バラドル製造工場
パンパンと両手をはたいた後、少尉殿は玄関の扉を叩きつけるように閉じた。そして荒い足音を立てながら居間に戻って来ると、ドカリとちゃぶ台の前に腰を降ろす。
手を付けられぬままのグラスを掴むと、少尉殿はそれを一気に呷った。口元から褐色の液体が溢れ、上下する白い喉の上を水滴がいくつか伝っていく。やがて空になったグラスを乱暴に置き、彼女は口元を拭ってから苦々しげな声を押し出した。
「……バカにして」
涙目である。
あんなに有能だった少尉殿が、なぜにこんなポンコツと化してしまったのか。答えは分かっている。少尉殿が彼女の『副脳』と接続していないからだ。
副脳とは何かを強いて例えるならば、それは『三百年かけて進化した携帯端末』のような物である。この世界の人々が携帯から様々な支援を受けるのと同様に、僕らも副脳によって自分たちの処理能力を強化している。
その機能の一つに、情報収集能力がある。何かを調べようと思ったその瞬間に、関連する情報をアクセス可能なネットから集めてくるのである。得られた情報は、まるで以前から持っていた知識であるかのように扱う事ができる。僕が初めて見る道具の使い方を一瞬で理解し、聞いたことも無い日本語を流暢に操る事ができているのはその機能のお陰である。
三百年先の世界では、記憶や体験そのものを情報としてやり取りできていたため、この世界のネットはまるで牢獄のように不便極まりない。それでも、副脳が集めてくる動画や画像、文字情報は大いに役に立つ。
反面、携帯端末と違って副脳は手軽に扱えるような代物ではない。A3に搭載して運ぶ必要があるほど大きく、また重い装置だ。それに使用者の神経構造と深く結びつくために、他の人間が使用する事はできない。個人の完全な専用装備なのである。
そんな掛け替えのない副脳を、少尉殿はA3に搭載したまま荒川の底に放置している。破壊されたのか、ただ動力を失って仮死状態に入っただけなのか。いずれにせよ、副脳との接続を失えば生身の脳だけで全てをこなさねばない。こうなるのも当然の結果と言える。
鼻をすする少尉殿を前にして、僕は密かにため息をついた。激しく気が進まないが、聞かない訳にはいかないだろう。
僕は重い口を開く。
「さっきの話ですが、何があったのか詳しく聞かせてもらえますか、少尉殿」
僕の言葉に少尉殿は顔を逸らし、前に置いたグラスをどかしてちゃぶ台に突っ伏した。物言わぬ少尉殿のつむじに、僕の視線がただ注がれ続ける。そんな不毛な時間がしばらく続いたあと、彼女は顔を上げぬままブツブツと事の顛末を語り始めた。それを聴きながら、僕はネットからの情報収集を開始する。
※
「わかりません!!」
少尉殿の悲痛な叫びがスタジオに響き渡る。
土曜午後八時から放映されている『バラドル女学院』。
バラエティアイドルを育成する学校、という設定のクイズ番組である。そのコーナーの一つである『実践教養問題』に、少尉殿は女学生の一人に扮してゲスト出演していた。
「……あんたね、分からないと答えて笑ってもらえるのは三回までよ!!」
教壇に立つスキンヘッドの大男が、ハリセンを両手でへし曲げつつ野太い声をがなり立てる。彼の芸名は『ジョー顎沢』、その名が示す通り、逞しく割れたアゴがトレードマークの担任役だ。
「次また同じ回答をしたら、コレでしばくから覚悟なさい!」
曲げすぎてグニャグニャになったハリセンを少尉殿に突きつけ、顎沢は暑苦しいタンクトップ姿で圧力を放つ。それを余す事なく浴びた少尉殿は、涙で潤んだ目を激しく泳がせながら口をへの字に曲げている。僕には分かる。これは本気で困っている時の顔だ。
少尉殿が力無く着席する様を見ながら、他の女生徒達が様々な種類の笑い声を上げる。少尉殿の他に七人いる彼女らは、この番組のレギュラーを務めるアイドル達だ。笑いを織り交ぜつつテンポ良く番組を進行させている彼女らに対して、少尉殿の状況はあまりにも芳しくない。副脳のアシストが無い以上、知識量を問われる競技は鬼門である。少尉殿の目が泳ぐ速度は増すばかりだが、そうこうしている間にも黒板に新たな問題が書き足されていく。
「次は国語の問題よ!」
″一 ⬜︎ 一 ⬜︎ ″
「この四角に漢字を当てはめて、四字熟語を完成させてちょうだい。例えば一喜一憂、一世一代などがそうね。出来た子からどんどん答えなさい!」
顎沢の合図と共に、女生徒達がフリップボードへと文字を書き込み始めた。一方、少尉殿は歯を食いしばりながら頭を抱え、目を固くつぶって必死に黙考している。
一朝一夕、一長一短、一進一退。他の女生徒が次々と回答していく中、思いつく物があったのだろう。顔を輝かせた少尉殿は、ボードに何かを書き殴ったあと勢い良く右腕を挙げた。
「よしハナ、見せてみなさい」
「はいっ!!」
少尉殿が勢いを込めて机に突き立てたボードには、お世辞にも上手いとは言えない字でこう書かれていた。
″ 一人一個 ″
顎沢の薄い眉毛が片方だけ持ち上がる。
「……コレどういう意味?」
「一人につき、一個だけ買っていいよという意味です!」
「買うって何をよ」
なんでそんな事を聞くんだとばかりに、少尉殿が困惑の表情を浮かべる。
「定番は卵でありますね」
「……なるほど。だいたい想像ついてきたけど、一応聞いとくわね。どこで知ったの、その言葉」
「よく行くスーパーです。あの頃は文字がよく読めてなくて、『お一人様一点のみ』のコーナーに積んであった卵パックを二つ、カゴに入れてレジに並んでしまったのです」
少尉殿の顔が曇る。
「そしたら、後ろに並んでいる人から物凄く大きな声で怒られて。だいぶ前の事なのに、『アンタ、それ一人一個だよ!』という声が今も忘れられないです。……でもあの失敗がこうして役に立っているのだし、悪い事ばかりではないですね」
ふふ、と微笑む少尉殿とは対照的に、顎沢は沈痛な表情を浮かべて目を伏せている。
「……ハナ。言い辛いのだけど」
わずかにためらった後、彼は苦い声で言った。
「不正解よ」