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29 ストライプのシャツ

 優が入ってきた。生駒は携帯を充電器に差し込んで、大きく伸びをした。

「やれやれ。疲れたな」

「誰?」

「赤石さん」

 生駒は赤石の近畿秀峰探訪というサイトのことを説明してやった。

「お、新情報やん!」

「閉鎖したんやと。忙しくて更新できないからって。まだ事件に首を突っ込んでるのか、くだらんことを聞いてくるなと、えらい剣幕やった」


 優はバッグをソファに放り出した。

「ノブ、なんだか友達なくしそうやね」

「素人探偵ではここらが限界ということやな。あー、くそっ。友達を失くし、事件は迷宮入りか!」

「こういうのを閉塞感っていうねんね。柏原さんもやる気なくしてるみたいやし、隆之さんも朱里さんの部屋を引き払って帰ってしまったし」

 しかし生駒は、柏原を責めるつもりはない。

 何の根拠もない生駒や弓削の疑念から推理を始め、探偵役を自ら引き受けて店を何日も貸切りにしたにもかかわらず、行き詰ったのだから。

「コナラ会もこれで終わりかも」


 それにもまして、生駒の気を重くしているのは、昔の仲間達を片っ端から疑ってかかったことだった。

 もちろん本気で疑ったということではない。少なくとも自分ではそう思っている。しかし仮定の話とはいえ、様々な可能性を何日も考え続けてきた今となっては、相手を目の前にして心底そう言いきれるかというと心許なかった。


「紅茶、飲むか?」

「うわ。ありがとー。ね、柏原さんは弓削さんのこと、なんか言ってた?」

「いや、たいして」

「よくあるやん。犯人は犯行現場に戻ってくるとか、犯行を臭わすなにかを現場に残していくとか。あるいは、自分の犯行の成果を見せびらかしながら、かつ嫌疑の外にいるために自分で通報するっていうのが」

「そうやな」

「柏原さんはまだそんなことを考えているのかなって」

 生駒はその考えに反対はしないまでも、リアリティを感じていなかった。

「まあなあ」

「でもさ、あの人、きっとなにか隠していること、あるよ」

「なぜ、そう思う?」

「さあ。勘よ」

「勘ねえ」

「さあてと、私の報告をするよ。薫さんの家に行って来てん。都合がなかなかつかなくて、延び延びになっててさ」

 生駒は「新手の情報か」と、一応は耳だけ向けた。

「なんだか、彼女、変わってた。悩みがあるんやて」

 生駒は熱い紅茶の湯気を吸い込み、いい香りだ、と言いつつむせた。


「ノブ、ちゃんと聞いてよ。おもしろい話なんやから」

「他人の奥さんの悩みなんて、聞きたいとは思わないぞ」

「そんなんじゃないよん。薫さんは旦那のことで悩んでるねんなあ」

「ほら見ろ。そんな話を聞いて柏原に告げ口でもするんか? それとも俺が赤石さんを諌めるんか?」

「えーい、最後まで黙って聞け!」

 優がむきになってテーブルを叩いた。

「うわっ、紅茶が」


「旦那が浮気をしてるって確信があるわけじゃないんやけど、この頃なにかおかしいっていうねんね。夫がやたらと山登りに出掛けるって。それもいつもひとりで。ちなみに薫さんは山登りなんて絶対に行かない女性」

 生駒は、ふーんと気のない返事をした。

「なんていうのかな、始めは漠然とした不安やったんやて。つまり、なぜあんな疲れるだけのことに興味を持つのか、なにか家庭に不満があるのか、ストレスが溜まっているのか、っていう妻としての不安ね。それがいつしか、山登りというは嘘じゃないか、あるいはひとりじゃないんやないかという不信感に変わったのね」

「ほぉー」

「彼女、専業主婦やんか。ひとり息子の手が離れてくると、自分の存在価値を強烈に見出すようななにかがないことに気がついたんよ。かわいそうにさ。いくらお稽古事に打ち込んでも、もともと器用な人やから、そつなくこなしてしまって、燃えることができないんやと思う。そんな毎日。そうしてだんだん、家庭の中での自分の立場が希薄に感じられてくる。自信もなくなってきて、最後には夫が自分を必要としなくなったのではないかと思ってしまうわけよ」

「はあ」

「退屈によるストレス。怠惰から生まれる疑心。そういう関連ね。でも彼女は賢い人やから、自分がそういう精神状態になっているということもよくわかっているのよ」

 前置きが長すぎたかな、と言いながらも優は話し続ける。


「でさ。薫さんはとうとう我慢ができなくなって、というか、出来心って彼女は言ってたけど、夫の行動を覗いてみる気になったんやて」

「へえ」

「で、夫宛てのメールを読んでみた。旦那さんの方は、妻がパソコンを扱うことができるなんて思ってもないんやて。妻がパソコン講習会に行ってたことさえ知らないそうよ。それでね、どうやったと思う? 案の定、彼女、パニックになってしまった。ちょっとノブ! 起きてる?」

 優がティーカップを摘み、テーブルの上でカチカチと音をたてた。

 ああ、と生駒は目を上げた。

 空になったティーカップに伸ばしかけた手を頭に持っていき、薄くなった頭皮を擦った。


「それで薫さんは、ひとりで悩んでたんよ。でも落ち着いてきたら、誰かにこの話を聞いてもらいたいと思うようになったんやね。もちろん誰でもいいわけじゃない。旦那と全く関係のない人にね。で、私の登場」

 優がハハハと声をたてて笑った。

「はあ、それで?」

「でも実はね、彼女の話を聞いて、私、笑ってしまった。何年か振りに会って、旦那の愚痴ばかり聞かせる方も変だけど、それを聞いていきなり笑い出す方もひどいよね」

「そうやね」

「でも、これは笑うよ。彼女、とんでもない勘違いをしてたんやから。どういうことか、わかる?」

「いや。知りたくもないな。そろそろ本題に入れよ」


「まあまあ、順番があるんやから。でね、旦那にさ、ある特定の女性から何通もメールが来てるんやって。そしてなんと最新のメールは、八月三日に会って欲しいという内容。それに返信済みのマークはあるけど、送信済みフォルダには残されていない。ところがね。その八月三日っていうのは、旦那が山登りだと言って出かけた日。彼女は目の前が真っ白になったんやってさ。さて、その女性とは誰でしょう?」

 それは上野だと生駒は思った。

 しかし首をすくめただけで、優の話の続きを待った。上野の件なら優も知っているはず。

 優のニヤニヤがますます大きくなった。


「メールの送信者はアルファベットでTOSHIMI。どう? わかる? 私はすぐにぴんと来たよん」

「はぁ」

「これって弓削俊美。ね、ね、おかしいやろ」

「はぁ、ハ、ハ」

「薫さんにそれは、って教えてあげたら、彼女、弓削さんのことは知ってた。彼女、自分の勘違いがわかって、急にお喋りになってさぁ」

「フゥワァーン」

 あくび交じりのため息が出た。

「こら、ノブ。いつまで私に話を続けさせるつもり? ここまでの話でなにも感じないん?」

「フゥェ? なにを?」

「だからさぁ、旦那っていうのは赤石さんのことやんか。赤石さんは三日のことはどう言ってた?」

「鳥取に……」

「喉が渇いた。喋りづめで」

 優の笑顔は消えていた。

 生駒は目の周りをこすった。強くまぶたを閉じ、ぱっと見開いた。

「赤石さんは鳥取に行ったということやった」

「そう。それに赤石さんは薫さんにどこの山に行くと言ったと思う?」

 眠気が振り払われた。


「どこ?」

「目が覚めた? 薫さんはこう言った。三日の朝、旦那は大峰の行者なんとかという山に登ると言って家を出たって」

「行者還!」

「そう」

「なんと!」

「赤石さんは夜の七時ごろに帰って来た。それからまた赤石さんは家を出た。会社で作業だからって。そして翌朝のご帰還」

 優が生駒の顔を覗き込んだ。

「どう思う?」

 優はニッと口元をほころばせたが、生駒は背中に鳥肌が立ったように感じた。

 椅子に深く座り直す。もう一度説明してくれとは言わなかった。


「赤石さんが行者還に行ったというのか。八月三日に……」

 生駒は口を引き結び、背筋を伸ばし、そのまま天井を見つめた。


「あっ、そうそう。その日は結婚記念日なんやて。旦那はすっかり忘れてしまってるって薫さんは笑ってた。ノブは覚えてた? 私とノブが初めて会ったはずの日」

 生駒は笑わなかった。

 優の顔にも笑みはなかった。


「ノブ、あれ見せてくれる?」

「ん?」

 A4版のプリントアウト。

 朱里がメールで送ってきてくれたコナラ会の記念写真。

 優の指がその記念写真の上を滑っていく。


 生駒は、あっと言ったきり、絶句してしまった。

 次の言葉を搾り出したときには、口の中が渇いていた。


「いつ気がついた?」

「さっき」

 生駒の口から唸り声が漏れた。

「あの画像を最初に見たときから、どこかで見たなという感じがしてたんよ。薄くて感じのいい緑色と白の大きなストライプ。なかなかこんな柄はないやんか。いつも目に入ってたのにね」


 生駒は写真の男の満足そうな笑顔を見つめた。

 ストライプ柄のシャツを着た赤石が、照れた顔の朱里の肩に手を置いていた。


 生駒は思った。

 いつの時点でか、柏原は赤石の嘘に気がついたのかもしれない。

 赤石の妻は柏原の妹だ。優より情報に近かったといえる。

 優と同じように、あの男のシャツにも気がついていたのかもしれない。


 生駒は頭に血が昇って、目の周りが熱くなってくるのを感じた。

 柏原はそれに気づいていて……、だから最近……。

「ね、これは?」

 写真には「スティング」のチケットの半券がクリップで留められていた。

「内緒」

 優は少し悲しげな目をしたが、なにも言わなかった。

 生駒が勢いよく携帯電話を掴んだからだった。

 しかし電話が繋がるなり、柏原の、ちょっと待て、僕の話が先だ、という大声が流れ出てきた。

「……ええっ、なんやて! どういうことや!」

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