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19 思い出は美しすぎて

 ……高校時代。


 休み時間。

 生駒は校舎の三階の廊下を歩いていた。

 薄いピンク色の人造石が貼られた廊下は、白い漆喰の壁が艶の出た木の腰壁と相まって、いかにも伝統校らしい雰囲気を醸し出していた。

 生徒達の騒ぐ声がよく響く。

 青いペンキがこってりと塗られた鉄の枠窓は重く、お世辞にも美しいとはいえない大阪浪速区の街並みの風景を縁取っていた。


 唐突に後ろからぶつかられて、危うく持っていたノートを投げ出しそうになった。

 やれやれまたか。

「危ないなあ。もうちょっとで階段から転げ落ちるとこやないか。俺を殺す気か」

 ニコニコしながら後ろに立っているのは、同じクラスの津並美香だった。


「今度はなんや?」

 美香は、まだなにも言わない。

 ボーイッシュな髪型に大きな目がチャーミング。

 生駒は、フゥーと大げさなため息をついてから、立ち去ろうとした。

 が、美香は後ろからすばやく生駒の袖を取ってくる。


 数ヶ月前に美香に同じことをされたときには、心が波立ったものだ。

 女の子と腕を組んだり手をつないだりすることは、たまにはあった。好きな子が相手ではなくても、クラスの大勢で奈良公園にピクニックに行ったときなどは。

 いわば、おおらかな若人の楽園にでもいる気分になったものだ。

 ふたりきりのときには恥ずかしくてできないことが、友達と一緒のときなら冗談として許される。

 しかし、校内で美香に袖をつままれたまま歩くという照れくさくて頼りない接触は、腕を硬直させ、指先ひとつで体全体を押さえ込まれたような気分だった。


「なあ、頼むから、突き飛ばす挨拶というのは止めてくれないかな。しまいにむち打ち症になるかも」

「そうやね。でも生駒くん、案外、喜んでたもん」

「アホいえ。それとな、袖をつまむのも、格好悪いからやめろ」

「シャイだなあ。妹みたいでいいやん。だいいち、学校の中で腕組むわけにもいかないでしょ」

「一緒のことや。いいから、放せ」

「はいはい。ねえ、知ってるでしょ。朱里と木下くんのこと」


 これは生駒にとって、避けて通りたい話題だった。特に美香に追求されるのは。

「先週の何曜日やったん?」

「なにが?」

「ダメ、ごまかしても。聞いたんやから。生駒くんと木下くんが、朱里の家まで行ったこと」

「誰から聞いた」

「誰でもいいでしょー。あれ、これって秘密なん?」

 生駒は階段を降り始めた。美香にまだ袖をつままれている。


「それで、どうやった? 朱里には会えたん? ねえねえ、なぜそんなことしたん?」

「おまえが自分で木下に聞け」

「そんなことできるわけないやん。生駒くんやから聞いてるんやんか」

 美香が、袖を右へ左へと引っ張った。通り過ぎる生徒が見て見ぬふりをしている。生駒の耳たぶが熱くなっていた。

「だから、放せって」


 生駒はあの夜の出来事を話すつもりはなかった。というより、人に話すような特別なことはなにもなかったのだ。

「ねえ、隠すようなことなん?」

 食い下がってくる美香。

 この女生徒が付き合っている木下は、生駒の級友だった。

 しかし実は、調子のいいやつ、という少し不愉快な感情も併せ持った友情である。ただその感情が、軽い嫉妬かもしれないということに、生駒は気づいていた。


 先週の休日に、その木下が朱里の家に行ってみることを思いついたのだ。

 もし、家の外からでも朱里の気配を感じることができれば、彼にとって満足できる成果だった。

 いわば、子供っぽく、少々気の弱いアドベンチャー。

 ただ、もし朱里に姿を見られたなら、みっともないことこの上ないし、軽蔑されるかもしれない。あるいは警戒されるかもしれない。そこで、ちょっとした街遊びの延長であることを強調するために、生駒を誘ったというわけだった。

 生駒は気が進まなかった。

 しかし、本心はどうだったろう。

 アドベンチャーの標的は朱里だ。興味を持ったことも事実で、結局は、その他愛ない企てに付き合ったのだから。

 そして今になって、予想通り生駒は自分の軽はずみな行為に幻滅していたのだった。


 生駒は階段の踊り場で立ち止まった。

「なんで俺に聞く?」

「そうねぇ……、あなたが私の友達だから、かな。それに生駒くん、朱里のこと、好きなんでしょ」

「な!」

「いいじゃんか! むきにならなくても! ねえ、お願いやから、あなたの友達を、青春の悩みから解放してよ」

「思いつきで、だれかれが好きやなんて、あんまり言いふらすもんじゃないぞ。いいか」

「はーい。でも、それってどういう意味?」

「うるさい!」


 どうせ木下が、自分から美香にしゃべったのだろう、もしかしたら生駒に頼まれて付き合ってやったとでも言ったのかもしれない。急に腹立たしくなってきた。

「この前の日曜。自転車で朱里の家に出かけた。木下がどうしても頼むって言うから、付き合ってやった。えらい迷惑や。木下は朱里の家の近くやからいいけど、俺は」

「何時ごろ?」

「晩の八時前」

「それで?」

「家の前まで行った。それでおしまい。あいつ、朱里を呼び出すわけでもなく、電話するわけでもなく、まして忍び込むわけでもなく、ちょこっと家の様子を見ただけ。すぐに帰ってきた。あほらしい」

「それで木下くん、どんな感じやった?」

「どんなって」

「だからさぁ、うれしそうやったとか……」

「んなことは、おまえが自分で聞け。だいたい、この話、木下から聞いたんやろ?」

「え、なんでよ? まさかあ」

「ちがうんか?」

「ううん、ちがうよー」

「なら、誰から聞いたんや?」

「朱里」

「嘘つけ!」

「あのね、朱里は知ってたよ。生駒くんと木下くんが、て・い・さ・つに来たって」

 生駒は顔に血が昇るのを感じた。

「てっきり、朱里に会ったのかと思ってたのに」


 生駒はその場を退散した。顔のほてりを美香に悟られたくなかった。

 恥ずかしさで足がもつれそうだった。

 教室には戻らず、そのまま校庭に出た。風にあたりたかった。


 校庭の向うに通天閣が見える。

 渡り廊下にクラリネットのケースを抱えた女子生徒。

 音楽教室のある別館に歩いていく。

 朱里だ。

 と、朱里は藤棚の下のベンチに座り、生駒に気づいて、大きく手を振ってきた。


 優が挟んであった写真をつまみ出した。

「これは?」

 生駒は朱里の前の学校での写真だろうと説明してやる。

「どういう理由かは知らないけど、誠光学園高校に一年行ってから、エビ高に転校してきたんや。朱里は俺よりひとつ上」

「ふーん。これさ、裏、見て」

「ん?」

「物騒なこと書いてある」

 並んだイニシャル。

「殺人予告」

「ええっ!」

 確かにSA・TU・JN・YO・KO・KU。

 六人の女子生徒の名。

「古いインクだ。たまたまだろ」と、柏原がにやりとした。

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