・草ボーボー状態をとやかく言ってくる人間が多いのも、短所の一つ
いい感じに草むらができ、バッタなどが定着し始めても、それが一瞬にして瓦解することがある。それも、自分ではない別の人間の手によって、だ。
つまり、草地ハビタット創出で最初に突き当たる壁にして最大の敵は、『人間』である、という話だ。
この世の中、草が生えている状態そのものを認めない、という草嫌い人間が多すぎるのだ。
そもそも道端や公園、空き地や街路樹の根元に草が生えているのは当たり前だと俺は思うのだが、『世の草嫌い人間』どもは、そうではない。
自分が利用するわけでも通行するわけでもない場所なのに、草が生えていることを異常に嫌い、管理者や行政に文句を言う。あるいは自分でむしったり、勝手に除草剤を撒いたりする輩までいる。
自分の土地でもない場所に、草が生えているからといって、そいつには何のデメリットもなさそうなのだが、草に親でも殺されたかというほど目の敵にするわけだ。
自宅に限らず、あらゆる空いた土地に、草が生えていることによるメリットは多々ある。
まず、土壌の流失が防がれる。地面を覆う草が無くなり、土がむき出しになると、風雨で砂や土が飛ばされ、次第に減っていく。巻き上がった砂やほこりは人間の呼吸器を傷め、洗濯物を汚し、自動車の表面を覆う。雨で流されれば水路を埋め、川底を上げ、海まで至れば磯を埋めて砂浜と化していく。残った土地は石や礫、重いゴミだけが残された殺風景な場所となり、住める生き物は極端に種類や数を減らす。
端的に言えば、徹底した除草は生物多様性の敵である。
ただ草がない、というだけで、こうした状況になるわけだが、逆に草さえ生えていればこれが防がれる。
大げさかもしれないが、国土を守っているとも言えるわけで、やたらに除草したがる奴らは、国土を減らす手伝いをしているのだと、俺は言いたい。
さらに、植え込みや道沿いに点々と残された草むらは、昆虫などの小動物が飛び石的に移動する道筋ともなり、地域の生物多様性の維持にも貢献している。
また緑視率といって、緑が視界に入ることで、心理的な潤いや安らぎを得る効果もあるらしい。夏の高温期には照り返しを防ぎ、葉の蒸散作用は周囲の温度を現実に下げる。昨今の異常な暑さの原因の一つに、草を目の敵にして、やらなくていい場所をアスファルトやコンクリで埋めてきたことがあるのは間違いない。つまりこれは、草嫌いの人間どもによる人災でもあるといえよう。
そりゃあもちろん、草が生えていることでのデメリットもある。
日本の草の勢いは、前述のとおり恐るべきものだ。歩道に草が大量に生えてしまうこともあり、そうなると、子供やご老人、障碍者の方が通行できない可能性がある。
繁茂しすぎれば、車道から歩行者を視認しにくくなることもあり、交通安全上の問題もある。
ポイ捨てをするクズ人間どもは、好んで草むらにごみを捨てる。開けた場所にポイ捨てするより、隠して捨てた方が、心があまり痛まないという、妙な心理が働くようだ。まあ、どこに捨てようがポイ捨てはポイ捨てなわけだが、捨てられやすくなるのは困る。
そもそもポイ捨て自体が無くなれば、こんな話は必要ないわけだが、残念ながらポイ捨て人間どもは極めて低能力なので、ポイ捨ての習性を矯正することはできないのである。
また、公園が背丈ほどもある草で覆われていたらどうだろうか。
ベンチで休むにも、たどり着くのに一苦労。球技は難しいだろうし、鬼ごっこはゲリラ戦の様相を呈し、変質者も潜みやすくなる。
道端に生える草の9割くらいが外来種であるのも悩ましいところ。草を守れと叫ぶことは、外来種を守れというのに等しいわけで、声を大きくできない理由の一つでもある。
しょっちゅう踏まれ、除草され、乾燥気味で、安定しない場所というのは、はるばる外国からやってきてでも定着しようという、バイタリティのある外来植物にとって、いい生息場所になっているわけだ。
と、まあ、こうしてデメリットを並べていくと、草を嫌う人の気持ちも分からんでもない。だが、公共の場は仕方ないとして、他人の土地が草ボーボーであることまで、とやかく言う人がいて、これは余計なお世話以外の何ものでもないと思う。
実際、俺的基準ではべつに草ボーボーでも構わんだろうという場所に、ご近所からの苦情で草刈りに行かねばならないことがある。
それどころか、祖父の住んでいた空き家の庭、つまり前述の百坪ほどの草地を放置していたら、本家のおじさんがやって来て勝手に草刈りをしていく。
せっかくホトトギスやナデシコ、在来タンポポなどを植えていたのが根こそぎ刈られたのに、御礼を言わねばならないという、じつにめんどくさい状況にもなった。
つまり、他人の所有地といえども、草が生えていること自体が許せないという感覚の人がけっこういるわけだ。
とはいえ草ボーボーだと、管理していないと判断して泥棒に入る奴らまでいるらしいから、この感覚も実は侮れない。
じゃあ、どうするのか、といえば、できるだけ文句を言われないような草の生え方を目指すしかなくて、それが「自宅ビオトープの草地ハビタット」の着地点となるわけだ。