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2 ためらい

 告別式は中道朱里がひとりで住んでいたマンションの近くで行われた。

 JR学研都市線の住道(すみのどう)駅から南へ十分ほど。民家や小さな工場が集まる下町。スーパーマーケットなどの集積もあって、沿線では暮らしやすい町だといわれている。


 開式間際に着くと、すでに見知った顔が児童公園に併設された集会所の脇に集まっていた。

 錆びた鉄棒に、一匹のツクツクボウシ。

 夏の名残の声が響く中、読経が始まった。生駒たちは小さな建物に入ることをためらい、外に並んで立った。

 汗が下着の中を流れていくことに耐えながら立ち尽くす。そんな男達を、遺影となった朱里が微笑みながら見つめていた。


 エアコンの冷たい風が、生駒の肉の落ちた胸や薄くなった頭に粘りついた汗を気化させ、熱を奪っていく。

「今日はなんだか、このあいだの続きみたいだな」

 苦行のような式が終わって出棺も済み、親族達がマイクロバスに乗って行ってしまうと、生駒たちはたまらず手近な喫茶店に飛び込んだのだ。

 このあいだの続きという言い方に、楽しんでいるニュアンスがあると思ったのか、竹見沢がすぐに言葉を続ける。

「警察が僕のところに来たぞ」

 式に参列した知人連中は、生駒の他に竹見沢憲一、赤石剛志、蛇草真治、弓削俊美、佐藤健の男ばかり六人だ。

 コナラ会メンバーである。コナラ会とはアーバプランという建築設計事務所を退職した者達の同窓会の名である。生駒の命名だ。由来は、北摂の植生調査で山の中を歩き回りながら退職を決意したからというもの。さすがにドングリ会というわけにはいかないだろ、というだけのことだった。


 告別式に出席した全員が、警察から事情聴取を受けていた。

 いつものように幹事役の竹見沢が、恰幅のよさを押し出して話題をリードする。退職後は大学講師に転向し、今や教授となった出世頭のひとりである。

「自殺だとはまだ断定できないらしい」

「いったいぜんたい、朱里はどうしたっていうんやろ」

 蛇草が首を捻った。

 小さな塾の講師をしている割に声が細い男だ。竹見沢と並んでコナラ会の年長者グループだが、相変わらず喉仏の辺りに剃り残しの髭があって、それがこの男を貧相に見せていた。

「彼女になにがあったんや」

 問いに応える者はいない。

 佐藤が朱里との思い出を話し始めた。

 告別式の後の無難な話題……。


 生駒は西畑刑事の訪問を受けてからというもの、思い悩んでいた。

 朱里が事務所に来たとき、彼女の言葉の中にも表情にも、自殺を示唆するような影はなかった……。


 話していたようには、新しい事業はうまくいっていなかったのだろうか。

 あるいは、最近になって急に死ぬ気になるような、とんでもないことが起きたとでもいうのだろうか。

 人が普段考えたり感じたりしていることなど、オセロのように、なにかの拍子に捉え方が百八十度変わってしまうものなのかもしれない。

 あの日朱里は、今できることをしなかったら、明日になればなおさらできないわ、だから私は今、挑戦するのよ、そう言っていたのに。


 そもそも、なぜ急に会おうと言ってきたのだろう。

 アドバイスが欲しいと言っていたが、仕事ではない別の意味があったのだろうか。それとも、死を意識して、その前に友達に会おうとしたのだろうか。

 生駒は見当がつかなかった。


 朱里が訪ねてきた夜、料理屋から支払いを済ませて出てきた生駒に、朱里は今日は払うわね、と一万円札を差し出した。

 彼女が向かう大阪駅への地下道はすぐ近く。生駒の事務所とは反対の方向。


 平日でも夜十時を回ると、超高層ビルのプロムナードには人通りはほとんどなくなる。

 地下道の手前の横断歩道はすでに点滅信号になっていて、ずっと赤いままだ。

 ビルの照明は消え、黒い塊となって月明かりを遮っていた。


 プロムナードにはオリジナルデザインの照明柱が並び、低い位置から流すような光でペイブメントを照らしている。

 規則的な白い光の帯模様の中を歩くのは、ライトアップされているようで照れくさい。


 生駒は酔っていた。こみ上げてくる感傷を断ち切ることに努力しながら、朱里が財布をバッグに入れるのを黙って見つめていた。

 パチンというバックルの音を合図に、生駒は地下道に向かって歩き出した。一瞬の迷いもなかったかのように。

 朱里が生駒の手を取った。その手は温かく、少し汗ばんでいた。


 生駒は、大阪駅まで送っていくよ、地下道は物騒だから、と心の中で言った。

 信号が珍しく青になった。ひとりの男が渡っていく。急げば間に合う。

 朱里の手に軽く力が入ったことを感じた。いい香りのする長い髪が生駒の腕に触れた。

 ふたりはゆっくりと歩いていった。


 信号が変わり、ふたりは立ち止まった。

 車は来ない。

 生真面目にボタンを押す必要はない。

 生駒は朱里に顔を向けた。朱里も顔を上げた。


 知り合って三十数年。これまで、このような場面で、このような思いで、彼女の目を覗き込んだことはなかった。瞳に信号機の赤い光が映り込んでいた。

 青みが入ったシルバーのアイシャドウ。胸のふくらみが生駒の体に触れている。

 生駒はポケットに突っ込んでいたほうの手を出した。

 朱里の唇がかすかに動く。

 風を感じた。


 朱里はにこりとして、今日はどうもありがとう、といった。

 生駒はコンマ数秒の躊躇がなにかを逃がしたことを知った。

 体が離れ、手が離れた。

 指の隙間から乾いた砂がこぼれ落ちるように。

 朱里は、じゃあまた、近いうちに連絡するわ、と背を向けた。

 一瞬前まで生駒の手の中にあった手をちょこっと振って、横断歩道を小走りに渡っていった。


 そんなささやかな出来事が、忘れようにも忘れられないちっぽけな思い出のひとつとして記憶されることになろうとは、そのときは思ってもみなかった。

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