26 腐れ縁
三条優が向かったのは豊中市にある北大阪大学だった。
理学部人間色彩光学研究室。
午前中に保険会社の勧誘員を偽って研究室に電話を掛け、竹見沢が昼から四時ごろまでは不在であることを確かめていた。
教授室と間仕切られた秘書席で、若い女性が留守番をしながら文庫本を読んでいた。
突然訪れ、用件も言わずに、ただ待たせてもらうという女性客に閉口した様子であったが、購入しておいた手土産を渡すと、しかたないというように椅子を勧められた。
「あの、竹見沢先生がお戻りになるまで一時間ほどかかると思いますよ。助教授の岡さんやほかの先生方も今日はお休みですし、秘書の柳本さんも竹見沢先生とご一緒なんですけど、それでもかまいませんか?」
留守番の女子学生は、大げさに困ってみせる表情と笑顔がくるくる変わって、なかなか可愛げのある人だった。
三条が秘書机の横に置かれた待合用ベンチに腰掛けると、女子学生の横顔を少し見上げるような姿勢になる。秘書席はとても狭く、すぐ真横からの視線を感じて、女子学生はこわばったように座り直した。
三条は最初からハッタリでいくことにした。
「私、先生とはもう十年以上前からの知り合い。たまたま近くに来たから、せっかくだから寄ってみようと思って。あなたのおじゃまはしないから。あ、なに読んでらっしゃるの。でも、噂によれば、相変わらずプレイボーイらしいわねえ、あの人。今日はちょっとからかってやろうと思っているのよ。あら、ごめんなさい。学生さんに言うことじゃなかったかな」
三条は一気に喋って、この女子学生の興味の芽を吹き出させてから、答えやすい問いを用意した。
「あなたはどんな研究をしてらっしゃるの?」
すぐに学生のぎごちなさがほぐれてきた。この子も時間を持てあましていたのだ。
三条はよどみなく話すこの学生に好感を持った。
竹見沢に女性の客が来ることがあるのかと聞いてみた。さりげなさを装いながら、はっきりと興味があるのだということをわからせるように。女子学生はさらに打ち解けた様子になって、目の前の訪問客の肩を持つようにいった。
「いいえ。あなたの他には、誰もお見えになったことはありません。いつもこれ、ありがとうございます。ここのパイクッキー、おいしいんですよね。いつも先生より私達が喜んで頂戴しています」
住道駅前にクレマーという、大阪ではそこそこ名の通った洋菓子店があるが、朱里が手土産を持っていくとすれば、ここのパイクッキーではないかと、駄目でもともとの勘を働かせたのだ。女性に人気だし、このところ小さなブームにさえなっている。
作戦は大当たりだった。
いつもはお土産のクッキーを食べる役割で、それを持ってきた客の顔を見ていなかった学生が、今日は秘書席で留守番をしていたのだった。
そして、その山本彩香という女子学生が、今までの来客だった朱里と三条を同一人物だと勘違いしたのだった。
「うれしいわ。ねえ、先生は私のこと、あなた達になんておっしゃってるのかな。学生さんの間でも噂になったりするのかな」
竹見沢は学生とよく飲みに行ったりするタイプの学者で、本人曰く、学生達から人気があるという。
彩香は朗らかに笑って、三条の質問に躊躇なく答えた。
「ええ、酔った勢いで秘書の柳本さんが先生にお聞きになったことがあるんです。あなたのことを。どういう関係なのかって、単刀直入に。そしたら先生、むちゃくちゃに照れて、どうということはない、あの人は昔からの友達で、色々な相談事を頼まれているとおっしゃいました」
「フフフ、その通りね。それから?」
「なんだかとても嬉しそうでしたよ。あ、あの、私からこんなことを聞いたなんて言わないでくださいよ。つまらんことを言うなって怒られますから」
そういいながら、まだ話し足りなさそうな顔をして目を輝かせている。
三条はここから先、どう聞き出せばいいのか、笑顔の中で必死に考えていた。
「言わないわよ。私の方こそ、くだらんことを聞くなって怒られるからね。でも、どうなのかしら。先生は女子のみなさんに人気があるんでしょ。危険人物よねえ。いろんな噂があるんでしょう?」
彩香はニヤニヤして、言いたいけど言えない、というような顔だ。
「さっき秘書の柳本さんっておっしゃったわね。あの方はどうなんでしょう?」
「ないでしょうね。本人はともかく、先生の方は」
はっきりと否定する。三条は、もしかするとこの子も、という気がしてきた。
「学生さんと一緒になって、先生はまだ青春を謳歌されているのね。きっと、あなたは可愛がられているんでしょう。変な意味じゃなくてよ」
「そんなことはないですよ。用事を言いつけやすいということだと思います」
なるほどそうか、と三条は思った。
こらえた笑い声をたててから、少しゆっくりめの口調で聞いてみた。
「フフーン、怪しいわねえ。ね、私はどうかしら?」
「そうですねぇ」
「わくわく」
彩香の嫉妬心に火を近づけてみたのだが、さすがに言葉に迷ったようだ。
「ただの、あっ、ごめんなさい!」
「ううん、いいのよ。言ってちょうだい。古い付き合いなんだから気にしないわ」
「ただの腐れ縁だって」
「ハハハ」
もういい。
朱里と竹見沢がどういう関係なのかを知ることはできなかったが、少なくとも親しい関係だったということは感じられた。三条は最後の質問をして切り上げようと思った。
「ところでちょっと変なことをお聞きするけど、いい? 八月三日に、先生がどこにおられたのか覚えてらっしゃらない? 先生とお会いしたいと思っていたんだけど、行き違いになってしまったみたいで。もし私の間違いなら謝らないといけないから」
「福岡におられましたよ。学会があって。私も連れて行っていただきました。かばん持ちですけど」
「じゃあ、私の間違いか。残念。とっちめようと思ってたのに」
彩香はにこりと小首をかしげている。
「あなたも連れて行ってもらったの? なかなか名誉なことじゃない。おふたりで?」
「いえ、助手の人と一緒です」
「それで三人ずっとご一緒だったのね」
「はい。いえ、帰りはばらばらで。先生はもう一泊、福岡に」
なんとなく彩香の口ぶりが重くなってきている。
「そうなの。あなたと助手の先生が一緒に帰られたというのに、ひとりだけ福岡に残って。それも意味深ねえ」
「はあ。でも私もひとりで帰りました。あの、苦手なんです。舟木さんが。それで、わざと一本遅い新幹線を予約して」
初対面の相手に、彩香は自分のゼミの助手が苦手だという。
微妙な乙女心か。
ただ、三日は学会だが四日は?だという。竹見沢の説明とは微妙に違う。
「ずばり聞くけど、四日、あなたも一緒だったんじゃない?」
彩香は三条が予想していたほどには戸惑わなかった。
しかし、読みかけの本をゆっくり閉じた。
「誤解しないでね。あなたを責めるつもりなんて全然ないのよ」
彩香はまだ本に手を乗せているが、見返したまなざしは冷静で穏やかだった。
「こんなことを聞くのは、失礼だと思うでしょうね。でも少し話をさせてね。私達くらいの年になると昔の友達とか仲間って、とても大切なものなのよ。あなた達くらいの年齢の人達が、誰かを好きになったり憧れたりするのと同じように。もちろん私達も、そうしてきたわけ。それが結婚まで進むこともあったし、そうならないこともあった。完全に切れてしまうこともあったし、いまだに憧れの人のままで続いていることもある。たとえ、お互い別の人と結婚したとしてもね。細く長くっていうか、今でも小さな思い出が少しずつ積み重なっているのよ。ひとつひとつは他愛ないことの積み重ねでも、それが十年以上にもなると、それはそれで重みがあるのよ。まあ、腐れ縁とも言うけどね」
彩香は素直に聞いているようだが、三条は彼女がこんなカビ臭い話に興味を持つはずがないことを知っていた。
ただ前振りとしては、年齢的に少々無理があったとしても、せずにはおれない話だった。
そして結論に向かった。
「それでね、竹見沢さんにもそういう人がいるのよ。お互いにね、腐れ縁。フフ、私じゃないわよ。私はいわば昔から繋ぎ役。というか、調整役。先生と同年輩の女性よ。八月三日の夜、竹見沢さんを待っていたのは、実は私じゃなくて旦那さんも子供もいるその女性。もう一度聞くわね。彼女の新しいライバルはあなたなのね。若くて聡明で、その上とてもチャーミングで、五十おばさんにはとてもかなわない、あなたね。だからといって、嫉妬に狂うなんてことはないから気にすることはないのよ。彼らのは単に古い友達関係だから」
彩香は微笑んでいた。三条も微笑んでいた。
「返事がないのは認めたことと見なすわよ。フウー、私も変よね。彼女に代わって竹見沢さんの新しい彼女を確かめちゃうんだから。私も彼女と腐れ縁ってことよね」
三条は声を出して笑った。
彩香も、そんな友達っていいですよね、と笑った。
「誤解がないように言わせてね。竹見沢さんが若い女性に目移りするのはいいのよ。そういう巡り合いがたくさんある職場なんだし、彼は素敵ですものね。彼女の方も幸せに暮らしているんだから、それを犠牲にするような恋ではないわけ。でも、不倫とか浮気とか遊びとか、どちらかといえば陰のある言い方ではなくて、昔の憧れをそのまま持っているとでも言うのかな。そんな、ささやかな関係なんだけど、でも竹見沢さんの新しいお相手がどんな人か、それだけはやっぱり知っていたいわけ。わかるでしょ」
彩香は、クッキーご馳走様でした、それにお話、楽しかったです、もう行かないと授業が始まりますから、と席を立った。
三条も一緒に部屋を出た。彩香が階段に向かう。微笑みかけた三条にちょこんと頭を下げ、彩香は、じゃ、またと、颯爽とした足取りで駆け去って行った。
三条は竹見沢のアリバイが成立したことを確信した。