23 出資の約束?
翌日、柏原は妹に電話を入れた。
ひさしぶり、遅くなったけど結婚記念日おめでとう、旦那とどこかに出かけたか?
薫は言いにくそうに、その日、旦那はひとりで出かけたと応えた。しかし柏原は妹の言葉の中に、そんなことは信じてはいないというあきらめと、不満を押さえ込んだニュアンスを嗅ぎ取った。
赤石が夜遅くになって、誰もいなくなったオルカに入ってきた。
「悪いな。急に呼び出して」
「いいさ」
不機嫌そうな顔をしていた。
「僕はおまえら夫婦のことに口出ししないように気を使ってきた。というより、関知しないことにしてきた。なにしろ僕は、夫婦ふたりがお互いに知る必要のない昔のことまで知っている」
柏原は赤石が好きな竹内マリアをかけてやった。
「夫婦といえども、元はといえば他人同士。知り合う以前の相手のことなんて、知らない方がなにかといいからな。しかもおまえは昔から干渉されるのが人一倍嫌いだ。だから僕は、できるだけおまえ達から離れている」
「なにが言いたい」
「八月三日はなんの日だ?」
「……」
「おまえらの結婚記念日」
赤石はカウンターの上に乗せた自分の手の平をじっと見つめていた。
飲みかけのジントニックにm小さな泡が浮かび上がってははじけて消える。
「妹を大事にしてくれなどと、保護者面して言うつもりはない」
「……」
「今日話したかったのは、八月三日、その日のことだ」
赤石は凍りついたように黙っている。
柏原は待った。
「……わかった。あの日のことを話せと言うんだろ」
「ああ」
「考え違いをしないでくれ。朱里と一緒だったんじゃない。実は……」
言葉を震わせ、グラスに手を伸ばす。
柏原も赤石から眼を離し、自分のコーラを注ぎ足す。
「実は八月の十日に、支店で夏の恒例イベントがあったんだ。うちの頭取の出身が鳥取の境港で、今年のイベントはそこの物産展をすることになっていて……」
コーラが軽い音をたてて、泡がはじけた。
「僕はスーパーサラリーマンなんでな」
赤石は自嘲ぎみに笑ったが、すぐに表情を消した。
「イベントの前に、どんな街なのかを見ておきたくて。あの日しか、時間が取れなかった」
ポツリポツリと言葉を繋いでいく。
「薫に言ったら、一緒に行きたいと言うだろう。結婚記念日だしな。最近、どこにも出かけていないし……」
竹内マリアが、友達以上の気持ち、胸に閉じ込めてきたけれど、と歌っていた。
「ところが僕は、あの日、ある女性に……、いや、一緒に鳥取に行ったわけじゃない。勘違いしないでくれ。朝、ちょっと会って話す用があった。しかし、それで……、まあ、ごまかしてしまった……」
「すまん。先日ここで追悼の会をしたとき、話したとおりなんだ。まさか、アリバイを聞かれるとは思っていなかった」
「聞かれることが分かっていたら、もうちょっと違う答えを考えていた」
柏原は頭に両手を持っていき、髪をしごいた。
「いや、そうじゃない……」
「まあ、本当に鳥取に行ったんなら、いいさ」
柏原は赤石の目を見た。
見つめ返してくる瞳には、何が宿っているのか、硬い殻をかぶっているかのように、なんの動きも見られなかった。
「正直ベースで話そう。あの日のことをアリバイとして、もう一度きちんと説明してくれ」
「……わかった」
グラスに目を落とした赤石は、竹内マリアが歌う歌詞を心の中になぞっているかのように、目を閉じた。
「朝早くに車で家を出た」と、話し始めた。
京橋で人に会った。
しばらく立ち話をして鳥取に向かった。ひとりで。
昼前には境港の町に着いて、事前に調べておいたところを見てまわった。有名な鬼太郎ロードや漁港や水産物販売店など。
そして、まっすぐ家に帰った。着いたのは七時ごろ。
それからまた家を出て、支店で作業。遅くなったのでビジネスホテルに泊まった。
「証人になってくれる人は?」
「いない。しかし会社に土産を買って帰った。証拠にはならないかもしれないが」
「京橋で会った人というのは?」
赤石が目を上げ、柏原ト目が合った。
「言いたくなければいい。気になっただけだから」
赤石はなおも柏原を見ていたが、やがてあきらめたように、
「……上野さんだ」と呟くようにいった。
「えっ?」
「たいした用事じゃない。パソコンのソフトを貸してあげる約束をしていただけだ」
「そうか……」
「貸して欲しいといわれて……。デジカメの達人というソフトで……。実は、夕食でも、ということにしてたんだけど、数日前になって彼女が予定を変えて欲しいと言ってきて、朝に……」
「もういい」
「ところで、もう一度聞くけど、朱里との付き合いはなかったのか?」
「ない」
「……」
「しかし、なんどか会ったことはある。新しい会社を興すので、相談に乗ってくれということで。生駒さんの話と同じようなものだ。それだけ」
柏原は少し考えてから、また聞いた。
「コナラ会のメンバーのことで、知っていることがあるか? 例えば銀行員としての仕事に関連したことでも」
「……」
「弓削なんかはどうだ?」
赤石が目を剥いた。
「言えないか」
「それなら、弁護士としての柏原に話すぞ。守秘義務のある事項だ。……そう、彼は一時、資金繰りに困っていた。僕の、というか店のお客さんだが……」
「二次会のときに話し込んでいたからな。そんなことじゃないかと思っていた」
「でも、たいした問題ではない。彼の思い通りにしてやった。それに、それは朱里のこととは全く関係ない。いいか、誰にも、僕から聞いたと言わないでくれよ」
「ああ」
赤石が不満ト不安が入り混じったようなため息をついた。
「もうひとつ聞くけど、これ、知っているか? 私は誰でしょうという趣向のブログ」
「ん?」
「つまり、クイズみたいなもんだな。まあ、ちょっと読んでみろ」
赤石は渡されたものに目を通し始めたが、すぐに目を上げて、げんなりした顔を見せた。
「どうだ、知らないか? 趣旨を書いた葉書が生駒や弓削のところには来たらしい」
「なるほど……。それなら、たぶん僕のところにも来た」
「そうか、来てたか」
「それがどうした?」
「朱里が作者かなと思った」
「……ちょっと言わせてもらっていいか」
「おまえも生駒さんも、おかしいぞ」
「なにが」
「やりすぎだ。もう止めたらどうだ。警察の調べでは、朱里は自殺したということになっているんだろ。生駒さんの気持ちもわからないわけじゃない。しかしなぜ、あえてほじくり返す。ご家族の方の気持ちも考えてみろ。おもしろ半分ですることじゃないだろ」
蓄積した怒りが漏れ出てくるように、赤石の声がだんだん大きくなった。
「それに、本気でコナラ会のメンバーを疑っているのか? まさかな! それなら、なにをしようとしているんだ? 僕は、自殺だとか殺人だとか言われても、なにも知らないし話すこともない。そもそも関心もない。冷たいやつだと思うなよ。こんなことは、素人が好奇心にかられて手を出すようなことじゃないんだ!」
柏原は、何も言わず、コーラを飲み干した。
赤石は興奮したことを照れたように、もういいだろ、と立ち上がった。
大迫は三条優の顔を見るなり、はじける笑顔になった。
誰が事務所に入ってきても気にもとめない女性社員に声をかけるまでもなく、大迫はぽんと立ち上がって近づいてきた。
心斎橋筋に近い雑居ビルの三階。三つばかりの机の他は、うずたかく積み上げられたダンボール箱で埋め尽くされていた。
擦り切れて緑色の糸が見えるソファ。
座るように勧めながら、大迫は出勤してきたばかりなのか、暑いですなと、やたらと額や首筋をタオルハンカチで拭った。
差し出された名刺はやけに白くて分厚く、湿った感じがした。
「中道さんのことは、本当に残念なことでした。ウチはアメリカ村に雑貨店を五店舗出しておるんですが、中道さんとは最初の店からのお付き合いでしてな。あれからかれこれ、もう十五年にはなりますなあ」
「中道さんとは、青山企画の担当者としてのお付き合いだったんですね?」
三条は単刀直入に聞いていく。
「うちの店の内装工事を青山企画に注文したら、担当者として付けてくれたのがあの人やったということです」
大迫は泉南で日用品屋を開いていたが、知人の紹介でアメリカ村で商売を始めることになったという。
青山企画とは第一号店からの付き合いらしい。
「田舎もんがたまたま当たったということですな」
「まあ、ご謙遜を。ところで、社長さんは担当者としての中道さんを、どう評価されておられましたか?」
「ええ、それは優秀な人でした。私らみたいなぽっと出の素人の店が、有名な雑誌に取り上げられたりもしました。それに親切なお人でして。内装工事が完了してからも、よう顔を出してくれはりましてね。ポップ広告のデザインを考えてくれはったり、いろいろな人を紹介してくれはったり、ほんまに助かりました。大げさな言い方したら、うちの店がここまで大きくやって来れたんも、中道さんのおかげやと思うて感謝してます」
大迫はソファに浅く腰掛け、思い切り脚を広げている。
向かいに座る三条が目のやり場に困るほど、はちきれんばかりの腹を、ガラスのセンターテーブルに押し付けていた。ネクタイをしていない開襟シャツのボタンの間からは、白い下着が見えていた。
「ところで、中道さんが会社を辞めて独立するにあたって、社長さんが資金的な援助をされていたということを聞いたんですが、それは本当ですか?」
「いや、それは違います。援助は一切していませんし、そんなことはする気はおません。誰からそんなことをお聞きになったんです?」
大迫は心外だという顔で否定した。
大げさな表情。三条も負けじと焦ってみせる。
「ええーと、すみません。三好さんがおっしゃったのは出資をいただいていたということでした。慣れない探偵の真似事をしているものですから、緊張してしまって」
大迫はもう一度やわらかく睨んだだけで、元の人なつこい笑顔に戻って、自ら話を進めだした。
「出資していたのは三好さんのおっしゃるとおり、本当のことです。中道さんが独立してデザイン事務所をやらはるということでしたんで、できる協力だけはさせてもらおうと思いまして」
五百万円を振り込んだという。
事務所改装の費用、パソコン購入費などに使われたらしい。それとは別に車も購入したという。
「条件ですか? なんでそんなことをお知りになりたいのかわかりませんけど、隠すことやないんでお話しますとね。特段のことはないんですよ。配当は、ちゃんと利益を出せるようになったら、という簡単な取り決めだけでね」
「そうですか。それにしても社長さん、大変なことになりましたね。こういう場合、その出資されたお金が戻ってくるものなのかどうか、知りませんけど」
大迫が目を剥いた。
「そりゃ、返してもらうつもりでっせ」
「会社はまだ正式には、設立されてませんからな。出資の約束はなかったことになると思うてます。ただ、今は三好さんがとにかく混乱してはりましてなあ。こう言うとなんですが、三好さんひとりではあきませんわ。まあ、今はとにかく三好さんは挨拶回りで忙しい。会社の設立は中止するという説明にです。それが先決ですわ。まあ私も、中道さんが死んですぐに金返せとは言いにくいですし」
大迫は渋面を作り、ソファの上で尻を動かした。
「こんなことになってしもうて、えらい損害なんですわ。実はこの出資の話、周りの者には反対されたんです。銀行とかにもね。もっと私自分の会社が完全に軌道に乗ってからにしたらどうやということですわ。この春に五店舗目を出したんですが、これが今までよりずっと大きい店でしてな。よっぽどがんばらんとあかん店です。しかし、私としたら中道さんを信用していましたし、青山企画にもなにかと助けてもらいました。いろいろおましてな。私としたら応援せんわけにはいきませんでしたんや」
そういって、がぶりとコーヒーを飲み干した。
「それにしても、なんで自殺なんか……。いや、もう、中道さんがなんで死なはったかというようなことは、どうでもええことです。すみませんね。きつい言い方をしますけど、はっきり言うて、私はがっかりしてます。三条さん、わかりますやろ」
三条の相槌の打ち方がうまいのか、話は訓話じみてきた。
「私らみたいな零細なところは、金にはうるさいもんです。お金を意味のないことや無駄なものに使うてたら、周りから笑われますんや。三条さんも、この事務所を見てもうたらわかりますやろ。まあ、今度の話は、結果的にはああいうことになったわけで、私にしたら、えらい格好の悪い話でしてな。あの金をよう取り戻さんかったら笑いもんですな。ほんまに」
三条は話題を変え、アリバイを単刀直入に聞いた。
大迫はすらすらと答えた。
「四日と五日は出勤で、十時ごろ事務所に出て、昼からはいつものように店舗回りです。夕方からは同業者の会合に出席しました」
「日曜はお休みではないんですね」
「うちの休みは火曜日だけですねん。このところそれさえ取れてません」