プロローグ
「ユウ、ホットケーキ、食いに行こか」
優は生返事をしたまま、モニターに映し出された文字の多いページを読んでいる。
「このミステリー、出だしがねぇ、いまいち」
英国風景庭園ミステリー 「水霊の巫女」
ユーアイ
ランタンの淡い光が足元をわずかに照らしだす。歩みとともに、地下通路のごつごつした石肌に複雑な形の影が揺れる。ゴウゴウと音がこだまして、近くに水の流れがあることを知らせている。
少年は心細くなって振り返る。通ってきたばかりの細い通路は既に一面の闇に包まれ、遺跡の薄暗い広間はすでに見えない。
「ロン。大丈夫?」
「はい! お嬢様!」
「また、他人の投稿作品に文句つけて。いっぺんくらい自分で書いてみたらどうや」
「ヘン! 書く趣味はなし」
「ふん。さ、行こ」
生駒は窓に顔を近づけて日差しの強さを確かめた。正面に見える超高層ビルの外壁に、夏の太陽が反射して眩しい。
ビルを覆うカーテンウォールのガラスに、実際よりも濃い青空が映っている。
ガラスが一枚ずつわずかに傾いているのか、映り込んでいる薄い雲が、モザイクのようだ。
近くにそのビルができてからは、アネックス棟の一階にある喫茶店「Pフラット」で、優とブランチ代わりのホットケーキを食うのが生駒なりの休日の寛ぎ方になっていた。
緑に囲まれたオープンカフェでは、平日ならプロムナードを行き交う人たち眺めることができるが、生駒と優が訪れる土曜や日曜日は閑散としていて、それはそれでのんびりと落ち着いた時間を過ごすことができる。時折、近所の少年達がスケートボードで通りすぎるだけだ。
齢五十の、腹だけ中年太りの男がホットケーキを食うのは、優に言わせると、自然体でいい感じということになる。
しかし生駒の方は、オフのときに体裁を気にするつもりはないし、ガールフレンドのそんな反応を期待してのことでもない。子供のときに母親がフライパンで作ってくれた固い蒸しパンのような代物ではなく、喫茶店のふっくらとしたホットケーキに憧れた記憶を単にもてあそんでいるだけのことかもしれない。
じゃ、行こうかと優が腰を上げたとき、電話が鳴った。
「出るな!」
優の手はすでに受話器を上げていた。
「はい。モノ・ファクトリーです。……はい、生駒ですね。代わります」
事務所に架かってきた電話には出るなといっても、優はいつもおもしろがって手を伸ばす。
夜遅い時刻の電話には、主人は……などと言い出すのではないかと気が気でない。
「警察から。なんかしたん?」
警察が何の用だ、俺は優良ドライバーだぞ、と多くの人が示す反応と同じように、生駒は警察と聞いただけで慎重な声になった。
「はい」
「生駒延治さんですか。河内警察署の西畑というものですが、突然ですみません。少しお聞きしたいことがありまして、そちらに伺いたいんですが、今からお時間はよろしいですか」
「はあ……、かまいませんけど」
ホットケーキを食ってから、とはさすがに言えない。
「それじゃぁ、すぐにまいりますから」
と、相手は電話を切ってしまった。
西畑という男の、少しくだけたようなものの言い方と、ぶしつけにさえ聞こえる快活な声色に、生駒はかすかな苛立ちを覚えた。
「なんやて?」
「さあ。聞きたいことがあるらしい」
「ふーん、事情聴取か。楽しみやね。ハハッ、顔がこわばってる。初めて?」
「当たり前やろ」
生駒の顔に出た不安をおもしろがって、優がニヤニヤしている。
「いつ来るん?」
「今から。失礼なやつ」
失礼かどうかは来てからわかるやん、と生駒の胸を突つき、エアコンのスイッチを入れた。
「テープレコーダでも用意しとこうか」
「あほか」
チャイムが鳴った。もう来た。西畑はマンションの下から電話してきたのだ。エントランスにオートロックがないと、どんな客でもすぐに玄関まで直接来てしまう。
快活な声の印象とは違って、西畑はのそりとした風采の男だった。
四角い顔にふさわしい大きな目が、どことなくかわいらしい印象。しかし、警察手帳を見せるとはこのようにするのだというようにひょいと差し出し、うむを言わさぬ態度で玄関の中まで入ってくる。手帳をじっくり見る間もなく、どうぞお入りください、と優が招き入れてしまった。
「どうも。えっと、靴は……」
どうぞそのままで、と優が颯爽と先にたって中に案内する。
生駒の事務所は、玄関を入るとすぐに作業室兼打ち合わせ室である。心理的な結界として大きなガジュマルの鉢植えを目隠し代わりにしているだけだ。
生駒は西畑のスーツの背中についていきながら、悟られないように深呼吸をした。