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異世界恋愛短編

心を読める王子は初恋の純粋聖女を望まない

 それは、煌びやかなパーティーの最中でのこと。

 美しい音楽の流れる空間を引き裂くように、ガシャン、とガラスの割れる音が鳴り響いた。


 飛び散る破片。真紅のカーペットにワインが染み込んでいく。


 それまで心の中で聖女の品定めをしていた貴族たちも、嫌がらせをしようと企んでいた令嬢も、俺のことなんてまるで気にかけていなかった両親も。

 そして、俺の最愛の死を今か今かと待ち構えていた公爵家の姫さえも。

 一斉にこちらを振り向き――驚愕の表情で俺を見る。


 意識の空白と無理解が、そこに広がっていた。

 どうやらまだ誰一人として何が起きたのか状況が呑み込めていないらしい。ああ、滑稽だ。なんて愉快なのだろう。こんな気分になったのは生まれて初めてだった。


 これが貴様たちへの報いだ。どうだ、『道具』たる俺が死んだら困るんだろう?


 地面に倒れ伏したままで彼らを見上げ、ニヤリと口の端を歪める。

 そうしながら俺は、まるで走馬灯のように今までの短い一生を思い返し始めた――。



◆◆◆



 貧富で言えば、俺は誰よりも恵まれていた。

 この国の第一王子という地位。両親は健在だったし、生活において何一つ困らず、平穏に毎日を過ごせる。

 誰もが俺のことを羨むだろう。神に愛されているかのような順風満帆の人生だったから。


 ただ、心が満たされたことなど一度もありはしないというだけなのだ。


「父はお前を誇りに思っているぞ」

「あなたはわたしたちの大事な大事な子供なのです」


 ――そんな言葉はもう聞き飽きた、と何度も耳を塞ぎたくなった。

 だって本当は、父は俺に完璧に意志を継がせる……つまり俺を己の代替品として育て上げるつもりでいたし、母は唯一の後継ぎである俺を失って再び王妃の務めを果たすのが嫌なだけだと知っているから。


「貴方こそが次の王に相応しい」

「王子殿下の友であれて幸福ですよ」


 ――自分のことしか考えていないくせに優しげな顔をするな、そう言ってやろうと思ったのは一度や二度じゃない。

 俺の権威を利用してやろうと心の中で黒い笑みを浮かべているのが見えたから。


 何もかもがくだらない。

 かけられる言葉の通りに両親の愛があると疑わず、次代の王と仰いでくれる相手も親友もいるのだと愚かに信じられたならどれほど幸せ者だっただろうか。


 俺に授けられたこれはきっと祝福だった。まったくもって不要だったが。

 人の心の声が聞こえる。おとぎ話に出てくる魔法のようなその力によって、残酷な現実を見せつけられ続けてきた。


 俺は『王子』という道具としてしか見られていないのだ。

 唯一そうでないのは俺を恋慕い、近づいてこようとする令嬢たちくらいなものだが、己を少しでも良く見せようと醜い争いを繰り返し、恋敵をいかに蹴り落とそうかと考えてばかり。


 人間というものに失望したのは一体いつからだっただろう。誰も彼も信用できなくなった俺は己の能力を秘匿した。


 大勢の心の中を覗けば王子教育なんて簡単だったから、優等生として振る舞った。あとは令嬢たちを虜にしてやまない優しげな笑み(・・・・・・)を張り付けてさえいればいい。

 ――そんな風に考えていた俺にとって、それはただの暇つぶしでしかなかった。




 王族というのは民に好印象を与えるために奉仕活動というのをすることがある。

 どうせ良い王子を演じているのだから、たまにはそういうことをやってみるのも悪くない。


 十二歳になったある日、向かったのは、ボロボロの孤児院だった。

 中から現れた院長が俺を出迎える。


「第一王子殿下、ようこそおいでくださいました。神に感謝を」

(いかにもキラキラした服を着て、わざわざ見せつけに来たのかしら。いやらしい)


 正面から悪意を浴びせられても、俺は何とも思わない。こういうことには慣れ切っていた。


「王国の善良な民である貴方たちを支えるのは王族として当然の務めです」


 もっともらしいことを言って、孤児院の中に足を踏み入れる。

 孤児院の孤児たちは皆俺を注視した。


 王子になど近づくと何をされるかわからない。そう考えて無言で俯き、存在感を消そうとする子がいた。

 自分たちが貧しいのは王族のせいなのだからと憎悪を募らせ鋭く睨みつけてくる子も、俺に気に入ってもらえれば孤児院から抜け出せるのではと考える子供までいる始末。


 皆、齢十歳ほどである。まともな教育を受けていないにせよそれなりの知恵はついているから、心を覗けば色々考えていることがわかってしまってうんざりとした。


 ――所詮、人間の考えることはどんな場所でも同じということか。


 だが一人だけ、例外がいた。

 俺は一目でそれに気づかなかったけれど、彼女だけは確かに異質だったのだ。


「ねえ、あなた、だあれ?」


 先陣を切って声をかけてきたのは、透き通るような白い髪に、キラキラとした金の瞳の少女。

 服はボロ切れのようだし四肢は痩せ細っていたが、見窄らしいどころか形容し難い輝きを放っていた。

 こちらを見上げる動作に媚びる様子は見られない。その心の中を覗き見ても――。


(かっこいい! おうじさまなんて、すごいなぁ。どんなこなのかな?)


 打算も畏れも恐怖もそこにはなかった。

 あったのはただ、純粋なる好奇心。

 こんな無垢な心に出会ったのは初めてで驚いたのをよく覚えている。


「俺はダイオニシアス。ダイオニシアス・ギディオン・バートラム」


 彼女の綺麗な目と真正面から見つめ合った俺は、令嬢たちが大好きな優しげな笑みを浮かべながら名乗った。

 きっとこの少女とて頬を染めて俺の名を呼ぶだろう。そう思っていたのに、返ってきた反応は想像と違うもので。


「ダイオ……ラムさま?」


 辿々しく言いながらこてんと小さく首を傾げる少女。

 どうやら名前がうまくわからなかったらしい。


「ダイオニシアス」


「ダイオス?」


「……ダイオニシアス、だよ」


「うーん、わかんない。やっぱりおうじさまでいっか!」


 散々間違えた挙句、結局最初に戻ってしまった。

 というか、いくら心の中を覗いても特別に喜ぶ様子の欠片もない。それどころか、彼女は俺のことを『同世代の男の子』として見ていた。


「おうじさま、わたし、ビアンカっていうの。もしよかったらおともだちになってくれる?」


 平民が王子と友達だなんて不敬罪で首が飛びかねない話だ。

 そもそも王侯貴族と民は血の色が違うと言われていた。もちろんそんなわけはないし、俺からしてみれば国王であろうが平民であろうがどうでもいいのだが、上流階級の連中はそういうのにうるさいのである。


 でも、そんなことはお構いなしの少女――ビアンカは俺に綺麗な掌を差し出してきて。

 戸惑いながら俺はその手を取った。取ってしまった。


「ありがとう、おうじさま。これからよろしくね」


 そのあとビアンカの心の声を聞き続けたが、あまりにも裏表がなさ過ぎる。

 いくら子供といえどもこんな人間がいることが信じられないままであっという間に時が過ぎた。


 気づけばすっかり帰りの馬車に乗り込む時間。

 孤児院の庭で彼女の遊びに付き合わされて泥まみれになった俺に向かって、ビアンカは言った。


「おうじさま、またきてね」

(またあえるといいな)


 ビアンカが浮かべる笑みは邪念なんて一つもない、純粋なものだった。

 それを見せられてしまってはなんだか悪い気はしなくて――奉仕活動なんて滅多にやることではないというのに、俺は思わず頷いた。


 ――それが、全ての始まりだったのだ。




 王宮に戻ればまた憂鬱な日々を過ごさなければならない。

 俺のことなんてまともに見てくれない両親や使用人、媚びる友人たち。そんな中で思い出すのはビアンカの顔だった。


 煌めく曇りなき眼が、俺を本当の意味で友達として認識していたあの心の声の優しさが忘れられない。

 王子教育がないとある日、とうとう俺は城を飛び出した。


 と言っても、両親からの許可は取ったし護衛はついているし馬車もいる。だが行事もないのに王宮を離れるのは非常に稀なことであった。


 馬車を走らせ向かったのは、つい先日訪れたばかりの孤児院。ギョッとした顔をする院長の横を通り抜け、奥へ行く。

 そこに彼女は今日もいた。


(あ、おうじさまだ!)

「ひさしぶり。わたしにあいにきてくれたんだ?」


 久しぶりというほどではないが、俺はビアンカを懐かしく思ってしまった。

 不思議な話だ。まだたった一度しか会ったことがないはずなのに、これほどまでに安心するだなんて。


「たまたま、この付近を通りかかったからな。少しだけなら遊んでもいいけど」


 ビアンカの反応を見てみたくて、俺は軽く嘘を吐いてみる。

 しかし彼女の心は大して変わらなかった。


(そっか……。でもわざわざきてくれたってことは、わたしとあそびたかったからってことだよね)

「じゃあおねがい、おうじさま」


 眩しい。なんて眩しいのだろう。


 彼女と過ごすうち、鬱々とした気分は晴れ、年相応の子供のように遊び回ってしまった。

 周りで騒ぎ立てている心の声なんて微塵も気にならない。俺の視線はビアンカに釘付けだったからだ。


 屈託なく笑う彼女は、とても――――可愛かった。


 この頃になって確信し始めていた。彼女は両親や周りの奴らとは何かが違うのではないかと。

 しかしそんなのはまやかしでしかないのではないかとも思う。


 まだ相手のことを何もわかっていないに等しいのに気を許してはダメだ。しっかりと確かめなければ。

 一見何もないように見えても、きっと奥底には醜い欲望を抱えているかも知れない。それを暴き出すべく彼女の心を揺らしてみよう。


 それから孤児院を訪れる度、彼女の欲するものを与えることにした。

 まずは服。貧しい孤児院では食べられない柔らかなパン、それから甘いお菓子まで。


 彼女のついでに他の子供らに与えてみたら、彼らは俺のことを『恵んでくれる人』として認識し始め、途端に俺の名前を訊き出したりベタベタしてくるようになった。

 単純で分かりやすい愚か者どもだ。そして人間というのは本来こうなって然るべきである。


 けれどもビアンカはというと、俺がどれだけものを与えても優しく振る舞っても人並みに嬉しがりはするけれど、一番喜ぶのは俺の訪問そのものだった。


 明るく健気で、まっすぐな彼女。

 だがビアンカにはこれまで友達がいなかった。


 白い髪は平民どころか貴族でも滅多に見られない。それ故にどこか異質なものとして遠巻きにされてきたらしい。

 物心ついた時から親はなく院長も雑に世話をするだけ。そんな中で純粋なままで成長できたのは紛うことなき奇跡のような気がした。


(こんなにやさしくされるの、うまれてはじめて)

(おうじさまっていいこだなぁ)

(わたしもおうじさまになにかしてあげられるかな?)


 その心の声はあたたかくて優しくて、やがて彼女を疑うことをやめた。

 そうしたらあとは彼女との関係性は深まっていく一方だった。


 そこに存在するだけでビアンカは俺の心の渇きを癒してくれる。

 いつしか、孤児院に足を運んで彼女と過ごす時間を大切なものとして感じるようになって。


 時が流れて一年が過ぎ二年が過ぎて、出会って三年目の頃には、疑いようがないくらいビアンカに惹かれているのだと自覚していた。




 自分が恋をするなんて思ってもみなかった。

 初恋とはこれほど素晴らしいものなのかと驚く。


 ビアンカに出会って俺は変わったのだ。それまでモノクロだった人生が色づいたように感じられたくらいには。


 ビアンカが好きだ。好きになってしまった。

 混じり気のない心も、綺麗な瞳も無邪気な声も、何もかも。


 しかし俺は、その全てを己のものにできない。

 平民であれば……いや、せめて貴族の令息であれば心のままに己の相手を選ぶこともできただろう。王子に生まれてしまったことをこれほど悔しく思ったことはなかった。


 十五歳。

 社交デビューを迎えるこの歳、俺の婚約者候補が定まった。


 俺は唯一の王子であり王位継承権第一位。つまり結ばれる相手は必ず王妃になる。

 歳が離れ過ぎている者、王家に将来の妃として相応しくないと判断された者は真っ先に削ぎ落とされ、俺の前に並んだのは三人の乙女であった。


 一人は伯爵家の次女。もう一人は属国の王女。

 そして三人目、この国における最も力のある筆頭公爵アディリアンヌ家の姫が目を引いた。


「ダイオニシアス・ギディオン・バートラム殿下にご挨拶申し上げます。エカテリーナ・アディリアンヌでございます」


 最初に俺に声をかけてきたのは彼女だった。

 社交界の華と呼ばれている彼女はとても麗しい。お辞儀の所作は完璧そのものだったし、これ以上にない理想的な淑女と言えた。


 けれども、俺は思った。

 ビアンカの愛らしさにはまるで敵わないな――と。


 比べてしまうのはいけない。わかっていても無理だった。

 醜悪ではない人間を一度、知ってしまったから。


 もしも仮に彼女の、彼女たちの心が美しいのであれば、手を取り合って生きていく気になれただろう。

 でもそんなことはあり得ない。三人の心を覗いた瞬間、激しい頭痛をおぼえた俺は、膝をつかないようにするのがやっとだった。


 伯爵家の次女は俺の顔が目当てだった。顔がいい男の嫁になって思う存分豪遊したいという欲望にまみれている。

 属国の王女は俺に選ばれなければ父に見放されるからと乞食のような精神で挑んできている。

 そして公爵家の姫はといえば、見た目の美しさに反して清々しいまでの闇を抱えていながら、己の勝ちを信じて疑っていない。


 俺はこの中から婚約者を選ばなければならないのか。

 ……いや、選ぶのは結局のところ俺ではない。父王が認めてしまいさえすれば俺の意思など関係ないのだ。想像するだけで吐き気がした。


 そのあと三人の婚約者候補との時間をどう乗り切ったか、記憶が朧げだ。とにかく塞げない心の耳に必死で蓋をしようとしていたのだけは確かだ。


 婚約者候補ができてからというもの、彼女らとの交流の時間を持てと父に言われた。それが俺にとってどれだけ苦痛のことかも知らないで。


 だから俺はもう逃げるしかなかった。

 世界のどこよりも心安らぐ、彼女のいる孤児院へ。




「おうじさま、どうしたの?」


 ビアンカには俺の気落ちぶりが一目でわかるようだった。

 彼女を不安にさせないために気をつけていたつもりだが、全てお見通しらしい。


 彼女は心配そうに俺に寄り添い、柔らかな心の声を聞かせてくれた。


(びょうき? それともなにかなやみごとやかなしいことがあるなら、わたしがきいてあげないと……)


 俯きがちになっていた顔を上げると、ビアンカの金の瞳と視線が交わる。

 その瞬間、俺の胸の中に彼女への想いが湧き上がり……思わず、呟くように言ってしまった。


「ビアンカ、おまえは可愛いなぁ」


 その言葉を口にしたのは初めてだった。

 でも、見れば見るほど可愛いのだ。たまらなく、好きなのだ。


 なのに、どうして。


「えっと……わたし、かわいいの?」


「可愛い。おまえはこの世の誰よりも可愛くて、輝いてるよ」


 彼女の髪を撫でてやりたい。手を繋いで走り出したい。

 でもそれは許されないことだ。躍起になって俺を捜し出されるだろうし、他国に逃げれば今度はビアンカが利用されかねない。

 かと言って正式に婚約者が決定されてしまえば、こうして会うことすらできなくなってしまうわけで。


 だから――俺は、彼女に言わざるを得なかった。


「なあ、一つ、提案があるんだ」


「なになに?」


「聖女として、王宮で暮らしてみないか」


 彼女に出会ってすぐの頃に気づいてはいた。

 ビアンカが数百年に渡って発見されていない、聖女という類稀なる存在であると。


 聖女と呼ばれるのは、神からの寵愛されし癒しの力を持つ乙女だ。


 俺と二人きりで遊んでいた時、転んで擦りむいた怪我を当たり前のように自分で治しているのを見て、衝撃を受けた。

 友達もおらず、孤児院でろくに面倒を見られていなかったビアンカは、誰にもその力を勘付かれずにひっそり傷を癒していたという。


 もし力が公になれば聖女として祀り上げられてしまう。幼いビアンカに聖女の務めを強いるのは酷だろう。神の祝福という点ではきっと俺と同類だと思うが能力の使い勝手の良さがまるで違うのだ。

 彼女から話を聞いた当時の俺は、俺以外の誰にも秘しておくように言って教えたのだった。


「せいじょ?」

(だいじなおはなしっぽいけど、おうじさまのなやみとなにかかんけいがあるのかも)


「そうだ。ビアンカの治癒の力があれば、この孤児院から出られる。……俺はそのうち、ここに来られなくなるが、それならずっと一緒に過ごせるかも知れない。でもビアンカが嫌なら嫌って」


 言ってくれていいんだぞ、と続けようとしたが、その言葉は彼女に遮られた。


「そうしたら、おうじさま、えがおになってくれる?」


 きっとそれに答えを返したら、優しい彼女の選択肢は一つになる。

 わかっていながら、まっすぐな瞳に見つめられてしまっては、頷かずにはいられなかった。


「いく! わたし、せいじょになる!!」

(おうじさまとはなればなれになるのはいや。いやしのちからをつかうだけなら、わたしにもできるかんたんなおしごとのはずだもの!)


 そうしてその日、彼女の正体を明かすことが決まり。

 『今日初めて奇跡を目の当たりにした』という体で王宮に知らせてすぐにビアンカは審査され、その力が確かだと認められた結果、数百年ぶりに王国に聖女が誕生したのである。




 聖女として求められることは多い。

 傷つき、あるいは病に倒れた人々を癒すこと。国に豊穣や平穏をもたらすこと。そして聖女の存在を公に示すためのパーティーに出られるようになるための勉強などだ。

 あまり詰め込み過ぎるのはよくないと俺が教育係に言って、二年計画で勉強を進めていくことになった。


 十三歳にして初めてまともな教育を受けることになったビアンカ。彼女は最初こそ戸惑っていたが、教わったという内容を俺が噛み砕いて教えてやるうち、着実に教養を身につけていく。

 王子様の友達として恥ずかしくないようにしないといけないから頑張る、と、


「ご、ごきげんよう。この度、聖女になりましたビアンカです」

(足がプルプルする。えーっと、これでいいかな……? 間違ってない?)


 昼下がりのあたたかな陽光が窓から差し込む、王宮のとある客間にて。

 ちょこんと聖女の衣装であるローブの裾を摘み、ぎこちなくお辞儀して見せるビアンカを眺め、俺は思わず唇を綻ばせていた。


 読み書きなどの筆記ができるようになってきたので近頃は所作を勉強中だ。

 まだまだ立派と言うには程遠いが、日を重ねるごとにずいぶんと様になってきていたし、俺のためにとそこまで努力してくれたことが本当に嬉しい。

 ――たとえ、彼女の中で俺が親友扱いでしかないとしても構わなかった。


「うん、しっかりできてる。飲み込みが早いな、ビアンカは」


「王子様が教えてくれるおかげだよ。わたし一人じゃ絶対わからなかった。ありがとう、王子様」


 はにかむように微笑するビアンカ。

 礼を言いたいのはこちらの方だ。俺の勝手な想いのために聖女になってくれて感謝しかないのだ。


 彼女が王宮に来てからというもの、俺の毎日は格段と華やかなものになった気がした。

 未だ婚約者候補たちと会わなければならない時間は設けられているし、その時は頭痛がするが……ビアンカの純粋無垢な心で癒してもらえるのなら、それくらい我慢できる。

 ……だからこの時間がいつまでも続いてくれれば、それで良かった。ビアンカと共に過ごすひとときさえあれば他に何もいらないと自分に嘘を吐けた。


 それなのに。


 俺とビアンカ、そして護衛しか出入りを許されていないはずの客間の扉は、突然開かれた。

 どこまでも禍々しい心を持つ女によって。


「あらまあダイオニシアス殿下、お姿が見えないので探しておりましたら……こんなところにいらっしゃったのですね」


 侵入者――高貴なる公爵家の姫は、ビアンカをゴミを見る目で一瞥する。そうしながら一歩、また一歩とこちらに近づいてきた。


 この場所については誰にも知らせていないはずだった。

 ビアンカと二人きりで会うのが一番安心だが、それだと不貞だの何だの言われかねない。その代わり護衛を立ち合わせているものの、万が一のことさえないように護衛の心の中を覗いて常に監視している。

 もちろん公爵家の手の者が部屋の中に忍んでいるというのもあり得ないのだ。


「どうして、という顔をなさっておりますね。情報源はいくらでもございます。どれだけ隠し通しているつもりであったとしても噂というのは回るものです」

(わたくし)が手に入れられないものなど、この世で何一つとしてない)


 ゾッとするほど冷たい心の声。

 すぐ目の前で向かい合っているのにまるでこちらのことを一人の人間として見ておらず、彼女の瞳の奥には暗黒が広がっているかのように思えた。


「聖女ビアンカの頼みで彼女の礼儀作法を見ていたんだ」


「それが婚約者である(わたくし)の前に姿をお見せにならない理由になるとおっしゃるのですか」


「エカテリーナ嬢、貴女はまだ俺の婚約者候補だ」


 俺がそう言えば、美しき姫君は口を三日月型に歪める。

 歪めるだけで少しも笑ってはいなかったけれど。


「公爵家の姫たる(わたくし)以上に王妃としての素養がある者がおりまして? 所詮、出来レースでございましょう」


 それは彼女の本心からの言葉だった。そして同時に紛れもない事実でもある。

 だって――もしも他の候補が妃に選出されそうになったら、家ごと、あるいは国ごと潰す準備はすっかり整ってしまっているというのだから。

 彼女の目的は俺の妻という地位を手に入れることによって国家を乗っ取ること。そのために手段は選ばないつもりらしかった。


 それでも彼女が婚約者候補であることに変わりはない。故に、俺とビアンカの関係性の口を出せる立場ではないのだ。


「聖女とのご関係は存じ上げませんが、いつもそうしていらっしゃるのであれば少々目に余ります。お気をつけくださいませ」


 彼女にとっては神に寵愛されている聖女ですら相手にならないという認識だ。

 そして一度知られてしまった以上、俺とビアンカの憩いの時間を幾度も破りに来るのだろう。


 部屋を出ていく後ろ姿に、思い切り唾を吐きかけたくなるくらい腑が煮え繰り返る。


 俺が何をした。ビアンカが何をしたというのだ。

 王子という名の傀儡として求められているのは知っている。だからビアンカと過ごすこのひととき以外は婚約者候補とだってしっかり会っていたのに。


(……わたしのせいで王子様が怒られた? わたしが王子様を困らせてる?)


 不安そうな顔をするビアンカに、俺は「大丈夫だ」と力なく笑いかけてやるしかできない。

 そんな自分がどうしようもなく不甲斐なかった。




 俺とビアンカは顔を合わせる場所を毎日のように変えた。

 『手に入れられないものなど何一つない』と考え、実際に王家の影を買収している公爵家の姫君には全て筒抜けになっていただろうが、彼女に憩いの時間を邪魔されないための時間稼ぎにはなったと思う。


 ――だが、ビアンカと過ごしたい一心で、その代償がどうしても生まれてしまうことを俺は失念してしまっていたのだ。


 ある日、ビアンカはいつもの笑みをしおれさせていた。

 彼女の心を覗き見て……俺はゾッとする。


 朝方、差出人不明の手紙を受けて、ビアンカが王宮の一角に赴いた時のこと。

 そこに現れた公女は延々とビアンカへの嫌味をぶつけ続けたあと、脅してきたようだ。


『あなた、孤児院の出なのでしょう。(わたくし)の実家はそういった施しも行っているのですよ』

『……どういうことですか?』

『孤児風情が(わたくし)の心を乱すと言うならばそれを廃止しなくてはならなくなります。……ダイオニシアス殿下に泣きついても構いませんが、それは(わたくし)への宣戦布告となるのをお忘れなきよう』


 ビアンカは孤児院に友人はいなかった。

 でも、優しい彼女が気に病まないはずがなくて。


「ビアンカ、何かあったか?」


「……大したことじゃないよ。それより王子様、わたしね、聖女のお仕事で少し忙しくなるみたいなの。だから」


 ビアンカは声を詰まらせ、言葉を続けられなかった。


(『会えなくなるかも知れない』なんて言いたくない。だってわたし、王子様のためにここに来たんでしょ。でもあの女の子が怖い。孤児院のみんながひどい目に遭わされたらどうしよう)


 伏せられた金色の瞳から彼女の苦悶がありありと伝わってきて胸が締め付けられる。

 ビアンカが悪いことなんて一つもないはずである。彼女ほど純粋でいい子は他にいない。


 でも俺が力強い言葉をかけてやっても、手を差し伸べても、全てを聞かれてしまう。

 そうなれば我が婚約者候補に喧嘩を売ることになるわけで、それをビアンカは望まないのだ。


 ビアンカに手を出した時点で俺にとっては敵以外の何者でもなくなっていたが。


 ――どうしたら。どうしたらいい?

 わからない。何か手を打たなければならないとわかっているが、あまりに八方塞がり過ぎた。


 ビアンカも俺もお互い離れたくなくて、ひっそりと関係は継続。

 日を重ねるごとに激しくなる、敵からの悪意と警告から目を背けるように。


「ダイオニシアス殿下、最近お元気がございませんね。あなた様の大切な(・・・・・・・・)聖女様の御身に何か不幸でも?」


「いや。貴女に心配される謂れはない」


「伴侶となる方のお心を気遣うのは婚約者としての務めでございます」


 本当は己が権力を手にするための都合のいい道具としか俺を見ていないくせに、当たり前のようにそんな言葉を吐く姫君。

 まだ婚約者候補だ、と否定する気にさえならなかった。


(殿下に嫌われていようがいまいが関係ないけれど……まさか本当にあの薄汚くて頭の足りない平民が王妃の器だと思っていらっしゃるのでしょうか。そうだとすれば恋は盲目ですね)


 彼女は嗤う。

 それから――心の中でぼそりと呟いた。


(殿下も聖女もなかなかにしぶとい。脅しだけでは足りぬなら、愚かな夢を見られないように捻り潰してやらなければ)


 捻り潰す、という言葉の意味は深く探るまでもない。


(数百年も出現していなかったにもかかわらず問題のなかったたかが聖女(・・・・・)を滅した程度で(わたくし)が害を被ることなどないのですし)


 聖女は神の寵愛を受けている。

 刃物で斬られても急所を突かれても、崖から突き落とされようとも決して死にはしない。


 ――神をも殺すと言われる蠱毒を除いては。


 正体不明の猛毒。

 それの使用は固く禁じられ、その製法は数百年前に失伝したと王子教育の中で習ったことがあった。


 だが俺の婚約者候補たる公爵家の姫君は、当たり前のように蠱毒を熟知していた。


 本当に彼女がそれを入手でき、使用するのであれば。

 聖女とて容易くその命を毟り取られてしまうことだろう。


 彼女の脳裏にはビアンカの死に様が思い浮かべられていた。

 紫の顔をして地面に倒れ伏すビアンカ。癒しをもってしても助からないビアンカに手を差し伸べ、泣き縋る俺。そしてそれを高見から眺める彼女。

 他の婚約者候補に罪をなすりつけて彼女が本当に俺の婚約者となるのだ。


 ただの妄想の産物だと切り捨ててしまいたいのに、そんな風には微塵も思えない。これは現実になるという確信があった。


 想像するだけで気がおかしくなりそうだった。

 結局俺も、心の醜い人間の一人なのだ。

 ビアンカという名の太陽に照らされて初めて、俺は真っ当になれた気でいただけでしかなかった。俺の心はもう、彼女なしでは崩れてしまうほど脆い。


「エカテリーナ、嬢……」


 声が震える。

 自分でも何を言いたいのか、何を言うべきなのか、よくわからないまま口を開いてしまった。


 目の前の彼女がただただおぞましい。

 ビアンカのためにはこの女は始末しなければ。ビアンカだけは絶対に誰にも傷つけさせたくないから。


 一人の令嬢の細首を絞めるだけ。たったそれだけでいい。

 護衛に介入されるまでどれほどの猶予があるのかというのは問題ではあるが、不可能ではないはずだ。


 だが――この女を俺の手で下してしまったら、ビアンカに嫌われるのではないだろうか。


 伸ばしかけた手が止まる。

 一度考えてしまうとダメだった。


 (そんな人だと思ってなかったのに)と失望されてしまったら?

 (わたしのせいで王子様が手を汚したんだ)と気に病まれたら?


 情けない。本当に情けなくて、馬鹿としか言いようのない考えだと思う。

 たったそれだけの懸念のせいで俺はこの場で敵の首を取ることを断念してしまったのだ。


 公爵家の姫君の考えを知るのは俺一人。たとえ面と向かってその心の全てを暴き出したとして、それが一体何になる。

 きっと誰も信じはしないし、暴かれた彼女自身も全く怯むことなく計画を実行に移してしまうだろう。


 では、黙認するしかないのか。

 ビアンカを守り、かつ、禁忌の蠱毒を使おうとした彼女の罪を暴けるような方法はないのか――。


 その時ふと俺の脳裏に考えが閃いた。

 到底良案とは言えない、破滅的な解決策が。


 ……そうだ、あるじゃないか。


 このままではどうせビアンカと一緒にいられない。結ばれることはない。それなら――この身を捨てたって構わなかった。


 俺の震え声に振り返り、小首を傾げる公爵家の姫。

 俺は彼女に向かって宣戦布告する。


「貴女は俺の婚約者に相応しくない」


「あら、どういうことでございましょう。聖女様の方があなた様にお似合いとでも?」


 涼しげな顔でそう答えながらも、自分が貶められたような気分になって彼女の殺意はさらに高まった。

 これで間違いなく蠱毒を使ってくれるはずだ。次に俺とビアンカと彼女が揃う時、事件は起こる。

 

 ビアンカが聖女であると発表するパーティー、その日が目前にまで迫っている。

 せっかくの華やかな場を奪ってしまうことは心苦しい。しかしビアンカの命を守るためなのだ、この決断に後悔はなかった。




 緩やかなウェーブのかかった透き通った白髪。

 ドレスは王宮に来て以降彼女が纏っていた簡素なものと違い、ペールブルーのペチコートに純白に輝くサテン生地のガウン。胸元にはフリルと宝石がふんだんにあしらわれていた。


 その出立ちはまるで天からの使いが舞い降りたかのようだ。十五歳になった彼女はすっかり淑女としての佇まいを身につけていて姿勢すら美しい。

 目を奪われる俺に、ビアンカがくすりと笑った。


「そんなにじぃっと見て、どうしたの?」


「ビアンカが可愛過ぎるなと思ってた」


「ふふ。ありがと」

(ドレスはきつくて苦しいけど嬉しいなぁ)


 ビアンカの優しい心が俺を包み込んでくれる。

 ずっとこうしていたいと思うが、そういうわけにはいかない。今日の主役はビアンカなのである。


「じゃあ行ってくるね」


 ビアンカは近衛騎士に伴われて会場の中央へ。

 あとはその先で待っていた王によって正式に聖女認定の儀が行われる。


 俺は父を信用していないのでビアンカを預けても大丈夫かと心配していたのだが、幸いつつがなく進み、ビアンカの存在は公に知らしめられたのだった。


(平民上がりなら使いやすい)

(こちらの派閥に引き入れればアディリアンヌ家を潰すことも……)

(聖女か。話には聞いていたが、どう見ても力のなさそうな小娘ではないか。肩入れする価値すらない)


 そんな風に考える愚か者どもがほとんどな一方で、一部は好意的であるらしい。

 彼女と友人になりたいと考える令嬢、興味を抱く若き令息たち。パーティーを終えて自由になった彼女に群がっていく。


 それを笑顔で受け入れるビアンカはまさしく聖女だ。

 しばらく様子を遠くから見守っていた俺だが……こうしてはいられないと、彼女の傍に近づいた。


 ちょうどその時、彼女に三つの魔の手が伸びようとしているのがわかったから。


 一つは婚約者候補の伯爵令嬢。彼女は俺と仲良さげにしていたビアンカが気に入らず、祝辞に見せかけた嫌味を吐きかけようと企んでいた。

 一つは同じく属国の王女。今まで直接的な接触がなかったために聖女の噂は半信半疑だったらしいが、本当ならば自分の代わりに聖女が俺の婚約者候補になるのではと懸念。真っ先に恥をかかせればその事態を免れられるかも知れないと考えて、ビアンカのドレスにワインをかけるために動き出した。


 そして三つ目、公爵家の姫君はワインの中に蠱毒を忍ばせている。

 罪が全て王女に被さるようにと。


「聖女ビアンカ様とお会いできて光栄にございます……。その、もしよろしければワインをご一緒に」

(ごめんなさいね……聖女様。悪くは思わないで。私が王妃になるためだから……)


 気弱そうな声は、己の手にするものが蠱毒だなどと夢にも思わない王女のものだった。


「ワイン、ですか。ありがとうございます」

(飲んだことないけど、美味しいものなら飲んでみようかな?)


 頷くビアンカ。彼女は無邪気にその好意を受け取ろうとし――。


「それは俺がいただこう」


 ワイングラスは奪われた。もちろん、他ならぬ俺の手によって。


「優しさは美徳だが、これは覚えておいてほしい。この世の多くの人間はビアンカほど心が美しくないんだ。俺も、おまえが思うような立派な人間なんかじゃなかった。

 ……でも、おまえを守るくらいはしてやれる」


 グラスを傾け、ごくりと飲み干した。

 口に広がる焼け付くような甘味を感じるのが先か、倒れるのが先か。


 美しい音楽の流れる空間を引き裂くように、ガシャン、とガラスの割れる音が鳴り響いた。



◆◆◆



 最高に痛快な気分だ。

 これは俺ができる最大の意趣返し。愚か者どもは実際に傷つきはしないが……俺がただの手駒ではなかったのだと思い知るがいい。


 王子が蠱毒に侵され死んだとなれば公爵家の姫とて罪からは免れない。

 後継者が失せた王家はいずれ絶える。だからもう大丈夫だ。


 俺なんかが傍にいなくたってやっていけるくらい、彼女は立派になったはず――そう信じている。

 唯一悔やむことがあるとすれば、彼女と釣り合いの取れるような心の綺麗な人間を他に見つけてやれなかったこと。この先、友人や恋人ができ、幸せに暮らしていければいいのだが……。


 と、そう思っていた時だった。


「おうじ、さま?」


 俺を静かに見下ろすビアンカの口からぽつりと声が漏れる。

 そうだ、最後に彼女に何か言ってやらなければ。


 強烈な毒とだけあって効きが早いらしく、あまり残された時間は長くなさそうだ。ビアンカがこんな毒を味わないで済んで本当に良かった。

 薄れていく意識の中でそう思いながら、俺はやっとの思いで彼女に手を伸ばす。


(これは、毒? 早く、早く治してあげないとっ!)


 表情を変えたビアンカが駆け寄ってきて、指先が触れた。

 癒しの力が流れ込んでくる。解毒はできずとも、その力と心のあたたかさを感じられるだけで充分だった。


 『ごめんな』だとか『愛してる』だとか、色々言いたいことはある。でも全部何だかしっくりこなかった。

 色々と頭をよぎった結果、俺が選んだのは。


「ビアンカ」


 ビアンカが目を見開く。

 こぼれ落ちそうな金の瞳が美しく煌めいた。


「……おまえは、本当に可愛いなぁ」


 おまえがいてくれたおかげで俺の人生は退屈じゃなくなった。おまえを可愛いと思えたから、俺はこの最期を迎えられたんだ。

 可愛くてかけがえのない少女に、きっと通じないであろう心からの言葉を遺して、俺は逝く。


「え、ダメ。待って、王子様。やだ。嫌だよ。なんで……なんで治らないの!?」


 最後にビアンカの涙声が聞こえた気がして、それがなんだか申し訳なかった。






◇◇◇



 初めて王子様と出会ったのは、わたしが育ったあの孤児院に来てくれたあの日。

 わたしをいじめたり遠巻きにしたりしない王子様。あっという間に心を許して、浮かれるままに連れ回したのをよく覚えている。


 王子様が友達になってくれたから、わたしの毎日は楽しくなった。

 王子様が悩んでいたから喜んでほしくて、聖女になってあげることにした。

 王子様のためなら何でもできる気がしていた。


 でも。


 目の前の王子様が紫色の顔をして倒れているのに。

 なんで……なんでわたしは、治してあげられないんだろう。


 かすり傷でも病気でも治せる癒しの力。これがあったからわたしは聖女なんでしょ?

 なのに、どうして。


 王子様と一緒に出られる初めてのパーティーだと気合を入れて、ドレス選びも頑張って、楽しみにしていた。

 そんなパーティーで王子様が死にそうになっているのはなぜなのか、わたしには何もわからない。かろうじてわかるのは王子様の命を蝕んでいるのが強力な毒だということだけだ。


「え、ダメ。待って、王子様。やだ。嫌だよ。なんで……なんで治らないの!?」


 涙が溢れてくる。このままじゃ、王子様が死んでしまう。

 わたしは癒しの魔法を強くした。倒れそうになるくらい全力を出す。それでも手応えは何もなく、王子様の息が浅くなっていくのがわかった。


「殿下……?」


 他の令嬢たちを押し除けるようにして、一人の少女がわたしの方へやって来る。

 名前は確か、エカ……エカリーじゃない……エカーナ様、だっただろうか? 王子様と結婚することになっている人で、わたしを脅してきたこともある彼女だった。


「どうしてダイオニシアス殿下が、蠱毒を」


 『こどく』が何かわからない。

 でもわかるのは、彼女は王子様が倒れた原因を知っているようだということだった。


「王子様に何をしたの?」


 彼女と、わたしにワインを渡してくれようとした令嬢の二人を精一杯睨む。

 こんな目を誰かに向けたのも、誰かに対して怒ったのも、きっとこれが初めてだと思う。


 悪口を言われるのは好きではなかった。

 孤児院を潰すと脅された時は胸がキュッとなった。


 それでも仕方ないなぁと思って生きてきたけれど、どうしても今回だけ許せなくて。

 騎士の人たちに二人を捕まえるようにと叫んでいた。


(わたくし)を捕らえろ、ですって? 何を馬鹿なことを。(わたくし)はアディリアンヌ家の姫なのですよ! 本来ならあなたが!!」

「わ、私は何も知らない。知らないんです……!」


 反論も虚しく、取り調べのためにと連れて行かれる。

 二人の処遇がどうなるかはわからない。ただ、王子様を手にかけたことを悔やめばいいと思った。


 パーティー会場が騒がしくなる。

 でもわたしはそれをどこか他人事のように感じていた。


 わたしのせいで王子様が毒を飲まされた?

 いや、違う。……もしかして王子様は、知っていてワインを飲んだの?


 あのままじゃ倒れていたのはわたしだった。じゃあ、それじゃあ、わたしを生き延びさせようとして、王子様は。


 馬鹿だ。わたしは馬鹿だけど、王子様は最高の馬鹿だ。

 『俺もおまえが思うような立派な人間じゃなかった』と王子様は言っていた。でも、わたしなんかのために命を捨てられるなんて、あまりにもすご過ぎる。

 おとぎ話に出てくる英雄みたい。だから、本当に馬鹿なんだ。


「ひどい。ひどいよ……。自分の命を失うより王子様を失う方がわたしにとってどれほど辛いか、考えもしなかったのかな?」


 王子様のことが好きだった。

 今、やっと気づいた。この気持ちは友達への気持ちじゃなくて、恋と呼ぶべきものなんだって。


 王子様のことを思い浮かべると心が満たされたし、王子様といられるだけで幸せだと思えた。それは友達だからと思っていたけれど違ったのだ。


 この想いを伝えたい。でも王子様は目を開いてくれるわけもなくて。

 だからわたしは、天にいるかどうかわからない、わたしを寵愛しているという神へ祈るしかない。


「ああ、神様」


 ――「おまえは可愛いなぁ」と言っていただけるのが嬉しくて、ずっとこの夢のような時間を過ごしていたいと思ってしまっていたのです。

 ――わたしにかけてもらえた唯一の優しい言葉だったから、それを聞けなくなるのが怖くてたまらなかったのです。

 ――だけどわたしのせいでこんなことになるのなら、あの人さえ、あの人さえ助かってくださればわたしはもう、何もいりません。だからどうか、わたしの王子様を助けてください。


 祈り終えて目を開けると、そこにはほんの少し顔の血の気が戻った王子様がいた。

 でも……所詮、その程度。王子様が目覚めることは、なかった。


 そっか、神頼みでは、ダメなんだ。

 わたしがなんとかしなくちゃいけないんだ。


 わたしは今まで王子様にたくさん助けられてきた。だから今度はわたしの番。


 そう決めて、ギュッと拳を握り締めた。



◆◆◆



 視界は一面の暗黒だった。

 俺の命が蠱毒ですぐさま奪われなかったのは、俺もまた神の力を得た存在だったからかも知れない。それでももう時間の問題だろう。


 深い深い闇の中、奥底へと引きずられそうな俺を、愛しい少女の声が呼び止める。


(王子様)


 痛くて、辛くて、苦しくて、泣きたくて……今すぐにでも消えてしまいたい。

 にもかかわらずそれを聞いていたいと思うのはどうしてなのか。


 彼女と生きたいと望むのは、もうやめた。諦めたはずなのに。


(神頼みじゃダメなんだ。わたしがなんとかしなくちゃ)

(待ってて。絶対に、助けてみせる)


 そんなことしなくてもいい。全てはうまくいくんだから。


(ねえ王子様、聞こえる?)

(今日、王子様を治す方法を調べてみたの。でもわからなかった。ごめんね)


 ビアンカは俺のために泣き、それでも立ち上がった。


(王子様が苦しんでるのに国王様も王妃様も、誰もお見舞いに来ない。どうして?)

(お友達もみんな王子様のことを何も知らないくせに!)

(次の王様なんかどうでもいい。わたしが王子様が帰る場所を、国を守ろう)


 ビアンカは俺のために憤り、民の支持を集めて国に反旗を翻した。

 後継者問題でいずれ滅びゆく……俺がそう目していた王家は瞬く間にこの世から消え去り、俺の知人友人という名前の屑どもは全て追いやられたらしい。


(王子様、エカーナ?様から『こどく』のことを聞き出せたよ)

(『こどく』は生き物を混ぜ合わせて作る、とんでもない威力の呪いなんだって。それを聞いて、いいことを思いついたんだ)

(『こどく』が呪いなら、わたしも呪いを作る。神様に見捨てられて、聖女じゃなくなってもいい)


 やめろ。そんなことをしないでくれ。

 それにどうでもいいがエカーナじゃなくてエカテリーナだ。そんなところまでおまえは昔から何も変わらないのだから、純粋なままでいてくれればそれでいいんだ。


(王子様はきっとこんなこと望まないだろうけど……でも、でもね。わたしは王子様を愛してるから)


 愛……してる??

 待て。ビアンカにとって俺はただの親友。それ以上でも以下でもないはずじゃなかったのか。


 本当に、俺なんかでいいのか。

 ほとんど何もしてやれなかった上、心の醜い人間の一人に過ぎない、俺なんかで?


 ビアンカは己の髪を呪いの素材とした。

 術の対象者に与えることで呪いを跳ね返し、術者に永遠の苦痛を与える『呪い返し』。到底、純粋無垢たる聖女がやってはいけない行為だ。


 でも、ビアンカの心はどこまでも優しいままだった。


(大好きだよ、王子様)


 そんな声が聞こえたと同時、あたたかいものが俺の口元に触れる。

 全身が甘く痺れた。けれども蠱毒の時のような嫌な感覚とは全く違っていて。


 確かめるために薄目を開けると、そこには、最愛の笑顔があった。



◇◇◇



 ――ああ、やっと目を開けてくれた。

 王子様の宝石みたいに綺麗な青の瞳を久々に見れたのがたまらなく嬉しい。気づいたら視界が潤んでぼやけ、頬にあたたかいものが伝っていた。


 名残惜しく思いながら、口移しのために重ね合わせていた唇をそっと離す。

 『呪い返し』はうまく効いたみたいだ。聖女の力が消え失せていないのは神様も許してくれたということなんだろう。

 エカーナ?様は今頃苦しみ悶えているだろうけど、どうでも良かった。


 長く伸ばしていた髪は肩元まで切っている。でもきっと大丈夫、これでもちゃんとわたしだってわかってくれると思うから。


「王子様。王子様、おうじさま、おうじ、さまぁっ!」


 『こどく』のせいですっかり弱り切った王子様の胸に顔を埋めて。

 わたしは王子様がそこにいるのを確かめるように、何度も何度も呼び続けた。


 王子様は優しく笑いながらわたしを抱きしめる。


「ビアンカ、おまえって奴は……」


 その先の言葉は掠れて聞こえなかった。

 顔を上げて見てみれば、王子様も泣いていた。



◆◆◆



 ビアンカに支えられ、少しずつ体力をつけて……俺はやがて全快。

 それまでの間にたっぷり想いを伝え合い、俺が心を読めると打ち明けた時は驚かれたがそれでも受け入れられて、すぐに婚約と相成った。


 民たちに盛大に祝福されながら、俺はビアンカの手を取る。

 あの公爵家の姫君は『呪い返し』で死んだからもう何も心配しなくていい。身分もしがらみも関係なかった。


「大好きだよ、王子様」


 何度言っても言い足りないのか、ビアンカが輝かんばかりの笑顔で見上げてくる。


 ずっと彼女に触れたいのを我慢し続けてきた。でも、もうその必要もないのだ。


 いつも誰かの道具としか見られてこなかった俺にこんな幸せな未来があるなんて、考えもしなかったな。

 全てはビアンカのおかげだ。もしも彼女に出会えなければ、彼女が想ってくれなければ、俺は身も心も救われなかったのだから。


 胸に込み上げるのは愛しさ。

 溢れる感情のままに、すっかり短くなった彼女の波打つ白髪を撫で、口付けを落としたのだった。




「俺もだ。――ビアンカ、おまえは本当に可愛いなぁ」

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王家の影が買収されてるって状況が王家の能力不足を物語ってるなあ。そして呪い返しで死んだとはいえその時まで生きてたのすげえな王太子暗殺未遂しといて
[良い点] 周囲の人達の本音が聞こえてくるせいで未来に希望が持てず、自己肯定感が低かったせいか、自らを犠牲にしようとしてしまったダイオニシアスの心情に悲しくなりました。 本人も思ったように心の声が聞こ…
[良い点] カクヨムさんでは毎日めっちゃ続きを待っていました(人*´∀`)。*゜+ ハピエンにホッ♪
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