我が名は
マサと別れたあと、僕らはスーパーマーケットに立ち寄ってから帰路についた。日はとっぷりと暮れて、点々と続く街灯が人の往来の無い道を照らしている。
僕の右手から提がっている食材で一杯のビニール袋は、何度も再利用されているらしくシワだらけだった。一枚5円という誤差のような金額で購入可能なのに、破れて大惨事が起きるまで使い続ける腹づもりのようだ。これに限らず、少尉殿は生活のあらゆる面でコスト削減への執念を燃やしているようだった。
……こんなどうでもいい事に考えが向かってしまうのは、恐らく僕が現実逃避をしているからだと思う。河の底に沈む少尉殿のA3。正気に戻れば、僕の頭の中は常にそれで一杯だ。
「軍曹、まだ怒ってるのか」
隣を歩く少尉殿が、気まずげな上目遣いでこちらを見ていた。
「今夜はお前が食えそうなものを考えたから。それで機嫌直せ、な?」
「事の重大さを理解していないようですね、少尉殿」
僕の冷淡な対応に、少尉殿の顔がむくれ上がる。彼女は前方に視線を戻すと、唇を尖らせたまま呟いた。
「お前はホントに心配性で気が小さい。私がついててやらんと間違いなく病むな」
あなたのせいで今にも病みそうなのだが?!
僕の怒りが再燃したその瞬間、少尉殿が急に立ち止まった。怒りをぶつける寸前に気を削がれた僕は、彼女の横顔が見ている先を追った。
街灯に照らされて、一台の車が少尉殿のアパートの前に停まっている。そのドアが開き、二つの人影がこちらへと向かってくるのが見えた。男性と女性が一人ずつ。女性の方はこちらに駆け寄っている。
「……性懲りも無くまた来たか」
耳にした声色に只ならぬ敵意を感じた僕は、前に出て身構える。だが、それを少尉殿の右手が制した。
「大丈夫だ、荒事にはならん」
※
アパート内、少尉殿の部屋。
蛍光灯に照らされたちゃぶ台の向こうに、二人の客が座っている。
一人は二十代中盤の女性。黒髪を肩あたりで切り揃え、キッチリと紺色のスーツを着込んで正座している。その見るからに気が弱そうな顔には緊張の色が浮かんでいた。
もう一人は四、五十代と推定される、茶髪を短く刈り込んだ細身の男性だ。明らかに作りの良い黒のスーツを身にまとい、片膝を立てて寛いでいる。
麦茶の入ったグラスをちゃぶ台の上に並べると、少尉殿は盆を脇に抱えて吐き捨てるように言った。
「それ飲んだら帰れ」
「ずいぶんな塩対応じゃねぇか、まだスネてんのお前」
呆れたような男性の言葉に、少尉殿の目が見る見る釣り上がっていく。
「事の重大さを理解していないようだな、貴様」
「すみませんハナさん!!社長ぉお、そんな態度でどうするんですか!!何のためにここに来たのか分かってますよね?!」
「働かない不良タレントを社長自ら叱りに来たんだろ?ていうか」
社長と呼ばれた男性は、部屋の隅に座る僕を指差す。
「ハナ、おまえいつの間に分裂したんだよ」
「分裂などするかバカが、こいつは私の弟だ!!」
それを聞いて驚いた彼は、ちゃぶ台に身を乗り出した。
「弟だぁ?初耳だぞ。なんで隠してた」
「生き別れの身内を探していると以前から話していたではないか!つい先日、ようやく再会したばかりだ」
「おお!!よかったじゃねぇの!!坊主、名前は」
名前?……名前か。
僕は少しばかり考えてから答える。
「ジローです」
僕の製造番号の末尾が26だから。少尉殿のハナという名前と同じ命名法だ。なぜか少尉殿が満足気に頷いているのが視界の隅に入る。
「マジかよお前、そんな女神様みてぇなツラしといてジローときたか」
笑い出す社長に少尉殿の顔が一瞬で怒気を孕む。僕も少しばかり不快な気分だ。僕らは確かに兵器ではあるが、人としての特質は一通り与えられている。軽んじられれば腹だって立つ。
「ずいぶんなご挨拶ですが、あなたは?」
男は笑うのをやめて片眉をあげると、気を取り直したように笑顔を作り直す。
「悪かった。オレは春野ってもんだ。で、こいつは和泉。お前の姉ちゃんのマネージャーだ」
「和泉です。ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
僕は二人が差し出してきた紙片を受け取った。
”株式会社目黒芸能 代表取締役社長 春野慶次郎″
″第三マネージメント部 マネージャー 和泉祥子″
なるほど。少尉殿が所属する組織の人間か。
「ハナは会ったばっかの頃ロクに言葉がしゃべれなかったもんだが、お前は日本語を流暢に話すなぁ。コイツと再会するまで、どこで何してたんだ?」
「……説明しづらいですね」
「なんだそりゃ、どこぞのスパイみたいな事言うんだな」
濁された返答に不満げな表情を作った後、社長は素早く畳の上をにじり寄って僕の肩の上に手を置いた。そして不吉な笑顔を浮かべつつ、生理的に寒気がする声で僕に囁く。
「なぁ少年、ちょっとばかしテレビに出てみんか?お前の姉ちゃんがサボるもんで困ってるのよ。お前、ルックスだけじゃなくて雰囲気もあるし、下手すりゃ姉ちゃんよりも売れるかもしれんぞ。どうだ?」
「その姉が、あなた方にかなり立腹している様子なのですが。何か思い当たる理由はありますか?」
肩に置いた手を僕にやんわりと払いのけられた社長は、苦笑しつつ答える。
「ちょっとした見解の違いよ。コイツは芸も愛想も無いもんで、神掛かったルックスの割に売れ方が物足りなかったんだ。その上重度の人見知りでイベントも無理ときた。切羽詰まって無理やりクイズバラエティに出してみたらまぁ、この賢そうなツラで全問不正解ていう結果を叩き出してなぁ」
話しながら思い出したのか、彼は愉快そうに笑い始めた。
「それが滅茶苦茶にウケまくった。美味しい展開だろ?オレは遂に突破口を見つけたって思ったね。ところがコイツときたら、バカにされただの何だのと的外れな理由で怒り出してな。もう一月以上仕事をサボってんのよ。ていうか本当にバカなんだから、そもそも怒る権利無ぇだろって」
今や苦しそうに笑う社長をよそに、部屋の中が異様な圧力に満たされていく。
引きつった表情の和泉マネージャーが、少尉殿の顔を恐る恐る盗み見て声にならない悲鳴を上げた。そして弾かれたかのように立ち上がると、未だに笑う社長の襟を背後からガッシリと掴んで叫ぶ。
「ハナさん、ジローさん、お詫びに来たと言うのにこの始末、ほんとうに申し訳ございません!!夜も遅いですし、また出直して来ます!!」
和泉マネージャーが社長を引っ張っていくのを他所に、少尉殿は台所に駆け込んだ。そして戻ってくると、玄関を出ていく二人の背中に正体不明の粉を投げつける。
拳を突き出しながら、彼女は叫んだ。
「二度とくんな!!」