17 黒猫
その日の夕方、生駒がオルカに着くとすでに弓削と優が座っていた。
「聞きましたよ! 三条さんは生駒さんの恋人だそうじゃないですか。ひどいじゃないですか! 隠してるなんて」
弓削がニヤニヤ顔だ。
「柏原! 喋ったんやな!」
「いつまでもごまかせないだろ。でも、正直に話せというのはユウからの申し入れだぞ」
「そうやん。いつまでも先生なんて言って、しゃちこばって話せないやんか」
「でも、恋人というのはやな……」
「さあ始めようか、生駒先生。早速パソコンの遺書を見てみよう」
すでにカウンターの上に、朱里のパソコンが置かれてあった。
緊張するなあ、と電源を入れた。
デスクトップに、ワード文書のショートカットが用意されていた。タイトルは「皆様へ」となっている。
開くと、A4横書きの平凡なレイアウトで、比較的大きな文字が並んでいた。
弓削が声に出して読み始めた。
『お友達や仕事の仲間達へ
皆さん、本当にありがとうございました。
これまでの暖かい友情に、とても感謝しています。
私の人生は、これまでのところずいぶん調子よくいっているように思っておられる方もありますが、本当のことを申しますと、私自身はいつも不安でした。
自分には本当の実力がないことがよくわかっていたからです。
多くのすばらしい先輩や同僚、そして素敵な友達に恵まれ、皆様の御厚情に支えられていたからこそ、ここまでやってくることができたのだと思っています。
皆様からいただいたご助言やご指導、私のためにしてくださったことのひとつひとつが思い出されます。
感謝の言葉もありません。
ただ、たいへん自分勝手な受け取り方ですが、本当の実力のない私にとって、そのような皆様のお気遣いに甘えることが、いつしか私自身のわずかな自信をますます喪失させることにもなっていたのです。
おほめをいただくことがあれば、それには値しないと、時として挫折を味わうような気分にさえなっていたのです。
私は、自分を追い込んで再出発しようと決心しました。
今まで教えていただいたことを活かして、新しいスタイルのビジネスにチャレンジしようと、お世話になった会社を辞め、開業の準備を進めてきました。
精一杯やってきました。
でも、やはりここでも、手を抜いていると指摘する自分自身の意識があって、これを打ち消すことがどうしてもできないのです。
うまく表現できませんが、冷静に自分を見つめているもうひとりの自分を納得させるためには、もっと一生懸命にするしかない、そのように追い込まれた気分になるのです。
しかし私は、自分の力の限界が分かっていますから、その頑張りの成果は不充分なものでしかないということもたちまち明白になるのです。
毎日が消耗の日々です。
疲れました。
ここ数日は、もうどんな小さな気力さえ沸いて来そうにありません。
生駒さん、せっかく励ましていただき、多くのご助言も頂いたのに申し訳ありません。
私も節目の年齢になりました。と、いうわけでもないのですが、もう、すべてを清算したいと思います。
月並みな言い方ですが、お世話になりました。ありがとうございました。
どなたか、勝手なお願いですが、新潟の家族に私の暮しぶりや、元気で幸せにいたことを伝えてくださいませんか。よろしくお願いします。
○○年八月四日 中道 朱里 』
生駒はしばらくものが言えなかった。
柏原は宙を睨んで、目の玉を前後左右に動かしていた。
生駒はもう一度自分で遺書を読み返し始めた。唐突に、柏原が声を張り上げた。
「おいおい生駒、なんともおまえ、複雑な顔をしているぞ。しっかりしてくれよ」
「……」
「惑わされたのか! そもそも、今こうしているのは、おまえの勘から始めた話だからな!」
と、快活に吼えた。わずかに微笑んでさえいる。
「さぁて、せっかくだから、他にどんなものがあるか、見てみよう。弓削、すまないけどそれ、こっちに下ろしてくれないか。自分で探したい」
柏原が調理台の受けに置かれたPCを前にして、早速ファイルを開き始めた。弓削もカウンターの内側でパソコンを覗き込んでいる。
生駒は朱里の遺書といわれている文書を、朱里自身が書いたものとして意識しながら聞いてしまった。
朱里の死を、なんとか食い止めることはできなかったのか、とさえ思ってしまった。
柏原に指摘されて我に返ったものの、心のひだを振るわせた風は容易にやみそうにない。むしろ朱里自身が書いたものであるという当たり前の結論でいいのではないかという気にさえなった。
遺書の中には、確かに本当の実力がないとかもうひとりの自分とか、消耗の日々とか、わざとらしい言葉が並んでいる。いつも真剣で、少し大げさな彼女自身の言葉と思えなくもない。自分はとんだ思い違いをしていたのではないか……。
しかし生駒は、意識して軽い口調で声をかけた。
「なにかおもしろそうなものが見つかったか?」
「まあ待て。ん? 生駒、まだ迷ってるのか。情けないなぁ」
困惑が声に出ていたのだろう。
自分の迷いを口にしなくては、気持ちが収まらなかった。
「しかし、さっきの遺書はよくできていたぞ」
「ふん」
「仕事のこととか、俺とのこととか、なかなか……」
柏原が顔を上げた。
「あのなあ。僕には、あの遺書は朱里が書いたものじゃないという可能性が高まったとしか思えないけどな」
「だから、なぜ?」
「どうにも説明くさい」
「まあ、そうやけど……」
「それに節目の年齢ってなんだ? あいつは五十一歳。それに遺書の最後で、なぜおまえに謝ることがある? 変だろ。謝ったり礼を言う相手なら、三好や出資者の大迫じゃないのか?」
「うん……」
「それに見てみろ。パソコンの中身。マイドキュメントもDディスクもスカスカだ。サラピンのパソコンじゃないのに。誰かが手当たり次第に削除したという臭いがプンプン」
生駒は食い下がった。
「しかし、これをどうしてあいつ以外のやつが書くことができたんや? あいつの部屋に誰が入ることができたんや?」
優が指摘する。
「思いつきを言ってもいい? 親しい間柄なら、鍵を渡しておくこともあるよ。特に、近くに住んでいる人に。万一鍵をなくしたときに便利やし」
ちらりと弓削を見るが、平気な顔をしている。男性である自分は該当しないといいたいのだろう。
「さあ、生駒、もういいかな。そんなことより、朱里はミステリーを書いてたんか?」
「そういや、朱里さんの部屋に、何冊か推理小説がありました」
話題転換を歓迎したのか、弓削が朗らかに言う。
「なるほど。おまえら、いつまでもそっちでふんぞり返ってないで、これを見てみろ」
優は立ち上がりかけたが、柏原の周りにスペースがないのを見て座り直した。
「みんなそっちに行ったら窮屈や。何か知らんが、読みあげてくれ」
生駒は遺書の文面の検証は後で考えることにして、柏原が読み始めようとするものに意識を集中することにした。
「よし。このファイルはDディスクのミステリーというフォルダの中にある。ウェブページだ。青いイーマークのやつ。「cat」とか「plant」とかのタイトルがついている。並んでいる順番通りにまず「cat」からいくぞ」
前かがみになって画面を覗き込み、
「ご挨拶。突然の葉書に驚かれたことと思います」と、読み始めた。
「……そうですね、ミナミの『はり重』くらいかな。だめだった人には……」
「ちょっとこれ、ノブ!」
生駒にも、以前聞いたことがあるような、という不思議な感触があった。そして『はり重』の名前を聞いた途端に思い出した。
「これ、あのブログよ!」
生駒は両手をカウンターについて、聞きのがすまいという態勢になっていた。
柏原が読み進む。
「間違いないよ。一字一句同じものかどうかは別にして、これは数ヵ月前のあの風変わりなブログ『幸田さん』やん!」
「あ、これ! 僕のところにもはがきが来ました!」
と、弓削も声をあげた。
六月の初旬、梅雨前の快晴の日のことだった。
Pフラットで気持ちのいい風に吹かれながら、優はジンジャー、生駒はアイスティーを楽しんでいた。
「ちょっとこれ見てみ。今日来たんや。怪しい感じやろ」
取り出したはがきに、優が目を走らせた。
「私の友達にもこんなのがいるねんなぁ。自己紹介みたいなホームページやブログを開設して。匿名でそんな自己紹介をしても、意味ないと思うんやけど。でさ。遊び心を出して、そのホームページの開設者が誰かを当てろと言うねんやんかあ。ま、新手の自慢話やね。たぶん、これもその手のお誘いとちがう?」
「へぇー、ホームページの開設なんぞ面倒なことをやっておいて、まだその上に、こんな面倒くさいことをするやつがいてるのか。よっぽどの暇人か」
「暇やからというんやなくて、ちょっとした遊びなん。それにホームページの開設なんて面倒でもなんでもないよ。ブログならもっと簡単。いいやん。たぶんこれ、ノブの友達なんやから、付き合ってあげたら?」
優が官製はがきに視線を戻す。表は手書きで丁寧な文字が並んでいる。裏の本文はプリンターで打ち出されたものだ。もちろん差出人の名はないし、消印は大阪中央郵便局となっていた。
いい天気だった。
空は快晴。
テラスの横を人工の滝が流れ落ち、風向きによっては水飛沫が飛んで、木々の葉を濡らしている。
「ねえノブ、たぶんね。このはがきの人は華道関係か……」
「何を考えているのかと思ったら、そんな暇なことをやってたのか」
「満ち足りてこそ、ミステリーを楽しめるんよ」
「で、暗号の解読か?」
「そう。このURLのアカウントが『kouda-7』でしょ。コウダナナ、幸田奈々っていう人いる?」
滝の水をくぐり抜けたひんやりとした空気が流れてきては、生駒や優の顔を撫でていく。
「おらんぞ、そんなやつ」
「でもこれじゃ暗号にならないし。アルファベットを並べ替えると華道にもなるわ。でなければ、ひとつひとつの文字にバラバラの意味があるのか。例えばkはキッチンで、oはオフィスで、uはユニットバス、ダイニングでアトリエか……、ん?」
「もう止めとけ。せっかくのんびりしてるのに、そんなことに頭を使いたくない」
しかし、生駒も部屋に戻った途端、優が『幸田さん』と名付けたそのホームぺージを早速開いてみたのだった。
『幸田さん』は、ブログだった。ブログタイトルは無題。
『こんにちは。突然のはがきに驚かれたことと思います。
怪しいことに係わり合いになりたくない、と思われたことでしょう。
でも私は、あなたがよく知っている友人ですから、安心してください。
まあ、もうここにご訪問くださったということは、半信半疑であっても、一応は信じてもらえているということでしょうね。
結論を言うと、私は、「私は誰でしょう」という単純な遊びをしてみたくなったのです。
これは、ただその遊びのためだけのブログです。
いわゆる日記風です。期間限定二ヵ月くらい、最低、五、六回位は続くかな、と思っています。
このブログの開設者、つまり私が誰か、最初に分かった人には夕食をご馳走しましょう。
そうですね、ミナミの『はり重』くらいかな。\(^o^)/
だめだった人には、なにもありませんm(_ _)m。
私の暇つぶしに付き合っていただくわけですから、当然、参加費は不要です。
ちなみに、葉書は十人ほどの人に出しました。関西在住の人ばかりです。皆さん同士は必ずしもお知り合いではないかもしれません。
では始めます。第一回目は猫の話です。
よろしくお願いします。早く私を見つけてくださいネ。
猫
私は飼い猫である。
猫は人につくのではなく、家につくと言われているようであるが、必ずしもそうではない。
あの人、つまり食事と寝床の用意とウンチの処理をしてくれる人、は私を連れてこの街に引っ越してきたが、私は前の住まいに帰りたいと考えたことはない。そう考えないのは、私がまだとても若いからなのかどうかはわからないが。
私とあの人の住まいから、山がよく見える。あの人はバルコニーに出て、山を眺めることができるここを気に入っている。大阪に住む人なら誰でも名を知っている山だ。
あの人は、いつかは富士山に登ることを楽しみにしていて、その手軽なトレーニングとして、あの山にちょくちょく登っているようだ。私には、なぜそんなことが楽しいのかわからない。
先日、私も自転車の前カゴに入れられ、もう少しでその麓まで連れていかれそうになった。マンションを出て、数十メートル行ったところで危険を感じ、カゴから飛び降りて一目散に家まで帰ったが、可愛げのないやつと思われたかもしれない。
あっ、ということはやっぱり私も「家につく猫」なのかもしれない。
さて私の行動範囲は、まだそれほど大きくはない。
我々が住む、いわゆるペット飼育可能マンションと言われる、猫や犬にとってはなんともやりきれないネーミングの建物のバルコニーづたいに、近所の家を一軒ずつ覗いてまわることにずいぶん日数をかけたからである。
しかし、ようやくその近隣確認作業も終了し、いよいよ街に繰り出したところだ。とりあえずのところ、あの人が立ち寄るようなところは探索済みだ。
最もよく立ち寄るのは言わずとしれたコンビニエンスストア。
それからスーパーマーケット。そこで私のフードを買う。クリーニングを出したり、雑貨、日用品を買うのもそこだ。
それから、パチンコ屋の前の青いのれんの食堂で、たまに夕食をとっている。
私はあの人の外出中は外に出されている。あの人が帰って来るまでまともな食べ物にありつけないだけでなく、部屋に入れないのだ。あの人は夜遅い日に限って、その食堂に行き、なかなか出てこない。困ったものだ。
最後に私の自己消化胃、いや紹介をしておこう。
近所の人達から、かわいいといわれている黒い猫。避妊手術を受けさせられた。名前はルーと呼ばれている。
六月二日 』
メッセージの後には、大写しにされた猫があくびをしている写真が掲載されていた。黒い毛並みの猫で、尾は長い。細身の赤い首輪。コンクリートの上で撮影されているが、場所を特定できるものは写っていない。
始めたばかりのブログは、これだけの内容だった。
イラストやお奨めリンクやブログパーツの類は一切なく、白い背景に普通のフォントの明朝文字だけが並んでいた。
この情報だけでは開設者の見当さえもつかなかった。
優が念のためにと、ページを丸ごと保存した。
「大阪で誰でも名前を知ってる山って、金剛山、生駒山、信貴山、二上山、六甲山、比叡山、えっとポンポン山、愛宕山……」
「ユウもなかなか詳しいな。でも、最後の方は誰でも知っているわけやないし、比叡山や愛宕山はバルコニーから眺めるっていう印象の距離じゃないな」
「でも、大阪に住んでいるとは言ってないよ」
「ん、そうか」
「でも、大阪に住んでいる人ならって断ってあるところを見ると、やっぱり金剛山、生駒山、信貴山、六甲山くらいが妥当なところかな。あ、まさか茶臼山!」
「どこよ、それ」
「知らんのか!」
それ以降、『幸田さん』はほぼ一週間ごとに更新されていったのだった。