18 あの日にかえりたい
そして数日後。
『サボテン
サボテンとは、自分の意志で動くことのできない、つらい生き物であることよ。
あの腐れガキ猫に幾度転がされたことか。テーブルから落ち、鉢から抜けて、根を剥き出しにしたときの痛みと心細さは誰にもわかるまい。
育て主はそのたびに植え直してくれるが、たいがいのことではへこたれることのないわしでも、これほどまでに幾度となく傷つけられ、もはや根がなくなってしまっては生きてはいけない。
せめて、体皮から水分を補給しようとがんばってはいるが、いかんせんこの暑い夏のこと、蒸発していく割合の方が高い。体内に蓄えてあるものがなくなったときが、わしの最期となる。
ごみ箱に捨てられる日まで、あとどれくらいか。
長くはない。
死ぬ間際に、まだ周りが見えるうちに少しだけ記録に留めておこう。
わしが植えられている鉢は、机の上に置かれている。
直射日光があたらないのが以前のわしの悩みだったが、今のこの身ではむしろそれがありがたい。
机の上には、わし以外はノートパソコンが置かれてあるだけだ。
育て主は徹底した整理好きだ。机はもちろん、部屋中を常にきちんと片付けているのだ。あの腐れ猫にかき回されるのがいやで、収納せざるをえないのかもしれないが。
客がまれに来ることはあっても、それが女であれ男であれ、泊まっていくことはない。
テレビを見ることはめったになく、クラシックのレコードを掛けていることの方が多い。
本棚には様々なジャンルの本が並んでいるが、文学作品は多くはない。最近の文学賞受賞作品が少々と、著名作家のミステリーが数冊あるだけだ。
六月七日』
掲載されている写真には、貧弱な丸いサボテンが小さな素焼きの鉢にのっかっていた。
その後方に、ピンボケのパソコンと人の手が登場していた。パソコンを操作しているその手も、一部見えている腕も、なんとなくふっくらとしているが、男女の区別はつけようがない。パソコンは黒いノートだということがわかるだけ。ディスプレイにもなにが表示されているのかはわからない。
背景には、白い壁がぼんやりと写っているだけだった。
優が危惧したとおり、第一話の猫のページは、すでに削除されていた。
『子供
ああ、あの人なあ、スイミング行ってやんねんでぇ。僕らと同じスクールの。そやから知ってるんねん。
大人のクラスやから、どんなこと習うてんのか、よう知らんけど、僕らのクラスの横で、ずっーとクロールで泳いではる。
えっ、スイミングスクールの場所?
団地の横の道をずーと行くねん。そんなことより、家を知ってるで。あのマンションや。
なあなあ、あの人、おもろいねんで。
大人のくせに、僕らが噴水のとこで遊んでたらな、バトミントンしょうか言うて、ラケット持ってきてくれはるねん。ほんで一緒に遊ぶねん。
バトミントン、まあまあ上手や。
僕らか? 学校から帰ったら、たいていこの辺で遊んでるで。
六月十三日』
文章は短かったが写真はあった。
団地の中庭らしきところに、直径二メートルくらいの噴水池のような建造物があった。
水は出ていない。その回りを数人の子供達が走りまわっている。
周囲の緑は豊かで、レンガ舗装の上に十分な木陰を作っていた。古い公営住宅をイメージさせた。
そして、今回はもうひとつ写真がついていて、緑色のスイミングキャップをかぶった人物がクロールで泳いでいた。
この話で基本的な属性が推測できた。ひとり住まいの、たぶん女性……。
オルカには荒井由美の「あの日に帰りたい」が流れていた。
柏原がブログを黙読している。
生駒は、「青春の後姿を人は皆忘れてしまう、あの頃の私に戻ってあなたに逢いたい」という歌詞を、心の中に転がしていた。
「もう間違いないよ。これ、朱里さんにも来てたんやね。……ということは、『幸田さん』は、ノブと朱里さんと弓削さんの共通の友人ということになるやん。で、スイミングに行くんやから、やはり女性かな」
「どうかなぁ。ということは、コナラ会の女性陣のひとりですか」
弓削が眉をひそめている。
「大阪で有名な山の近くに住んでいる人よ」と、優が手帳を開く。
「えっと、佐藤恵さんは奈良の帝塚山。上野月世さんは都島区か。第一話のときに、自転車で山の麓まで行く話があったけど……」
立ち上がり、カウンターの後ろに回って、弓削の後ろからパソコンを覗き込もうとする。
「都島区からは、ちょっと無理かなぁ。帝塚山からなら、生駒山に……」
「それもきついやろ。それに、夜遅く駅前の食堂で晩飯を食ってるというのは、恵じゃない。旦那も子供もいるんやし」
「そうやねぇ。じゃあ、それ以外の女性陣?」
「関西にいてる奴でも、最近は、とんと付き合いがないからなあ」
「ノブの方は付き合いがなくなったと思ってても、向こうはそれほど遠い存在と思ってないのかもしれないやん」
「うーん。どうにもこうにも、ぴんと来ないなあ。それになあ」
生駒たちの共通の友人という説は、少し考えると欠点があるということがわかる。
つまり、『幸田さん』が朱里と友人で、かつ生駒とも友人であっても、三人が共通の友人同士だとは限らない。弓削が入って四人になっても同じことだ。
生駒や朱里、弓削はいわば同業者。
互いに知らないけれども、共通の友人がいる可能性はある。
それに、『幸田さん』は友人という言葉を使っているが、友人というほどの仲ではなく、知人という程度かもしれない。それなら範囲はぐんと広がってしまう。
とてもコナラ会メンバーに絞り込めるものではない。
しかし、このブログの記録が朱里のパソコンに保存されていたことは事実であって、これを素通りしてしまうわけにもいかない。そもそも、朱里の事件に関係するものかどうかも分らないが。
「あ、そうか! もしかすると、朱里さん自身ということもあるやん。ウェブページを、記念にファイルとして保存しておくかもしれないし」
優が、もっとよく見ようと体を乗り出す。胸を押し付けられた弓削が、たまらず「代わりますよ」と顔を赤らめた。
優は自分で手を伸ばし、落ちてくる髪を耳の横で押さえながら「station. files」というフォルダの中の画像を開いた。
「ねえ、ノブもこっちに来て見たら?」
やれやれ、と生駒は立ち上がったが、パソコンを覗き込むなり、素っ頓狂な声を上げた。
「ありゃ! この写真、もしかして住道駅? おい、弓削、どう? ほら、この」
画像は駅のコンコースらしきところを写し出していた。
雑然としていて、いろいろなものを捉えている。
何の変哲もない近代的な建物の内部で、床は白っぽいタイル貼り。素材はわからないが天井も白。光線の加減かもしれないが、柱や壁は肌色のように見える。画面の右手には屋外ヘの出入り口が並んでいるが、露出オーバー。白く飛んで、景色は分からない。
「どうも、そんな気がするんやけどなあ」
「そうですねえ……」
画像の中央に男性らしき人物の後ろ姿が比較的大きく写っていた。
派手な縞模様のワークシャツにジーンズ。白いスニーカー履きで手ぶら。
無帽で髪は短く刈り上げ、中年太り。
男の前方に、旅行のチラシのようなものを差し込んだラックが三本。
その先にはワゴンと、青い帽子をかぶった女性店員とスーツ姿の男性客。
百円、ケーキ、タイムサービスと大書きした緑地に白文字の幟。
さらにその遠方に、駅の自動改札機が見え、横には売店がある。
天井から吊り下げられた丸い時計が、五時二十分を指していた。
掲示板の前には数名の人物。
画面の手前左側には、喫茶店のような店の窓の一部と、ピンク色の幟の裾の一部が写っている。
駅には違いない。
しかし、鉄道会社名や駅名など、場所を具体的に示すものは画面に入っていない。
「そうかもしれない……。でも、よくわかりません」
優があっさりその画像を閉じ、「clarinet」というタイトルのフォルダを開いた。
「これはクラリネットの話か。ね、ノブは何番目まで読んだっけ」
「忘れたよ。たぶんスイミングの話」
優が再び「station」の画像を出した。生駒はまた言う。
「やっぱり住道駅や。この店、『ホットマインド』のように見えるし」
柏原を真中にして、四人は顔をくっつけるようにして、画面を覗き込んだ。
店の設え、改札口まわりの雰囲気、外部への出入り口との空間的構成……。
「住道からなら、生駒山の麓まで、自転車で行こうと思えば行けるかな」
「じゃ、朱里がこのブログを……」と、柏原が唸る。
このブログには重大な事柄が隠されているのかもしれない、『幸田さん』が誰なのかを突き止めなくてはいけない、と生駒は思った。
優がピンと張った声で次のファイルを読み始めた。
『クラリネット
私はこの楽器を何度やめようと思ったことか。
小さいころから習い始めたものの、自分で満足できるほどには上達しない。
今は小さな社会人バンドに入って活動してはいるが、発表の場がそれほどあるわけでもなく、練習にも行ったり行かなかったりで、熱が入らない。
燃えるものがないのだ。
ではなぜ続けているのか。
趣味だから?
楽器の手入れをしていると心が休まるから?
楽器のできない人に対してかすかな優越感が持てるから?
かすかな優越感……。
そうかもしれない。決して褒められた理由ではないが。
先日、珍しく京都のバーで出演していたときのことだ。
演奏後に、客席から私にだけお呼びがかかった。
きちんとスーツを着こなした紳士が、私のために注文をとってくれた。
こういうところで聴くクラリネットって、珍しいですね。
今の演奏、とてもよかったですよ。
こんな店では、単にバックグランドミュージックとして演奏しているだけですから、心に響く演奏をする人は少ないですよね。
耳を傾けている人も少ないですし。
でも、あなたの今の演奏を聴いて、ほのぼのとした気分になりました。
そう言って、私の演奏を賞賛してくれた。
ただそれだけのことだ。
でも、私はうれしかった。
つかの間、ちょっとした演奏家のような気分になれた。
では練習になぜ熱が入らないのか。
改めて考えてみると、この楽器には苦い思い出の方が多いように思う。
練習に明け暮れて、若い日々を台無しにした高校時代。
報われなかった努力。
そうだ。
しばらくこの楽器から離れよう。
そして、今新しく挑戦しようとしているものに集中しよう。
六月二十一日』
黒いクラリネットの写真が付いている。
「そういや、高校のとき、朱里は吹奏楽部に入っていたぞ。クラリネットをやっていた。お、これこれ」
生駒は隆之に借りてきたアルバムを取り出した。
柏原と優と弓削が、ものめずらしそうに生駒や朱里の昔の顔を眺めた。
校庭の藤棚で撮影された集合写真……。
「あ、これ、朱里さんですね」
「ノブも、こんなにスマートやったんや……」
「しみじみ言うなよ」
オルカのBGMが移り変わっていく。
八神朱里が、思い出は美しすぎて、と歌っていた。