だったか、生駒はすでに忘れているが、さびしんぼうというあだ名を持っている。

 弓削がほっとした顔で、それじゃお願いしますと頭を下げた。


 電車に乗った生駒は自問する。その会合でやろうとしていることを。

 よくわかってはいない。

 今の気持ちが単なる好奇心ではないということだけを確認する。

 朱里を帰らぬ人として忘れてしまいたくない、もう少し想っていたいという感情は含まれているだろうが……。


 赤石は黙ったまま吊り革を握り、流れる景色をかたくなな表情で見つめている。

 生駒も窓の外に目をやった。遺影の笑顔が浮かんだ。

 電車は京橋駅に着き、赤石は目を合わせただけで降りていった。


 夜、生駒は書庫代わりの小部屋から、「写真・日記」と黒マジックで書いてあるくたびれたダンボール箱を引きずり出した。

 変色したガムテープを剥がし、詰めこんだファイルや封筒の束の中に、高校の卒業写真集を探した。

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